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ところで、愛ってなんですか? [第7回]

デビュー歌集『夜にあやまってくれ』から現在にいたるまで一貫して「愛」を詠みつづけてきた歌人・鈴木晴香さんが、愛の悩みに対してさまざまな短歌を紹介します。月一回更新予定です。バックナンバーはこちら

この店をオープンした日を思い出していた。
たいていの場合、店を始める前には計画を立てるのだろう。いつまでに何がどれくらいどんなふうに必要なのか。
でも私はすべてが行き当たりばったりだった。ひかる看板も、開店してから買いに行ったのだ。計画性がまるでない、というより、未来を決めてしまうのが怖かった。映画の予約を取りたくない。旅行の行き先を決めたくない。私の未来が、私によって規定されてしまうことを、極端に恐れていた。
反対に言えば、未来を定めないことを、異常なまでに愛していた。
恋だってそうだ。カレンダーに恋がはじまる日を書き込むことなんてできない。

***
ここは〈BAR愛について〉。店のどの隅にも、そうしようと思ってそうしたというより、そうなるようにそうなったという影が満ちていた。
ドアがぎーっと音を立てて開く。いつの間に錆びてしまったのか。すぐそばにあるという海から、音や香りがゆっくりと運ばれている。私はまだその海を見たことがなかった。
ドアの前に立っているのは、こめかみのところを刈り上げて、耳の形をはっきりと見せている青年だった。この街のものとは違うイントネーションで話し、どちらかというと普段は物静かなのだろうと思わせる頬をしている。

「クラスの子を好きになってしまって、授業中も家でも寝る時も考えてしまうんです。成績も落ちて、部活も補欠になるし、」
「初めて、なんですね。そんなふうになるのは」
青年は苦笑いしたまま頷いた。
「突然なんです」

初めて誰かのことを好きになること。初恋。ただ恋をするだけでも心がめちゃくちゃに狂ってしまうのに、それが初めてだったら途方もない。これはなんだ。四尺玉の花火みたいな、いっせいに咲く桜みたいな、そんなエネルギーが自分の内側のいったいどこにしまわれていたのか。

見っけた、と小さな声で告げられて振り返ったら満開である

阿波野巧也『ビギナーズラック』(左右社)

「見っけた」の無邪気さに、他の誰でもない自分を見つけてくれたことに、すっかり心を奪われてしまう。
ここには何が満開なのかが書かれていない。
なにかひとつではなく世界のすべてが満開だからだ。〈君〉の背景にある花も、〈君〉の表情も、〈私〉の心も、すっかり花開いている。蕾の頃なんて、全然知らなかった。振り返った瞬間に、すべては訪れた。
恋の心は自分の内側のできごとなのに、外側から打たれるようにやってくる。その意味において、恋は能動的であり、受動的だ。だから驚いてしまう。こんなにも美しく激しく脆い感情がこの世にあったのかと。
その衝撃に、恋を知る以前の自分が、遠く遠く思われる。

きみに逢う以前のぼくに遭いたくて海へのバスに揺られていたり

永田和宏『メビウスの地平』(現代短歌社)

好きな人に出会ってから、誰かを愛する心のありようを知った。狂おしいほどの情熱を知った。君に逢う以前と以後とでは、ぼくが、ぼくから見える世界が、すっかり変わってしまったみたいだ。
以前のぼくとはどんなものだったんだろう。そんな思いがふっとよぎる。あの頃のぼくはどんな手で世界に触れ、どんな目で世界を見ていたのだったか。
海は、悠久の時間を変わらずに満ちたり引いたりしている。過去のぼくの証人だ。海へのバスは、揺れながら遠い時間を駆けてゆく。

「僕にも、証人の海があります。ここからすぐ近くの海。海に向かってなら、告白できそうですけど」

初恋の苦しさは、それを告げることがひどく困難なところにある。断られたらどうしよう。いや、断られるに決まってる。この気持ちがみんなに知れたらどうしよう。自意識が肥大化して、恋の相手よりも自分のことで手一杯になってしまう。

さしだせばどうなったかと思いつつ自分のためにさす傘の紺

工藤吉生『世界で一番すばらしい俺』(短歌研究社)

夕立。好きな人が雨宿りをしながら空を眺めている。その人に自分の傘をさしだせば、笑顔で受け取ってくれるだろうか、まさか相合傘までしてくれたりして、いや、無言で拒絶されるのが落ちか。あり得たパラレルワールドをいくつも思いつつ、現実にはただ自分一人のために傘を広げるだけ。なにも変わることのない世界に紺色が深い影をつくる。

