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【インタビュー】アンジェラ・チェン『ACE アセクシュアルから見たセックスと社会のこと』訳者・羽生有希さんインタビュー|後編 語りを聞くこと、希望をもつこと

アンジェラ・チェン『ACE アセクシュアルから見たセックスと社会のこと』(左右社)は、著者自身の経験と100人のアセクシュアル当事者へのインタビューをもとにしたルポエッセイです。
本書の読みどころをフェミニズム哲学、クィア理論をご専門にされている研究者で、本書の翻訳者でもある羽生有希さんにお聞きしました。
本書での議論を社会へとつなげていくために、私たちに何ができるのか?
読者のみなさんと考えたいと思います。
後編は、クィアの視点をもったフェミニズムについて、また羽生さんが地元でされている活動のことなどをお話しいただきました。
(聞き手=左右社編集部・梅原)

――前半では、翻訳についての裏話や、『ACE』からより深掘りできそうなテーマについてお考えをお聞きしました。後半では、フェミニズムとの関係性や、クィア・スタディーズと関連づけてお伺いしたいと思います。
まず、すこし広い質問ですが、日本におけるアセクシュアルへの差別、排除はどのようなものでしょうか?
 

まず、日本社会一般のアセクシュアル差別の特性については、おそらく他の性的マイノリティ差別との比較を参考にするのがよいと思います。
たとえば、「日本では同性愛者に対するリンチのようなヘイトクライムがアメリカと比べて少ない」といったことを言う人がいるのですが、「少ない」だけで新木場事件のようにヘイトクライムは存在していますし、ヘイトクライムが少ないから差別がないわけではありません。日本にも性的マイノリティへの差別はありますし、アセクシュアルへの差別も存在しています。
もう少しアセクシュアルにとって特有な事情としては、性的マイノリティのコミュニティの中で孤立してしまいがちなことが挙げられます。これは他の国においてもある程度似ているのですが、規範的でない性的実践をするコミュニティにおいても性的であることはしばしば前提とされていて、そのせいでアセクシュアルが孤立を感じてしまうことがあります。またそれだけでなく、コミュニティにいれば得られるような適切なサポートや情報へのアクセスを得られなくなることは構造的な差別です。
クィアのサークルを安全な場所だと思って参加したマイノリティが、その足場を内側から奪われることがあってしまっては悲しいので、そうでないフェミニズム、クィアのあり方を模索したいですね。 

――アメリカと比較して、日本特有の差別、排除はありますか? 

日本特有のところでいえば、いわゆる「家制度」との関係です。これはアメリカのファミリーバリューとは異なるところがあって、もっと「家」や「血」の存続と関係していると思います。
それによって自分の好きなパートナーとの関係を認めてもらえなかったり、若年者が保護者からの適切な保護を得られなくなったりというかたちで、性的マイノリティは差別を被ってきました。同じことはある程度、アセクシュアルにとってもありうるといえます。

フェミニズムとアセクシュアルの関係性

――第4章で、フェミニズムとアセクシュアルの衝突について書かれているのが、個人的には興味深かったです。たとえば、著者のチェンは、真のフェミニストになるためには「性に奔放」でなければというプレッシャーを感じたというエピソードを語っています。
そういったプレッシャーは日本ではアメリカほどには強くないとは思いますが、日本でもフェミニズムの内部におけるアセクシュアル排除はありますか?
 

第4章に明確に描かれるかたちで、フェミニズムからアセクシュアルが排除されるということは日本ではないと思います。なぜかというと、本で描かれている排除は「ポルノ論争」(*1)という文脈ありきのものだからです。この論争は、のちのセックス・ポジティブなフェミニズムの主流化の下地となりましたが、日本ではこの論争自体がありませんでした。けれど、だからといって、アセクシュアル差別がないわけではないし、いわゆるセックス・ポジティヴのフェミニズムが主流になっていないからといって、フェミニズムの主流が強制的(異)性愛の体制に無縁であるとはいえません。
たとえば、著名なフェミニストが「オトコは自分のペニス一本しか知らないけれどもオンナは何本も知っている」と述べたことがあるらしいのですが、この発言は問題含みです。男性特権を崩す文脈でなされた発言であるのは理解できるにしても、そもそも「知らなくていいじゃん」ということこそフェミニズムの役割だったのではないでしょうか。男性の特権を生み出している(異)性愛的な経験をフェミニズムの飛び道具にすることのコストを、私たちはもっと真剣に批判的に考えるべきだと思います。

