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『デイジー・ジョーンズ・アンド・ザ・シックスがマジで最高だった頃』がマジで最高だったところ(梅田 蔦屋書店 河出真美さんによるレビュー)

発売前から注目が集まっている小説『デイジー・ジョーンズ・アンド・ザ・シックスがマジで最高だった頃』(著:テイラー・ジェンキンス・リード、訳:浅倉卓弥)。一足先に読んでくださった梅田 蔦屋書店コンシェルジュの河出真美さんから、マジで最高なレビューが届きました!

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『デイジー・ジョーンズ・アンド・ザ・シックスがマジで最高だった頃』がマジで最高だったところ
             
河出真美(梅田 蔦屋書店)

これは類まれな才能を持つフロントマン、ビリーを擁するバンド、ザ・シックスと天才的なヴォーカリストであるデイジー・ジョーンズがいかに出会い、紆余曲折を経て傑作アルバムを世に出し、そして消えていったかを描いた小説である。

この本をそう要約することは、正しいか・正しくないかで言えば、正しい。この通りのことがこの本の中では起こる。しかしそうやってあらすじを述べるだけでは、この本がいかに最高だったかを伝えることはできない。

バンドが一世を風靡するもやがて「方向性の違い」や「性格の不和」で崩壊していく。そういう話は、現実でもフィクションの世界でも、そこらに転がっている。ドラッグや酒に溺れて堕落していく、かつては強く結びついていた若者たちを、彼らの成功と失墜(そしてもしかしたらカムバック)を、私たちは愛する。この本はそういう本である。間違いなくそうであるし、そういう本として最高のものだろう。才能にあふれているが、他のメンバーの気持ちを思いやることができず、やがて孤立していくロックスター。酒とドラッグ漬けの毎日を送る、とてつもない才能の持ち主であるシンガー。二人は創作者としてぶつかり合い、後に互いを認め合って素晴らしいものを創り出すも、いい時期はいつまでも続かない。それはあくまでも一瞬の火花だった。そんな儚くも熱さに満ちた物語を、なぜ愛さずにいられるだろうか。

しかしこの本がマジで最高だったのは、実はあるバンドの盛衰を描いて素晴らしかったからではない。この本は女性の物語として最高なのである。

デイジーは語る。まだ自分の歌を書いておらずミュージシャンの男性と付き合っていた時、彼らがいかに彼女の書いたもの、口にした言葉をさも自らの考えたものであるかのように自分の作品に使ったか。彼女は言う。

誰かの創造の女神(ミューズ)になるつもりなんて一切なかった。そういうんじゃないの。むしろ私こそがその“誰か”なのよ。(p.20)

創作者に外側から見られ、素材にされるのではなく、自ら思う通りに表現する。デイジーのそんな姿勢は彼女が身に着けるものにも表れる。ジャケット写真の撮影の時、彼女は下着を付けずに白のタンクトップを着る。それがその時着たい物だったからだ。彼女は「上半身裸でうろつきたい気分になったらそうする(p.252)」。デイジーの伝記作家が言うように、「あの写真の彼女の姿は“この身体は自分のものだ”と訴えている(p.297)」のだ。
 ザ・シックス唯一の女性メンバーであるカレンは語る。

 何をするにしたって、まず誰か男性の許可が必要で、そういうのに対処するには、結局二つのやり方しかないみたいだった。
 私の採った方法は、彼らの一員であるかのように振る舞うこと。これが一つ目。そしてもう一つは、とにかく女オンナして、時には粉をかけるような素振りまで見せてあげること。まつげをパタパタさせてってやつ。皆さんこっちの方がよほどお気に召してはいたみたい。
 でも、デイジーって人は、最初からそんなもの超越しているみたいだった。こんな感じ。
 「受け容れられないんなら私はいなくなるだけよ」(p.101)

カレンのこの言葉には深くうなずける。男性社会を生きるための女性の処世術の部分も、そしてデイジーがそんなものを超越しているという部分も、「わかる」。デイジーは、プレーする方法が二つ――自分ではない者のふりをするか、プライドを捨てておもねるか――しかないように思えるゲームを、自分を決して曲げず、受け入れられなければ降りるという第三の方法でプレーする。だから彼女は特別な女性なのであり、私たち――本書で彼女に熱狂する人々ばかりでなく、この小説の読者たち――のアイコンにもなれるのだ。私たちは彼女になりたい。自由で、はっきりとした自分があって、それを自ら尊重することをためらわない彼女に。

しかし、この物語が女性の物語として最高なのは、実はデイジー・ジョーンズという人が特別な輝きを放っているからでもない。

女性の物語としてこの小説を見つめた時、デイジー・ジョーンズと並ぶ主人公であるビリーの姿は背景に退く。代わって前景に押し出されてくるのは彼の妻であるカミラだ。

この小説においてカミラの果たす役割は大きい。カミラとの出会いが、ビリーを変える。ビリーはカミラのために何曲も曲を作る。かつての自分を改めよき夫よき父親であろうとする。ではカミラはこういう物語によく登場する「ああいう女」なのだろうか。才能あるアーティストをつまらない家庭に縛り付けようとし、夫の創り出すものを理解せず、嫉妬深くて、夫が目移りした相手の前に子連れで姿を現して対決する、そんな女。読者に憎まれ、「この女さえいなければうまくいくのに」と言われる、邪魔でしかない存在。いや、ちがう。カミラはよくいる「ああいう女」ではない。女性の物語として秀逸なこの小説に、血の通っていない、都合よく悪役を演じる「ああいう女」の居場所などない。カミラは確かに家庭を築き母親でいることを愛している。ビリーを愛し彼と生涯を共にすることを望んでいる。それにもかかわらず、カミラは理解している。親であることを望む女性ばかりではないということを。時に人はどうしようもなく二人の人を同時に愛することがあるということを。

私たちはデイジーに憧れる。そして彼女の見せてくれた方法で、きっと彼女のようになることができる。けれどたぶん、本当に難しいのはカミラのようになることだ。彼女のように人間を理解し、思いやり、愛することなのだ。カミラはある時デイジーに言う。カミラという人を象徴するようなある言葉を。それは呪いの真逆であり、人を解き放ち、力を与える言葉だ。

本書が女性の物語として最高になったのは、実はカミラがデイジーにその言葉を言った瞬間だった。その時、この物語はありえそうもないシスターフッドの物語になった。その瞬間はぜひ本書を読んで目撃していただきたい。この言葉は、カミラがデイジーに与えただけのものではない。この場面を目撃した、私やあなたのものでもあるのだ。

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デイジー・ジョーンズ・アンド・ザ・シックスがマジで最高だった頃
著:テイラー・ジェンキンス・リード  / 訳:浅倉卓弥 
四六判並製/416ページ/本体価格2400円+税
ISBN 978-4-86528-063-0 
左右社
2022年1月20日より順次搬入予定

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