「はじめて恋をしただけでも苦しいのに、それを言うのも、言えないのも苦しい。だからおかしくなっちゃうんです。」
「告白って「好き」だけじゃないんじゃないかな。ほかに何か言えることがあるかもしれない」
私は夏の海のような青い本を棚から取り出した。

好きだとは言えなかったけれど、ヴォーカルやらない? は言えそうだった ベースをはじめた理由

フラワーしげる『世界学校』(短歌研究社)

好きな人に声をかけたかった。話したかった。距離を縮めたかった。
バンドに憧れてたわけじゃない。ベースに憧れてたわけじゃない。そんなちょっと情けないような告白だっていい。気持ちを伝えないまま、近くでその存在を見続ける。それだってひとつ、初恋に答えを与える方法だ。
そういう理由ではじめたベースだって、ちゃんとうまくなるし、演奏の楽しさがわかる。たとえこのまま片想いに終わってしまっても、ベースは辞めないような気がする。

もう一つの告白の方法。それは、遠くから言葉を放つこと。

書き終へたるふみ大空へ放ちつつ桜桃せよ桜桃せよ今宵

石川美南『砂の降る教室』(書肆侃侃房)

気持ちを伝えたい。いますぐ届けたい。答えが欲しい。でも知るのは怖い。そんな夜、手紙をポストにではなく、大空へ放つ。「桜桃せよ」の切迫した心が、大空を舞う。
あるいは。ほんとうに届けるということはこういうことなのかもしれない。だってたったひとりのあなたがいるのは、どこであろうとこの空の下なのだ。
時間をかけて手紙を書いている自分を、夜の空はすべて見ていたし、他でもない自分が見ていた。大空への告白は、自分の気持ちを自分のものにするための行為でもあるはず。

「みんなこんなに苦しいの? どうしてなんでしょうか」
「この世に生まれてくる時も、きっと苦しかったんじゃない。きっといま、生まれようとしてるんだよ」
「僕が?」
「あなたが」

初めての恋が教えてくれるもの。それは、自分自身が何者かという問い。だから人は、鏡を見てため息をついたり、前髪をいじってみたり、香水を買ってみたりする。かっこつけたい? それだけではないだろう。
知ってしまったのだ。
いまここに存在している自分を。世界を。

呼吸する色の不思議を見ていたら「火よ」と貴方は教えてくれる

穂村弘『シンジケート』(講談社)

ひとは、自らの手で火を熾したとき、人間であることを知ったのかもしれない。他の動物は持っていない、神聖な、強大な力を手に入れてしまった。そのことを畏れただろう。その妖艶さに囚われただろう。そして、もう戻ることができないことを悟っただろう。
この青や橙はなんだ。なぜちらちらと揺らめくんだ。なぜこんなに熱を持っているんだ。なんで、分けても減ることがないんだ。
貴方はそれが「火」であることを言う。「water」を知ったヘレンケラーが事物の輪郭を知ったように、禁断の実を食べたアダムとイブが裸であることを知ったように、火を教わることは自分とは何者かを知ることだった。この世界にもう一度生まれ直すことだった。
火を知った頬がその火に照らされる。さっきよりも影を深くして。
誰かを好きになること、愛することを初めて知ることは、そんな天啓に似ているのではないか。

***
「いつか恋人に火を教えることがあったらいいな」
「火も、花も、花火も、海も、夜の空の色も、いつか全部ね。両想いになれたらいいけど、それだけじゃないよ、初恋は」

青年がドアを開けると、またぎーと音が鳴る。彼は振り返って、右を指差した。私は右を見て頷く。見えていなくても、そこにある海。香りだけが遅れて届く海。

店の前の看板のコードをひっぱるとばちっと火花が散った。
火は分けても減ることはない。
それならば愛は。いくつ点しても減ることはないのだろうか。

鈴木晴香(すずき・はるか)
1982年東京都生まれ。歌人。慶應義塾大学文学部卒業。2011年、雑誌「ダ・ヴィンチ」『短歌ください』への投稿をきっかけに作歌を始める。歌集『夜にあやまってくれ』(書肆侃侃房)、『心がめあて』(左右社)、木下龍也との共著『荻窪メリーゴーランド』(太田出版)。2019年パリ短歌イベント短歌賞にて在フランス日本国大使館賞受賞。塔短歌会編集委員。京都大学芸術と科学リエゾンライトユニット、『西瓜』同人。現代歌人集会理事。

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