朱位昌併エッセイ連載「霜柱を踏みしめて アイスランド、土地と言葉と物語」#2
アイスランド在住の詩人・翻訳家・研究者の朱位昌併さんが、言葉や文化の切り口からアイスランドを紹介する連載、「霜柱を踏みしめて アイスランド、土地と言葉と物語」。第2回は、渡氷後の過酷なアイスランド語学習の日々と、その中で出会った物語についてです。
#2 並足よりも遅く
自分の足で歩かなければ、なかなか道を覚えられない。延々と道なりにゆくだけでも、辺りを見回しながら歩くことが欠かせない。すくなくとも昼と夜に往路と復路をそれぞれ2回ずつ、できればのろのろ歩きたい。道中の標識を眺め、足首と太ももで坂の傾斜を感じ、いちじるしく塗装の剥げた人家の窓枠を見ては、長いこと同じ住民が住んでいるのか、と想像し、名前の代わりに番号だけとなった表札を見ては、ここも民宿になったのか、と淋しくなる。帰り道の不安を減らしたければ時おり十字路で立ち止まっては振りかえり、後方に広がる光景を目に馴染ませることも忘れてはならない。もし走るか自転車に乗るかして速度を上げてしまえば、塀にへばりついている苔や路傍に寄せ集められた雪だまりといった種々雑多なものは、視界だけでなく実際の道からもそぎ落とされるべき障害となってしまう。速さに応じて、道はどんどん線に近づいていく。
アイスランドに来てからというもの、目的地まで直進するよりも、道中で気になったもののために脱線することをよく愉しんでいる。ひょっとすると、これまでのアイスランド語学習の道のりが、実際の足の動かし方に影響しているのかもしれない。日本で外国語を学んでいたころが舗装路を歩いていたのだとすれば、アイスランド大学での日々は、どこまでも開けた銀世界の雪道をかき分けて歩くことに近かったのだから。目指す山は見えているし、幸い雪も降っていない。けれど、見渡すかぎり白く平らで、一歩踏み出した途端、雪にはまり込んで身動きがとれなくなるかもしれない。そんな道を歩いてきた。
成り行きで渡氷を決め、半年分の給付奨学金を取得した私は、アイスランド大学の「第二言語としてのアイスランド語」という学士課程に進学した。そこで最初に受けた授業は、アイスランド語文法についてのものだ。指定された教科書を携えて教室に入ると、すでに40人ほどの同級生が集まっている。ほとんどが欧米人のようだが、アジア人らしき学生も数人いる。板書がよく見え、かつ陽気に話す学生の熱量が届かなそうな席を、前から2列目の壁際に見つけた。そそくさと座って時計を見ると、針は授業開始の8時20分を指すところ。不意に背後で蝶番がきしむ音がした。木製のぶ厚い扉を押し開けて入ってきたのは、裾がゆったり広がった海苔色のワンピースに身を包む壮年の女性だった。
静まり返った教室の教壇に立った彼女は、手早くコンピュータを立ち上げて資料を投影する準備を終えると、口角を上げて „Góðan daginn“(「こんにちは」)と第一声を発した。簡単な挨拶だけど、ちゃんとわかる。生のアイスランド語を聞き取れたことに興奮していると、„Ég heiti M…“(「私の名前はM…」)と教員Mは自己紹介をつづける。これもわかった。が、理解できたのはそこまでだった。一文一文たっぷり間を置いて話した彼女は、今度は食い入るように自分を見つめる学生を見渡したあと、滔々と長文を吐き出しはじめたのだ。
実際には大して長くなかったのかもしれないが、語学教材のCDに収められたアイスランド語よりもずっと速くて複雑に聞こえる。いくつかの単語を拾うのが精いっぱいで、おそらく授業概要を説明していたのだろうが、確証はまったくない。そのうち小躍りしそうなほど軽快に話す彼女に呆気にとられたものの、今わからなくてもあとで配布資料を見直して、それでもわからなかったら英語で質問すればよいか、と思い直す。しかし、ほんの30分後、それは甘い考えだったと思い知ることになる。
