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【新刊】大塚ひかり『ひとりみの日本史』「はじめに」無料公開!

24年4月末、古典エッセイスト・大塚ひかりさんの最新刊『ひとりみの日本史』を左右社より刊行いたします。
刊行を記念して、本書の「はじめに」を特別無料公開いたします。

【本書概要】
昔の日本は「独身」が大半だった! 
卑弥呼から古事記の神々、僧尼、源氏物語の登場人物、性的マイノリティの人々など、古代から幕末まで多様なひとりみたちの「生」と「性」を追う。
「独身」や「結婚」、「家族」の概念を覆す、驚きの日本史!
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【特別無料公開】 「はじめに 日本の歴史を貫く「ひとりみ」の思想」


「ひとりみ」を肯定的に描く日本の大古典

「生涯未婚率の上昇」や「晩婚化」が叫ばれて久しい日本です。
 また一方では、「少子化」も問題となって、政府は躍起になって少子化対策をうたっていますし、皆さんの中にも「少子化は問題だね。国力に影響する」と憂えている人もいるでしょう。
 中には、ひとりみが増加するのも少子化も「先進国の宿命だ」とか「女が高学歴化したせいだ」とか「働く女が増えたせいだ」などと思っている人もいるかもしれません。
 しかし実は、千年以上昔から日本人はそれを理想としていた……というのは言い過ぎにしても、「子などないほうがいいし結婚なんてしなくていい、それが理想の生き方である」という考え方が、文化の中に脈々と受け継がれていた……。
 そんなことを言うと、意外に思われる人もいるでしょう。
 無理もありません。
 日本には「結婚して子を持って一人前」という考え方が、とくに年配者の中に根強くあるのも事実です。
 しかし古典文学や史料を読んでいると、どうも昔の知識人の中にはそうとばかりは言えない考え方があったことに気づくのです。
 
 というのも日本で一番有名な古典文学『源氏物語』では、物語最後の主人公の浮舟が、男を拒絶し、見知らぬ尼たちのもとで生きる決意をしている。尼になり、「これで俗世の暮らしをせねばいけないと思わなくて済むようになった、それこそが実に素晴らしいことだと、胸の晴れる気持ちになられた」(〝世に経べきものとは思ひかけずなりぬるこそは、いとめでたきことなれと、胸のあきたる心地したまひける〞)(「手習」巻)
 つまり結婚しないで済むと思うと、心がすっきりしたというのです。
 そんな『源氏物語』が〝物語の出で来はじめの親〞(「絵合」巻)と称する『竹取物語』のヒロインかぐや姫は、五人の男たちやミカドの求婚をも袖にして月へ帰っていく。
 そういう物語が日本では、子ども向けの童話にも描かれ、親しまれているのです。
 そんな『源氏物語』の作者である紫式部の曾祖父の藤原兼輔は、聖徳太子の伝記『聖徳太子伝暦』の編纂者であると伝えられています。そして、この本には、聖徳太子が墓を造る際、自ら墓の内に入って、四方を望んで左右の者にこう言ったと記されています。
「ここを必ず断ち、あそこを必ず切れ。子孫を絶滅させたいと思うのだ」(〝この処をば必ず断ち、かの処をば必ず切れ。子孫の後を絶つべからしめんと思うなり〞)
 と。
 また、南北朝時代の兼好法師も、
「我が身が高貴であっても、まして数にも入らぬ場合にも、子というものはないほうがいい」(〝わが身のやんごとなからんにも、まして数ならざらんにも、子といふ物なくてありなん〞)
 と主張し、醍醐天皇の皇子の兼明親王や、源有仁といった貴人が皆、一族が絶えることを願った等のエピソードと共に、先の聖徳太子の話を紹介しています(『徒然草』第六段)。
 子はいないほうがいい、いても絶滅したほうがいい……そんな考えが賢人の思想として肯定的に披露されているのです。
 ここには、〝おとろへたる末の世〞(第二三段)だからという末法思想、時代が下れば下るほど人も物もダメになっていくという考え方が横たわっているのは確かなのですが、兼好法師は子だけでなく、
「妻というものこそ、男の持つべきではないものだ」(〝妻といふものこそ、男の持つまじきものなれ〞)(第一九〇段)
 と言っている。もっともこれは馴れ合いを嫌っているからで、男が女のもとに通う「通い婚」であればいつまでも新鮮で良いと言っているのですが、
「子などができて、大事に可愛がっているのは情けないものだ」(〝子など出で来て、かしづき愛したる、心憂し〞)
 とも言っていて、全体に子孫繁栄とか一家団欒といったことを嫌っています。

