#3 【コラム1】イヌ 月が欠けはじめると、町外れがにぎわった
ハノイの空港から旧市街へむかう自動車は、紅河に架かる橋を渡ると土手沿いの道を走る。土手の上にそびえるコンクリート塀の前に、かつてはバイクが密集していた。塀のむこう側、つまり紅河側に、ベトナムでも有数のいわば「イヌ銀座」があったからだ。イヌたちがたくさん闊歩して歩いている「銀座」なのではない。イヌが檻のなかで小さくなっているレストランが軒を連ねていたのだ。
だが2010年代のいつからか、夜な夜な活気づいていた「銀座」の灯が突然消えた。直接のきっかけはその地区からコレラの集団感染がでて営業停止を受けたことだった。
衛生面以外の理由もあった。経済発展と国際化で、イヌを食べるのは国際基準にてらして好ましくないという「進歩的」な人たちが増え、食べる人が減ったことだ。また、どの町でもイヌ料理屋は郊外との境界域に多いものだが、ハノイの場合、市街地が拡大してもはやその地区が町外れでなくなったこともある。
イヌ肉は滋養強壮に効くと信じられている。だが食べるのに適切な時期がある。旬がある、という意味ではない。ベトナムの多数民族、キン族の民俗観念では、個人の生命力の増減が月の満ち欠けに対応していて、イヌ肉は満月から新月へと月が欠けていく月齢下半期に食べるのがいい。イヌ肉で野生の力を取り込んで活力を回復させるのだ。陰暦の大晦日にはおびただしい量のイヌ肉が消費された。
2000年頃だったか、友人とその地区でコース料理を食べた。焼いた肉、ゆでたソーセージ、スープなど5、6品だった。甘味のないオトナな肉の味のせいか、そんなに食べまくれるものでもない。
その帰り道、タクシーの中で、わたしたち二人の共通の友人の話になった。その友人は、月齢上半期にタブーを犯してイヌ肉を食べた帰り道、バイクで事故を起こして骨折し入院したのだった。
まさに話の直後、あろうことか、わたしたちの乗るタクシーが二人乗りのバイクと正面衝突した。バイクを運転していた若者がボンネットに乗り上げるのを目の当たりにしてびっくりしたが、幸いたいした怪我ではないようす。
すぐに野次馬たちがあつまってきた。
「ヤバい!」
こういう場合、乗客が外国人だったというだけで、どんなとばっちりを受けるかわからない。運転手にメーターの料金だけ手渡し、そそくさとわたしたちはその場を立ち去った。
考えたらその日も月齢の上半期だった。
「やっぱり、おいしいのは赤イヌですか?」と、よくきかれる。
だが、ベトナム人は色も大きさも関係なく食べる。
もちろん、がまんできなくて「ウチの子」を家族で食べちゃった、なんて話は聞かないが、今でも気をつけていないと「うちの子」がいつ悪い奴にさらわれてイヌ料理屋に売りとばされてしまうかわからない。
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