授業の休憩中、ロシア出身の同級生がプリントを片手に「説明されていた内容がよくわかりませんでした」と英語で訴えていた。対するM先生は、何度乞われてもアイスランド語でしか返答しない。「アイスランド語で話されても、まだ部分的にしかわからないんです!」となおも必死に英語で食い下がる学生を前に、彼女は降参したと言わんばかりに両手を挙げた。抗議か質問のために列をなす学生たちに席に着くよう指示をし、静かな教室に短いため息を落とすと、一語一語はっきり区切って宣言した。„Ég tala bara íslensku“(「私はアイスランド語しか話しません」)これは彼女個人の加虐趣味では決してなく、どの教員のどの授業でも徹底される方針であり、つまり学生は自力でなんとかするしかない。歩き方を教えてもらえると思っていたら、ただ歩けと助言をされたような気持ちになった。
アイスランド語がわかる友人に理解できる言語で解説してもらうか、わけがわからなくても授業に出席しつづけて霊感が宿るのを待つか、シラバスに罵詈雑言を吐いて帰国するか。3年間の学士課程をやり遂げる方法は、学生それぞれが模索するしかない。先のどの方法も実例をみてきたが、私を含めて最も多かったのは、持ち合わせの知識をもとに必死に予復習する、というものだった。
幸いなことに、文法の授業を理解するのは、さほど難しくなかった。とくにはじめのうちは基礎文法の復習だったため、アイスランド語を聞き取るのが不得手でも、何について説明されているかさえわかれば、そこで使われる表現を知ることができる。しかし、アイスランドに来るまでに学んだ文法は1か月も経たないうちにすべて扱われてしまい、授業を理解する手掛かりは早々に消え失せた。それからの授業は予習なしには何も――予習をしてもほとんど――わからず、あらかじめ新出単語を辞書で調べておくのはもちろん、そもそも文法書で使われている文法がわからないので、説明文も例文もなにもかも丸々ノートに書き写して読解した。語形変化の説明で使われる単語の語形を調べ、品詞について説明している文を品詞分解する。トレッキングポールで目の前の雪をつついて問題なく進めるか確かめるように、一語一語つぶさに見ていくが、文法書には、そこで説明されている語法に反する文章も載っていた。そんなときは、自分の理解が正しいかを確かめるべく、授業前に質問を練り上げておいて、休憩時間に教員に投げかける。期待した内容の返答が得られないか、返答で使われている表現を理解できなかったのは一度や二度ではない。理解できるまで食い下がることもあったが、自分以外の質問者が列をなしていると、十分に返答を理解できないまま „Takk fyrir“(「ありがとうございます」)と見栄を張ってから出直すこともあり、また、次の授業に出直そうと考えていても、山と積まれた予復習をこなすうちに、何を訊きたかったのか忘れてしまったことも度々あった。
アイスランド語の面倒な語形変化を身につけるための反復練習や例文の丸暗記を、文字どおり朝起きてから夜寝るまでつづけ、ようやく教師が話していることがなんとなくわかり始めたころ――とは言っても授業中に突然はじまる雑談には天を仰ぐばかりだったが――、児童書を読んでレポートを書く課題が出された。基礎文法を習い終えていないのに、という学生たちの抗議は「わかっていますよ」と情のこもった微笑みだけを返す教師陣に黙殺され、とにかく2冊の課題書のうち1冊を選ばなければならなかった。私が選んだのは、詩人として名高いゲルズル・クリストニ(Gerður Kristný)著Garðurinnである。
