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【インタビュー】アンジェラ・チェン『ACE アセクシュアルから見たセックスと社会のこと』訳者・羽生有希さんインタビュー|前編 エースの視点から見えてくるもの

アンジェラ・チェン『ACE アセクシュアルから見たセックスと社会のこと』(左右社)は、著者自身の経験と100人のアセクシュアル当事者へのインタビューをもとにしたルポエッセイです。
本書の読みどころをフェミニズム哲学、クィア理論をご専門にされている研究者で、本書の翻訳者でもある羽生有希さんにお聞きしました。
本書での議論を社会へとつなげていくために、私たちに何ができるのか?
読者のみなさんと考えたいと思います。
前編は、翻訳についての裏話のほか、最近の研究動向をふまえながら、アセクシュアルの経験をノンバイナリーやセックス ・ワーカーの経験へと接続する可能性についてお話しいただきました。
(聞き手=左右社編集部・梅原)

翻訳者の目線から

――今日は羽生有希さんに、本書の翻訳者としての立場から、そして研究者の立場からいろいろお話をお伺いできればと思っています。
まず、この本のなかで、羽生さんはどういった点が面白かったですか?
 

一つめに、「アセクシュアルについての理解を促す」というより、エース(アセクシュアルを自認する人)たちの語りを通して、「アセクシュアルから見たら、社会はどう見えるのか」が書かれていることです。この本のサブタイトルにまさに言われている通りですね。
チェンは、いまの社会で強制的(異)性愛がどのように働いているのかを明らかにするだけでなく、性的同意のことなど、私たちが日常的に取り組まざるをえないことにも目を向けています。
ですから、『ACE』はアローセクシュアルの人(他者に性的惹かれを感じる人)が読んでも面白い本だと思います。むしろ、「自分はアセクシュアルではないから関係ない」と思い込んでいる人にこそ、読んでほしいですね。「自分は本当にアセクシュアルではない、と言い切れるのか?」という疑問も呼び起こされるような書きぶりになっていますから。
もっと言えば、これまで日常のモヤモヤする経験を理解したり、それに対処したりするのにクィア・スタディーズの視点を活かす試みも、なかなか十分に行われてきませんでした。
ですから本書は、フェミニズムやクィアの政治および研究に興味のある人にも、お勧めできる本だと思います。
 
二つめには、「インターセクショナル」な視点が取り上げられていることです。これは訳者解説にも書きましたが、たとえば、本書では白人ではないエース(第5章)や障害のあるエース(第6章)の話も取り上げられています。人種や障害の話は、日本のアセクシュアルの文脈ではまとまって取り上げられていないですし、アメリカでも十分に言語化されていないところだと思います。チェンは議論のきっかけになるようなところを、平易な語り口でまとめてくれていますね。
クィア・スタディーズにおいては、人種や障害という軸は重要なのですが、そこにはアセクシュアル特有の困難もあります。障害については、LGBTの脱病理化(*1)の言説とあわせて、今後さらに研究が進むといいと思っています。

*1=同性愛、トランスジェンダーなどは医学的に「病気」とみなされ、診断名をつけられてきた。たとえば、WHOの国際疾病分類や、DSM(精神疾患の診断・統計マニュアル)の歴史を見ても、同性愛は性的逸脱のひとつとみなされたり、トランスジェンダーは「性同一性障害」として精神疾患のひとつとされてきた。
こうした「病気扱い」をなくそうとする「脱病理化」の運動が起こり、今日では運動の主張がある程度反映されてきた。

――障害のあるエースは、障害者コミュニティのなかでも、エースコミュニティのなかでも排除されるという指摘が本書にありますが、こうした二重の排除は、エースではない性的マイノリティのコミュニティでも起こりうることですか? 