『竹取物語』『源氏物語』『徒然草』といえば、日本を代表する大古典です。
 後世の文芸はもちろん、社会に与えた影響ははかり知れません。
 その三作品が三作品とも、結婚拒否の思想に貫かれている。
 しかも、日本最古の文学である『古事記』によると、この日本には、イザナキ・イザナミといった夫婦神が現れる前に、アメノミナカヌシノ神やタカミムスヒノ神、カムムスヒノ神といった性別不明な七柱の〝独神〞たちがいたとされている(上巻)。
 原初の日本にはひとりみの神々がいて、とくに最初の五柱の独神たちは〝別天つ神〞すなわちスペシャルな別格神として、のちのちこの世界に強い影響力を持つという設定なんです。
 これは見過ごしにできないことではないでしょうか。

実は結婚できない人が大半だった

 ここで、昔の結婚事情に少し触れておきましょう。
 実はかつて結婚は、特権階級にだけゆるされたいとなみでした。
 鬼頭宏によると、中世の隷属農民や傍系親族(戸主のオジ・兄弟など)の「多くは晩婚であり、あるいは生涯を独身で過ごす者が多かった」といい、「だれもが生涯に一度は結婚するのが当たり前という生涯独身率の低い『皆婚社会』が成立」するのは十六・十七世紀になってからのことでした(『人口から読む日本の歴史』)。市場経済の拡大によって、晩婚あるいは生涯を独身で過ごす下人などの隷属農民が、この時期、自立ないしは消滅した。それによって社会全体の有配偶率が高まったわけです。
 けれどそうした時代を迎えても、既婚率が一〇〇%でないのは当然で、信濃国湯舟沢村を例にとると、一六七五年の既婚率は男性全体で五四%、女性全体で六八%。約一世紀後の一七七一年には上昇するというデータがあるとはいえ、十七世紀時点の未婚率は男四六%、女三二%という高いものでした(鬼頭氏前掲書)。
「皆婚社会」になったとされる十七世紀ですらこの状態だったのです。
 都市部に限ってみれば、婚姻率は幕末になっても相変わらず低く、江戸の男性の半数、京の男性の六割近くが独身でした。
 ましてそれ以前の古代・中世では、家族を持てる階級は限られており、下人と呼ばれる隷属的な使用人は、一生独身か、片親家庭がほとんどでした。
 これは拙著『昔話はなぜ、お爺さんとお婆さんが主役なのか』でも紹介したのですが、大隅国禰寝(建部)氏が一二七六年、嫡子らに譲渡した下人九十五名(うち一人は解放)の内訳が記された資料を、磯貝富士男「下人の家族と女性」(『日本家族史論集4 家族と社会』所収)によって計算すると、下人には三世代同居は一例もなく、夫婦揃った者は九例二十七名(約二八・七%)で、そのうち夫婦だけが三例六名、夫婦揃って子のいる者は六例二十一名で、全体の約二二・三%に過ぎません。
 最多はひとりみ(単独)です。
 ひとりみは、女二十二名、男十八名の計四十名。
 計算すると全体(九十四名)の約四二・六%を占めています。子はいるけれど配偶者はいない母子家庭・父子家庭は十二例二十七名(約二八・七%)です。
 これが鎌倉中期の下層民の実態です。
 室町時代から江戸時代初期、十四世紀から十七世紀にかけて作られた御伽草子と呼ばれる物語群には「一寸法師」や「浦島太郎」「ものくさ太郎」や「姥皮」といった今の昔話の源流に位置するような話が詰まっているのですが、その話の多くが、
「結婚してたくさんの子が生まれました、めでたしめでたし」
 で終わるのは、結婚して家庭を持つことが多くの庶民にとって憧れだったからなのです。