*1=1970年代から80年代において、アメリカのフェミニストの議論の中心となった論争。フェミニスト・セックス論争、またはセックス論争とも呼ばれる。キャサリン・マッキノンやアンドレア・ドウォーキンらは、家父長制のもとでは真の性的同意は不可能だとし、ここから派生したいわゆるセックス ・ネガティブのグループはポルノやサドマゾ、セックス ・ワークなどにも反対した。それに、エレン・ウィリスらセックス ・ポジティブのフェミニストたちが対抗した。 

――反対に、そうしたセックス・ポジティブな発言をしなくてはならないと思っているフェミニストにとって、アセクであると表明されると困ることがあるのでしょうか。

単純にいえば、アセクシュアルであるという表明が一部のフェミニストにとって脅威と映ることはありえます。近代家父長制社会は、女性のセクシュアリティを支配するときに、一方でそれを存在しないものとしつつ、他方でそれが男性によって開花されるはずだと考えてきました。このような矛盾した想定こそ、女性の性の抑圧をするのに都合がよいからです。
というのは、女性のセクシュアリティが本当になかったら、つまりアセクシュアルだったら、家父長制は自らを維持できませんし、反対に女性のセクシュアリティがもともと〈それ自体〉として存在するなら、社会はそれを当然のものとして認めなくてはならなくなり、この場合も家父長制には都合が悪い。そのため、この矛盾を適宜マネージすることで女性のセクシュアリティを支配しようとするのです。
このような状況下でアセクシュアルと自認することは、ある意味では、家父長制の一方の罠に陥るように一部のフェミニストには見えるのかもしれません。ただ、私としては、そのように考えてアセクシュアル自認を封じることも家父長制の罠であることをむしろ指摘したいです。「家父長制が強いてくることをしないようにしましょう」というのは、「逆心理」のようなもので、家父長制からは完全に逃れられていないことになるからです。
むしろ、セクシュアリティの支配の機構を指摘すること、その支配の中でどのような性/生が抑圧されてきたかを明らかにすること、そのために抑圧されてきた人(ここではアセクシュアル)の語りを聞くことが必要で、これは喫緊の課題です。 

――アセクシュアルに限らず、フェミニズムのなかでクィアがとりこぼされることはまだまだ多いと感じています。先ほどもお話にあがったように一般に浸透するフェミニズムがシスヘテロ中心になっていたり、フェミニズムの内部からもトランス排除が起こり続けることに強い危機感を感じます。クィアがとりこぼされないフェミニズムをどのように浸透させていくことができるでしょうか。 

まず明確にしておきたいこととして、私個人にとっては、研究においても、地元で行う社会運動においても、フェミニズムとクィアの分断は基本的にありません。
その上で、フェミニズムがシスヘテロ中心にならないためにはどうすべきか、インターセクショナルな視点がフェミニズム運動において共有されるためにはどうすればよいかということについては、むしろ私が答えを聞きたいと思っています(笑)。
女性を抑圧する社会を批判してきた人が、その社会とほとんど変わらないかたちのジェンダー区分しか想定しないのはなぜなのか。性器中心的に男女関係を考えたり、階級や人種や障害などと関係なしに自体的に性別というものがあると自明視したりするのはなぜなのか。女性を縛る規範は独自で存在しているわけでなく、他の規範と無関係ではいられないはずです。フェミニズムはそのことにずっと批判的であったはずなのに、支配的な社会のジェンダー観を一部のフェミニストが受け入れているのは、端的に言ってディストピア的な状況だと思います。
 
ただ、これだけだと無責任かもしれないし、なんだか暗い話ばかりになってしまうので、いくつかよいニュースもお伝えしたいです。
先日入管法改悪に反対するデモに行ったとき、「杉並から差別をなくす会」の方が『最も危険な年』という映画の上映会のチラシを配っていました。この映画は、トランプ政権下の合衆国でトランスの権利を制限する法律が地方レベルで出てきたとき、トランスの子どもの親たちやその支援者がそれにどう立ち向かったのかを描くドキュメンタリーです。こうした映画の上映会を市民の方々が主導しているのは、本当に素晴らしいことです。
もうひとつは、私の個人的なエピソードなのですが……先般の統一地方選挙で市民派の女性区長候補を応援していて、その政策作りもお手伝いさせてもらいました。私からすれば候補者もコアな支援グループもまあまあ年上でしたし、自分が一番経験もない立場だったのですが、それでもみなさんが熱心に意見に耳を傾けてくださったんです。女性差別にも性的マイノリティ差別にも、外国人差別にも明確に反対し、そのような差別を実際になくすための政策作りに尽力なさっていました。
さらに、私が地元で関わっている「クロスオーバー・こうとう」(*2)という、江東区でジェンダー・セクシュアリティについて考え行動する団体がありまして、去年同じく『最も危険な年』の上映会を行いました。そのとき年配の男性が数名いらっしゃって、とてもよい刺激を受けたとお見受けする感想をくださいました。
 