ある程度はありえます。障害者コミュニティでは、「障害はあるけれども、他の点ではノーマルです」といった語りがされることがあって、それは意図せずエイブリズム(*2)を助長してしまうという指摘もあります。それと同様のことは、同性愛コミュニティなどでも起こることです。
ただ、「他の点ではノーマル」という言い方が、それぞれの属性によって変わってきます。たとえば「同性愛者だけど、健常者です」とか「障害者だけど、異性愛者です」とか。こうした語りによって、今の社会が課している抑圧の側面がいろいろ見えてくるということがあります。
障害とセクシュアリティについては、かなり研究が蓄積されていますし、アリソン・ケーファー(*3)の『フェミニスト・クィア・クリップ』という本なども出ています(2023年7月現在未邦訳)。この本は、題名の通り、フェミニズム/クィアの政治や研究と障害者運動との一筋縄ではない関係を描くものです。

*2=能力主義、健常者主義。健常者による障害者差別や偏見。
*3=サウスウエスタン大学教授。障害学やフェミニズム、クィア理論、「リプロダクティブ・ジャスティス」についての議論を行なっている。

 ――今回の翻訳で思い入れのあるところなどはありますか? たとえば、「ようこそ、エースの一つならざる世界へ(welcome to the ace worlds)」(77ページ)という訳語など、本当に素晴らしいと思いました。ここでは「(ただひとつの)エースの世界(the ace world)」があるのではなくてエースの世界も複数(the ace worlds)だよ、ということを言っているんですけど、英語の単数・複数を日本語でうまく訳すのは難しいですね。この訳はフレーズとしてもかっこいいし、この本の肝になるフレーズを簡潔に表した一言になっています。
羽生さんの解説もこのフレーズで締めていて、原稿いただいたときに、なんだか前向きな気持ちになったのを覚えています。
 

この部分は本当に悩みながら訳しましたけど、でも最終的には気に入っています。
他は論理的につまずくことがあっても訳しにくいことはありませんでした。すごく読みやすい文体で書かれていますし、さすがジャーナリストだと思います。
一点あるとすれば、アナ(第10章)の言葉が訳しにくかったです。英語としては平易で読む分には問題ないんですが、訳そうとするとひっかかりました。簡単な言葉を使うんだけど、すこし遠回しになっているというか。アナはトランスで、該当の箇所は、昔の自分を振り返って語っている場面です。自分のなかでも、昔の自分との距離をつめかねているような感じの語り口なんですよね。その迷いながら語っている雰囲気みたいなものを訳出できるのか、という点がすごく難しかったです。 

――この本には、いろいろなエースの語りが入っているから、口調をどう訳出するのかは悩みどころですよね。 

そうですね。話し言葉を訳すときには、よく言われることですが「〜だわ」などの終助詞や、「私」「僕」などの人称の問題もありますよね。そこはなるべくニュートラルに訳すんですけど、やりすぎると伝わらなくなってしまうので、ギリギリを攻めることを心がけました。

 ――今回、面白いなと思ったのが、読者の方から「訳注がすばらしい」というご感想をいただくことが多いんです。訳注に関するこだわりもありましたか? 

清水晶子先生もツイッターで「大学学部レベルで教員サイドから説明を入れてもよいと思う部分が、全部訳註になっている感じ」といったことを書いてくださっていて、教育的なところも意識していたので、すごく嬉しかったですね。
以前、某所で一般の人向けにクィア・スタディーズを紹介したときに、「クィアに興味があって、今回の話も面白かったんだけど、難しくてわからなかった」と言われたことがあるんですが、その方は、私の話がわかりづらいと批判しているのではなく、具体的な用語などがわからなかったから難しく感じたみたいなんですね。そうしたギャップを、すこしでも埋めたいなと思って訳注をつけました。クィア・スタディーズでは当たり前に出てくる用語にも注をつけているのは、学んだことがない人にもわかってほしいと思ったから。もちろん、それでも難しいと思う方はいらっしゃると思うのですが。
あとは単に、自分の思い入れもありますね。昔、遠藤まめたさんの『オレは絶対にワタシじゃない』を読んだときに注が面白く書かれていて、こんなふうに、ただ説明的に書くだけじゃなくて、自分の思い入れも含んで伝える機会があったらいいなと思っていました。 

――なにか気に入っている訳注はありますか? 