たいてい「庭」や「庭園」を意味するgarðurという語だが、本作の内容を考慮すると、タイトルの一語が「墓地」を意味するkirkjugarður(教会の庭)を指していることは明らかだ。この本について、アイスランド語読解の授業を担う教員Sは、「もう一方の本に比べると短いのですが、現代のアイスランド人の生活だけでなく、1918年から1919年にかけてとくにレイキャヴィークで猛威を振るったスペイン風邪や、今と一昔前のアイスランド語の違いについても学ぶことができる素晴らしい本です」と太鼓判を押した。彼女の発言の前半部分に惹かれて読んでみると、なるほどたしかに、レイキャヴィークの父と称される人物の銅像がある小さな広場に18世紀末まであった教会のことや、そこに埋葬された人々についての言及があり、何度か歩いたことのある場所の下にあるものや、過去にそこで起こった出来事について意識せざるをえなくなる。しかしホラー小説に分類される本書を読んでいて何より驚いたのは、視点人物の息づかいをアイスランド語の文章から感じとれたことだ。
それまでアイスランド語で読んでいたのは、乾パンのように硬質な文法書か、10ページにも満たない短い話ばかりだったため、ひとつの風景や物事をめぐって変化する語り手の語気をありありと感じられたことはとても嬉しく、そして、たぶんこのまま勉強して大丈夫だと、ひどく長くて大きな安堵の息がもれた。
しかし、文芸書――その対象読者が10歳前後だとしても――を読むには、やはり語学の教科書を読むよりも根気よく取り組まなければならない。ぶつ切りの会話、辞書に載っていない語句や語法、馴染みないアイスランドの常識などに出くわして、本を読むための事前知識や能力が自分には備わっていないことを1ページのうちに何度も痛感して気が遠くなる。慣用句でもないのに「オオウミガラスの卵が5つもある巣を前にしたように」嬉々とした、と言われても、そのおかしみは歴史の知識なしには理解できない。だが今読んでいるのは課題書だ。泣き言を並べたところで目の前の文字が消えることはない。とにかく読み進めなければならない。
約150ページを読むのにたっぷり2週間を費やしてひたすら前へ前へと進むことだけを優先させた結果、あまり細部は記憶に残っていないが、それでも印象に残った箇所はいくつかある。そのひとつが、主人公の女の子エイヤが英語の宿題に取り組む場面だ。
基礎的な語彙が足りないため、語の一部だけを手掛かりに的外れな語意を類推してしまうのは、自分にも憶えがあった。的外れな検討をして、むしろそれがきっかけで覚えられることもあるが、その数を数えあげても両手の指で足りるくらいだろう。エイヤの場合と違って、アイスランド語学習で問題になるのは、辞書を引いたところで疑問が解消されないことがあることだ。
たとえばAという語を調べて、その意味が「BやC」と説明されていたとする。残念ながら、BとCのどちらの意味も知らないので、とりあえずBを引いてみると「AやC」という意味だと書かれている。嫌な予感がしつつもCの項目をみると、その意味は「AやB」だとある。項目が循環していて、はじめからどれかの語を知らないと結局意味がわからないままであることは、アイスランド語辞典では珍しくない。そんなときは別の辞書を引く必要があり、もしそれでも解決しないなら氷英辞典などの二言語辞典を引かねばならないのだが、そこには訳語がひとつ載っているだけかもしれない。Aの訳語が「X」と書いてあれば、ようやくAの意味を知ることができるのだが、BとCの訳語にもXが充てられていて、まるでA、B、Cの語義には違いがないかのように記述されている可能性がある。ネイティブにとっては明らかな違いがあるとしても、それが辞書に載っていないことも、やはりそれほど稀でない。
なんとか2000語のレポートを書き終え、期末試験も乗り切ったあと、大がかりな焚き火や打ち上げ花火など、読み終えた児童書に描かれていた大晦日の賑やかさを楽しみにしながら、来学期の課題書を手に取った。きっと冬休みのうちから読み始めないと間に合わないからだ。3冊の課題書のうちから選んだのは、教員Sが「あなたが秋に読んだ物語は新年を迎えてからすぐに終わるけれど、こっちの語は大晦日から始まるの。ミステリのような高揚感はないけれど、アイスランド文学に興味があるなら面白いと思う」と勧めた、オイズル・アーヴァ・オウラヴスドッティル(Auður Ava Ólafsdóttir)の4作目の小説Undantekningin(『例外』)であった。