いまお話ししたことはすべてバラバラの事象なのですが、少なくとも首都圏の地域自治体レベルでは、実は広範な反差別の取り組みや、それに関心を持つ市民が確実に存在しているとは言えると思います。私としては、明らかなヘイトをヘイトと認めないフェミニストに「理解してください」と請うよりも、差別に意識的な人たちに一から話す方に可能性を感じます。日本の労働運動がジェンダーの問題に疎かったのは事実で、そのためにフェミニズムやクィアの政治に今までは触れてこなかった(もしくは触れられなかった)人たちもいますし、実際ミソジニーやホモフォビアを内面化してしまっていた人もいますけど、そのことを自分で反省して、疑ってこなかったことを学び直し、行動に移す人たちに向けて話す方がずっと重要なのではないかと。
私たちエースが被ってきた苦しみをフェミニストとして、クィアとして他者に共有することはできます。その「他者」というのはもちろんフェミニストであって然るべきなのですけれど、シスジェンダリズムとヘテロセクシズムと強制的性愛を内面化したフェミニストだけにずっと理解を乞う必要はありません。むしろ、エース、クィア、トランスの視点を持ったフェミニストとして、そういうフェミニストの主張を一緒に担ってくれる人を増やすことをしたい。それが最近の考えです。
実際に運動することは大変だしめんどくさいですが、最初から完璧にする必要はないですし、自分の興味のある団体や講演会に行って講師の方とお話するのも手です。またしても私の経験をお話しすると、以前私が住んでいる区の議会で、「同性パートナーシップ制度を創設しないよう求める陳情」が提出されたことがあったのですが、そのとき男女共同参画センター主催の講習に参加して、講師の方にその陳情の問題性をお伝えし、会場の聴衆にもその問題を共有することができました。そのことが先述の「クロスオーバー・こうとう」という団体の設立のきっかけになっています。「クロスオーバー・こうとう」はすごく小さな活動なのですけど、続けているからこそ変えていけることもあると感じています。
嫌なことも辛いこともたくさんあるいっぽうで、確実にグッドニュースもあります。ちゃんと絶望することで課題が見えてくることもありますが、それ以上にちゃんと希望をもつことも大事だと思います。

*2=クロスオーバー・こうとうnote(https://note.com/partnershipskoto/

エースだと表明することの可能性

――読者の方の感想で興味深かったのが、「著者のチェンはセックスを楽しんでいるのに、性的惹かれがないということがうまく理解できない」といった感想です。
チェンは性嫌悪ではないし、パートナーとセックスしています。ある意味での典型的なアセクシュアル像には当てはまらないために、そういう感想を抱く方もいるかもしれないと思いました。
そうした読者がいることもふまえて、チェンはとても意識的に自分を「エース」だと表明していると思うのですが、そうすることの意味や可能性をお聞きしたいです。
 

まず、「セックスを楽しんでいるのに、性的惹かれがないとはどういうこと?」という問いに対しては、「性的惹かれがないままにセックスを楽しむということです」としか答えられないかなと思います…。チェンも「クラッカーを食べたいと思っていなくても、クラッカーを社交儀礼の一部として食べるのを楽しむことはある」といった例えを使って、性的惹かれのないセックスがありえることを説明していますよね。
セックスするのを楽しむのは、恋人との親睦を深めるためだったり、人恋しさを手っ取り早く紛らわせるためだったり、色んな要因があると思います。けれど、どうやら私たちの社会はあまりに性器中心主義で、セックスを楽しむ最たる動機が性的惹かれ以外にはありえないかのように教え込んでいるのかもしれません。むしろ、性的惹かれがわからない私たちエースとしては、その二つがそれほど絶対的につなげられていることに驚くのですけれど。
「セックスを楽しむこと」と「性的惹かれがあること」がつながっているかどうかは、そもそもわからない。にもかかわらず、そこを当たり前につなげてしまってることに、まずは気づいてほしいです。混乱を覚えること自体は悪いことではなくて、そこから自明としていたことを解体してゆくことが重要です。
このことを前提としたうえで、いわゆる典型的なアセクシュアル像に当てはまらない人がアセクシュアルと自認すること自体には、さまざまな政治的効果があります。意味の外延を広げるということもありますし、いま言ったことともつながりますが、私たちがセクシュアリティについて持っている思い込みに揺さぶりをかけるという効果もあります。
もちろん、一般的には、そのような行為が固有の経験を疎外させることに繋がるという危険な可能性もありますが、この場合はそれに当てはまらないと思います。第6章で「大金星のエース」(*3)という考え方があって、「セックスを楽しむなんて、アセクシュアルなわけがないじゃないか」という批判も起こりうるのかもしれませんが、セックスを楽しむアセクシュアルがいることを認めたからといって、セックスを楽しまないアセクシュアルをアセクシュアルでないと見なすなんてことは誰もしないからです。 