割とすべて自分の思想盛り盛りで書いているんですが、たとえば「ジェンダー・ノンコーフィミング」の訳注(19ページ)で「シルヴィア・リヴェラ・ロー・プロジェクト」の名前を入れています。アメリカでは比較的有名な、人種に意識的なトランス支援の団体なので紹介したいと思いました。
「they/them」の注(21ページ)もちょっと裏話があって。以前、ツイッター上で「they/themは単数では使いません」と言われたことがあったんです。そのときのことを思い出して、「不特定の誰かを指すときの「意味上の単数」を表すために、ジェフリー・チョーサーの時代からまったく問題なく用いられてきた…」などと書きました(笑)。

『ACE』から議論を発展させるなら

――羽生さんがおっしゃったように、この本ではかなり広範なトピックが扱われています。アセクシュアルのインターセクショナリティ性や、性的同意の話、クィアプラトニック・パートナーの実践など。紙面の限界があるのですべて網羅するのは不可能ですが、そのことを踏まえつつ、「この議論はもっと展開できるのではないか」と思われた部分はありましたか? 

前提として、チェンはかなり広範に精緻に書いてくださっていると思います。なので、「この点が足りていない」という話ではなくて、一読者としてもっと聞いてみたかったと思う点を、これまでの研究の蓄積や社会的な動向をふまえて挙げてみたいと思います。
 
一つめは、アセクシュアルの経験とノンバイナリーの経験の交差について。この本でも批判対象とされている「強制的異性愛」は異性と番うことを要請するだけでなく、「異性」というものがあることを前提としています。この「異性」というのはつまり、バイナリー(二項対立的)で、変わることのないジェンダーということです。複数あるとか、今日と明日では変わっているとか、そういうものではない。強制的異性愛は、そうしたジェンダーを引き受けることをも強制してきたのです。
そういう意味では、その異性愛規範を拒否するアセクシュアルの経験と、現在の性別のあり方を拒否するノンバイナリーの経験が、どのように重なるのかを聞いてみたかったのです。もちろん、ノンバイナリーならアセクシュアルであるとか、その逆であるとか、そういった単純な話ではありません。私が関心をもっているのは、ジェンダー規範とシスジェンダリズム(シスジェンダー中心主義)に抗うことが、アセクシュアル、ノンバイナリーとしての経験にどのように影響を与えるのかということです。
本書には、ノンバイナリーのエースが多く登場します。ですから、たとえば、男性性を扱った第3章や、フェミニズムを扱った第4章がありますので、その議論を再度縫い合わすかたちで、性別についての規範を捉えなおす章があってもより面白かっただろうと思います。
またノンバイナリーの経験は、章を隔てていくつか取り上げられているのですが、一章を使って考察し直すことも著者の力量があれば十分できたのではとも思いました。最近ではこのテーマを正面から扱っているイギリスの研究者、​カレン・カスバート​がいますし、日本でも佐川魅恵さんをはじめ研究している方が出てきました。
 
二点目は、人種や、ポストコロニアル的な視点や階級の扱い方です。
本書でいわれているのは、人種や第三世界出身の人々へのステレオタイプによって、黒人が性的に奔放であるという印象をもたれたり、逆に東南アジア出身のイスラム女性が性的に抑圧されていると思われたりすることがある、ということ。さらにそうした経験が、アセクシュアルに対するステレオタイプと交差したときにうまく噛み合わなくて困難が生じる、ということですね。このようなステレオタイプの問題を指摘することは、もちろん大切なことです。
ですが、情報へのアクセスや階級関係が彼らにどのような影響をおよぼすのかについては、本書では十分に語られていなかったように思います。ここでいう「情報」というのは、自分の人生や、その人が置かれている社会を理解するための情報ということです。そうした情報を含めた資本へのアクセスや階級関係が、アセクシュアルであることにどのような影響を及ぼすのか、または現在のアローセクシュアル(アロー)中心の社会をどのように助長しているのか、といったことについては議論の余地があります。
実際、チェンが引用している、アセクシュアル研究のイアナ・ホーキンス・オーウェンは、人種のステレオタイプについて論じたあと、同じ論文の中で、アセクシュアルへのテレビ・インタビューから垣間見える階級関係や、白人性の優越(ascendancy of whiteness)の問題を論じています。つまり白人性がいかに社会のなかで特権的なものとして維持されるのかを論じているので、ステレオタイプの話のみに終始しているわけではありません。
私は日本の男女共同参画政策を批判的に見てきたので、実際の男女間の賃金や労働条件の格差の解消や、DV被害者支援と就労支援、生活支援の連携といった格差是正の取り組みよりも、性別役割分担のイメージの解消の方が取り上げられがちな現状は、やはり気になります。
たとえば、性暴力を受けた女性が、そのことだけでも辛いのに、職場を失ってしまったり、それによって生活に困窮してしまったりといったことが起こるので、包括的な支援や格差是正が必要だと思います。これはイメージの話ではなくて、実質的な問題ですよね。
そういった現状があるのに、政策レベルで、「イメージを変えましょう」「多様性を認識しましょう」のような抽象的な認識で止まってしまっては困ります。ですから、人種の話にしてもステレオタイプの話のみに焦点化されてしまうとしたら気になります。
繰り返しになりますが、イメージがどうでもよいということではなく、イメージと実際のジェンダー関係がお互いをどのように構成するのかを考えることが重要だと思います。
 