極地の黒い夜、銃声のような音を立てて花火が飛び交うなか、主人公のマリアは、夫とともに自宅のベランダに佇んでいる。目の前でシャンパンを注ぐ人生の伴侶が口にしたことは、なにかの聞き間違いでないか。彼女は訊き返す。彼はもう一度告げる。喧噪のなかでも、今度ははっきり聞こえた。
オイズル・アーヴァの作品に共通する要素が、この小説にも散見する。抑制されているが力強い語り口、狩りや食事のモチーフ、映画や文学作品への言及。これらを取り上げて読む誘惑に駆られるが、初読時に目に留まったのは、ときおり現れる厳密な文法規則から外れた言葉だった。
重々しくも淡々とつづくモノローグや会話のなかには、時おり文法的に不完全な表現が混ぜ込まれている。冷静さを保とうとする意識が麻痺した一瞬をついて浮き出るようなそれは、周囲の言葉と馴染みきれておらず、生々しい。型にはめ込みきれなかった言葉が、しかし、なんとか前後の文を接着している。Garðurinnを読み通したこともあってか、今度はそうした不完全な文に苛立つことはなかった。むしろ、そうでないとならないと感じたほどである。マリアの夫フロウキは、一方、文法的には完全な文ばかりを吐き出すのだが、立派な佇まいの言葉に反して、正直であろうとする彼は、口を開くほどに厭わしくなっていく。
物語の冒頭で夫から一方的に別れを告げられ、のちに「ぼくのことで自分を苦しめるのはやめるんだ」とまで言われるマリアの前には、それまでまったく交流がなかったにもかかわらず海外から突然会いにやって来る実父など、自分の想いを押し通そうとする男性が他にも現れる。彼らに翻弄される彼女だが、実は都合のよい〈男らしさ〉を欲してもいる。しかし、そのほとんどは実現しない。もしくは、ただ彼女を苦しめる結果に終わる。
あるとき、バンビという愛称の息子が公園で大きな石を手に取るのを見て、いまにも車か窓か政府か母親に向かって投げようとしているのではないか、とマリアは期待する。そうしてくれれば、フロウキに「あなたの息子が石を投げること、男社会の立派な一員になれるように男性性を鍛えていること、それからたぶん男の人を木に縛りつけて殴ることが必要なことに気づくだろう」と話せるはずだ、と。しかし幼い息子は「武器を下ろすことを決めた革命の指導者」のように指をひらいて母親に石を手渡すと、そのまま彼女の首に抱きつくばかりである。
またあるとき、バンビを美容室に連れて行って「メンズカット」にするよう注文するマリアは、美容師が躊躇いがちに「自分の息子だったら、そんな髪型にはしません」と言うのを無視して、息子の巻き毛を刈らせてしまう。たとえ今は自分のことを一人称égを使って話せない「小さい男」であっても、将来男になる息子が公共の場で感情的な弱さを見せることを恐れる彼女は、不安気な彼を「パパみたいに格好よくなるから」と手を握って繰りかえし励ます。散髪後に息子は、母の言葉を繰りかえして「バンビ、パパみたいにかっこいい」と口にするが、マリアは、母との思い出として今日の出来事が息子の記憶に残るのではないかと想像して気が重くなり、さらにバンビが高熱を出したときには、自分が短髪にさせたことが原因だと後悔する。
本書を読み進めていくと、「人」「男」「夫」などと、定冠詞や所有代名詞の有無や文脈によって訳し分けられるmaðurという語の多義性を否応なしに追いかけることになる。アイスランド語の文章を読みなれていれば、微妙に揺れる語義のなかから難なく相応しい訳語を選びとることはできるだろうが、何度も同じ語が――ときには複合語の一部として――提示され、くわえて精神分析のモチーフが執拗に繰り返されることで、maðurが内包する広い語義を考えずにはいられない。