*3=アセクシュアルが正当なものであると証明するような「完璧な条件をもったエース」という概念。
障害や性的暴行のサバイバーであることは、この条件に当てはまらないとされるが、そうした完璧なエースの概念自体が虚構であるとチェンは指摘している。

――この本を読むと、チェンは言語として区分する、細分化することを意識的にしているように思いました。たとえば、「惹かれ」を、性的惹かれ、感覚的惹かれ、知的惹かれなどにわけることによって、これまで一括りに「惹かれ」とされていたものを分解して名付けることをしています。
こうして言語化していくことは大事ですけれど、言語からこぼれ落ちてしまうものもありますよね。そうしたものをどう扱うかについてもお伺いしたいです。
 

惹かれの話はエースコミュニティのなかでされている区分けをチェンは重んじていて、そのうえで、「ロマンティック・アセクシュアル」のようなラベルを主張するためではなく、社会のなかで当然とされている性に関する事柄(とそれに隣接する事柄)を分析するために、コミュニティの用法を広げているのだと思います。
チェンは、言語はあくまで政治的な目的を持つラベルと考えているので、ラベルで捉えられる現実と捉えられない現実があることを前提にした語りをしていると思います。
関係性についても同様で、十分に言語化しないままに特定の性的関係を「レイプ/セックス」の二項対立で捉えたり、恋愛伴侶規範に沿わない関係を否定したりすることがないよう、今まで十分に言語化されてこなかったものに光を当てていくというアプローチだと思いました。それはあくまで言語を通じて捉えられる経験の幅を広げる試みであり、言語によってすべてを包摂しようとする傲慢ではありませんし、言語によって捉えられないものを無視する傲慢でもありません。
その上で、もちろん言語からこぼれ落ちてしまうものというのはありますし、その存在に気づかせる身振りは必要です。この「語れないものがある」ということにチェンは意識的な書きぶりをしているように思いました。
言語化だけではなく、いまある既存のラベルを使って自認することを、あえてしないという「(非)言語行為」も同様に重要であることは意識しておきたいことですね。
「(ア)ロマンティック」や「アセクシュアル/アローセクシュアル」という術語は覚えておいてほしいですけど、そのラベルでアセクシュアルの多様な経験をきれいに捉えられるなんてことはなくて、むしろラベルを通じて「アロマンティックなのに/アセクシュアルなのになぜ〇〇するのか」というような勝手な縛りが出てくることもありますし、特定の経験を勝手にそのラベルで分類するという暴力もあるでしょう。
 
クィアアクティビズムの合言葉に「We are here, We are queer.」というものがあります。これは二重性がある言葉で、「います」ということと「いましたよ」ということを同時に言っているわけです。つまり、見えてない存在を可視化することであると同時に、見えていなくても「すでにいる」のだと、クィアの存在を日常に潜ませる意図もある。この「勝手に潜ませておく」ということも政治的な意味があることだと思います。
アセクシュアルに関しても、「可視化」=「アセクシュアルがいます」ということにスポットライトを当てるだけではなくて、「いままで会った人のなかに、アセクシュアルがいたかもしれない」という読み変えの作業も同時に必要です。「読み」によって、その存在を隠して浸透させていく。そういう二重の身振りを、クィア・スタディーズは重視しています。
言語そのものだけでなくて、言語で何をするのか(もしくは言語以外の行為で何をパフォーマティヴに生起させるのか)、その政治性がとても重要です。

――羽生さんのご研究と実践とのつながりもお話しいただき、とても興味深かったと同時に希望のもてるお話でした。ありがとうございました。

(前半はこちら

▼プロローグ&1章 試し読み

訳者プロフィール
羽生有希(はにゅう・ゆうき)
1987年東京生まれ。東京大学、東京工業大学ほか非常勤講師。国際基督教大学ジェンダー研究センター研究員。専門はフェミニズム哲学、クィア理論。著作に「コロナ禍の解釈枠組:脅かされる生をめぐるフェミニズム・クィア理論からの試論」(『福音と世界』2020年12月号)など。主な翻訳はアンジェラ・チェン『ACE:アセクシュアルから見たセックスと社会のこと』(左右社、2023年)、エリザベス・ブレイク『最小の結婚』(久保田裕之監訳、白澤社、2019年、第1章および第2章を担当)。研究と翻訳を通じて、ジェンダー/セクシュアリティとアイデンティティ、親密な関係性について考察し、地元での実践に活かそうとしている。

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