三つ目に、これは難しいと思うのですが、アセクシュアルとセックス・ワーカーの主張との関係についてです。ちなみに、小山エミさんも、アセクシュアルのセックス・ワーカーの話があったらよかったという感想を残されています(*4)。本書では、いわゆるキンク・コミュニティの実践がアセクシュアルにとって重要な示唆を与えること、実際にはキンク・コミュニティの中での方がアセクシュアルにとって快適に思える場合すらあるということは書かれているのですけれども、たとえば、セックス・ワーカーのエースがどのように性的な社会を生き延びているのか、その実践からエースとアローが何を学びとることができるかなども考察できるところだと思います。
もしくは逆に、セックスと恋愛、性的惹かれ、性的欲望などの腑分けをつぶさに見てきたエースの主張が、セックス・ワーカーが自分たちの権利を主張するときにどんなふうに貢献できるのか。アセクシュアルの議論を参照することで、異性愛主義や性別二元論を強化しないかたちでセックス ・ワーカーの権利擁護が可能になるのかもしれません。
アセクシュアルを性嫌悪と同一視してはいけないこと、また、性的であることとそうでないことを単純に進歩的な性の主張のバロメーターにしてはいけないことを説く著者のスタンスに納得するからこそ、こういった論点についても取り上げていただきたかったし、自分でも考えていきたいところです。
本来、性的なことに関する権利は、トランスやセックス・ワーカーの話と切っても切り離せないものなのですが、一部のフェミニズムはそこを切り離してしまうので、それが保守派にとってつけいりやすいポイントだと思います。そうしたことがないかたちで、エースの議論を積み重ねていければと思います。 

*4=http://books.macska.org/angela-chen著「ace-what-asexuality-reveals-about-desire-society-and-the-meaning-of-sex」

――具体的には、アセクシュアルの議論がどのように貢献できる可能性がありますか? 

これは難しい話ですが……私が応援しているセックス・ワーカーの議論は、クィア・フェミニズム的なものなのですが、一方でジェンダー関係に意識的でない主張、つまり単純な「自由意志論」に基づく主張もあります。本人が好きでやっているのだからよいじゃないか、といったものです。そうした自由意志論にのっとって考えてしまうと、現在の男女間の権力格差を無視した主張になってしまいます。
著者のチェンは、性的同意についての章(主に第8章)で、レイプとセックスは二項対立的なものではないと言っています。前者が悪なのはたしかだとしても、それゆえに後者が善だとは単純には言えない。
「Yes means yes. No means No.」というのはそれ自体では正しいことなのですけど、「Yes」と言ったから問題ないのかと問われれば、問題ないわけがない。
こうしたエースの視点に立てば、「自由意志ならセックス・ワークしていい」といった単純な見方を解体し、セックス・ワーカーが直面せざるをえない権力の衝突について分析することができると思います。 

(後半につづく)

▼プロローグ&1章 試し読み

訳者プロフィール
羽生有希(はにゅう・ゆうき)
1987年東京生まれ。東京大学、東京工業大学ほか非常勤講師。国際基督教大学ジェンダー研究センター研究員。専門はフェミニズム哲学、クィア理論。著作に「コロナ禍の解釈枠組:脅かされる生をめぐるフェミニズム・クィア理論からの試論」(『福音と世界』2020年12月号)など。主な翻訳はアンジェラ・チェン『ACE:アセクシュアルから見たセックスと社会のこと』(左右社、2023年)、エリザベス・ブレイク『最小の結婚』(久保田裕之監訳、白澤社、2019年、第1章および第2章を担当)。研究と翻訳を通じて、ジェンダー/セクシュアリティとアイデンティティ、親密な関係性について考察し、地元での実践に活かそうとしている。


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