そういえば、アイスランド語を学びはじめたときには、maðurの意味はまず「男」だと習った。おそらく語の持つ多義を説明して初学者を混乱させるのを避けるための措置であり、その語が「人」も指し示すことを蔑ろにしたわけではないだろう。また、たいていの教本で、家族についての表現が早いうちに教えられることも関係しているのではないだろうか。冠詞と所有代名詞を付けてmaðurinn minnとするか、「自分自身の所有する、自分自身に属する」という意のeiginを組み合わせた一語eiginmaðurと言えば、それは「夫」を意味する。「人」よりも「男」を意味するとはじめに意識づけておくと、教科書から逸れることなく授業を進められ、かつ細かいことを気に掛ける学習者の質問をあらかじめ避けることができるので、教える側にとっては苦労がすくないのかもしれない。邪推である。ただ、「男」を最初に結び付けながら覚えた結果、私は長いことmaðurという語を見ると、まず男性を思い浮かべるようになっていた。それを打ち消すには、様々な意味を込められたmaðurを見聞きするしかなく、そのうちのひとつが第4代アイスランド大統領を務めたヴィグディス・フィンボガドッティル(Vigdís Finnbogadóttir)の言葉だった。
それまでにフランス語教師やレイキャヴィークのとある劇場で芸術監督をしていたヴィグディスは、1980年に大統領選に立候補した。彼女を応援する声がある一方で、未婚であること、女性であることを疑問視する声も少なくなかった。あるテレビ討論で「あなたが女性であるからあなたに投票すべきなのか」と問われた際、ヴィグディスは、私が女であることを理由に票を投じるべきではない、と断言した。理由にするのであれば、むしろ私が人(maður)であることをすべきである、と。そして、「maðurという語には男(karl)と女(kona)のどちらも含まれている」と凛と言い放った彼女は、同年6月29日、アイスランド大統領に選出された。
同級生――とくにゲルマン語派の言語が母国語の――に比べて鈍足にではあるが、同時代の言葉だけでなく、中世の詩群や散文群、近世の聖書翻訳の一部、近代に収集された民話などを、ときに授業の課題書として、ときに気の向くままに眺めてきた。アイスランド大学のカリキュラムは、読書よりも会話を望む学習者にとっては、どこまでも苦痛かもしれない。年々半数以下に減っていく同級生たちのことを思うと、自分はたまたま耐えられた、と弱々しく軌跡を肯定することしかできない。私がアイスランド語を読みつづけられたのは、その時々に出会ったテキストに引っ張られてきたからであり、その道のりを振りかえるなら、読んだものを書き出すだけで十分ではないだろうか。はた目には、「どんな道を歩んできたのか教えてほしい」と訊いたのに、街路名だけを列挙され、それらを地図上で繋げた線を見せられたのと大して変わらないかもしれないが、その線を実際に辿ってみると、きっとそれぞれに立ち上がる情景があるだろう。
さて、もしアイスランド語を学びたい人になにか助言するとしたら、話すのでも読むのでも聴くのでもよいから、自分がつづけられる方法や対象を決めて愚直に量をこなすのはいかがか、と提案したい。読むことが私の性には合っていたが、他の人にも当てはまるかはわからない。だから、最初の一歩を踏みだす前でも進みながらでもよいから、自分に合った靴を、もっと歩きたくなる靴を見つけることを勧めたい。また、もしアイスランド語なんてマイナー言語を学ぶことにケチをつけられたら、逆にどうしてメジャーでなければいけないのか、と問い返すのはいかがだろうか。Undantekninginに登場する精神分析家のペルトラ――マリアの相談相手を担い、ミステリ作家に助言をし、さらに自ら執筆もする小人症の女性――は、こう言った。
「どうしてそんな言語を学ぶの? 何の役に立つの?」と問われたときに「べつに何かに役立たせたいわけじゃない」と答えて怪訝な顔をされたことは数知れない。「たまたま出会った言語なんだけど、読んでいるともうすこし読んでみたくなるんだ」などと言っても納得されることはほとんどないが、私は、そうしていつまでも「もうすこし」を続けている。その「もうすこし」は、誰にだって、どの言語でだって起こりうるはずだ。
(文中の引用は、すべて拙訳による)