昔話に一人暮らしのお爺さんが多いわけ

 特筆すべきは既婚率には男女差があることで、十六世紀から十九世紀の下人や農民、都市部の人々の全般で、男の既婚率は女より低いものでした。
 独身女より独身男のほうが多かったのです。
 こうした実態は昔話にも反映されています。
 柳田國男の『日本の昔話』(角川文庫版)百六話のうち人間を主体とした八十九話中、老人が主人公であるのは二十八話、そのうち十七話の老人が働いていて(六割強)、老夫婦の話が十三話、一人暮らしが五話(爺四話、婆一話)。その他、一人暮らしと明記されないものの、子や配偶者の登場しない老人の話が六話(爺五話、婆一話)、ひとりみの老人が子どもと暮らす話は四話です。
 三世代同居の話は一つもなく、一人暮らしの場合は爺が婆の四倍となっている。
 昔話が作られ語られた時代には、とくに男の独身率が高かったという実態を反映しているのでしょう。
 なぜ男の独身率が高いのか。そのあたりの理由はよく分かりませんが、裕福な階層では一夫多妻が行われていたため、一人の男に女が集中して、あぶれる男が出てくるといったことがあったのでしょうか。
 時代を遡れば、平安末期に編まれた『今昔物語集』の伝える有名な「わらしべ長者」も、男の結婚難や生活苦を背景に生まれた物語です。

子沢山を嫌った江戸後期の庶民

 皆婚社会が実現する十六・十七世紀になるまで、結婚は特権階級にゆるされるものであった、だから御伽草子には結婚への憧れが描かれていた、と書きましたが、実は、近世後期から幕末にかけては人口が停滞し、「一世帯当たりの平均子ども数が一・二人前後という数値は近世後期の村落よりは少し多い」という少子化ぶりでした。しかも当時、「子どもの数を一人から二人に限定したいという文言に出会うことは珍しくな」く、「一般には子沢山が嫌われていた」(太田素子『子宝と子返し││近世農村の家族生活と子育て』)といいます。
 結婚が庶民にもできるものになってくると、冒頭に紹介した、特権階級の人々が綴った文学と同じような、「少子」への志向が現れてくるのです。
 理由については太田氏が分析していますし、この本でも追々触れる機会はありましょうが、時代ごと様々な理由や事情によって、日本人が少子を志向する一面があるのは興味深いものがあります。

昔に似つつある現代日本

 翻って今はどうでしょう。
 低所得の男性の結婚率が低いことはかねていわれてきたことですが、近年、社会全体に単身世帯が激増していることが明らかになっています。
 令和二(二〇二〇)年度の国勢調査によると、一般世帯のうち、世帯人員が一人の単身世帯(単独世帯)は三八・一%、「夫婦と子供から成る世帯」は二五・一%、「夫婦のみの世帯」は二〇・一%、「ひとり親と子供から成る世帯」は九・〇%でした。
 二〇一五年と比べると、「単独世帯」は一四・ 八%も増えて、一般世帯に占める割合は三四・六%から三八・一%に上昇しています(https://www.stat.go.jp/data/kokusei/2020/kekka/pdf/outline_01.pdf
35ページ)。
 先に紹介した鎌倉中期の下人の家族形態に似ていませんか?
 下人には三世代同居は一例もなく、夫婦揃って子もいる家庭は全体の二二・三%、最多はひとりみ(単独)で、全体の約四二・六%でした。母子家庭・父子家庭といった、ひとり親と子の世帯も多かったものです。
 現代日本は全体に下流化しているのか、それとも家族の形態や概念が変わってきているのか。
 今のところ、その両方の要素があるという気がしています。

歴史上、ひとりみだったのはどんな人々か

 現代日本で「非婚」の人が増えているのは、一つには日本全体が貧しくなっていることがあるでしょう。
 それとは別に家族というものの概念が変化し、非婚のまま「事実婚」を選ぶカップルや、同性婚を認められていないがゆえに結婚という手段をとれないカップルが少しずつ増えてきたということもあるかもしれません。
 さらに、本人に結婚の意志がなく、非婚でいる場合もあるでしょうし、結婚したくても出会いがない、できないということもあるでしょう。 
 つまり同じ「非婚」といっても、現代のそれは、前近代と比べると、個々人による事情の幅が大きいということが一つ言えます。
 にもかかわらず、本人の意志とは関係なく、ある程度の年齢になると、親や世間からの「結婚」のプレッシャーは、まだまだ根強いものがあります。そもそも「少子化」を問題視する国の姿勢自体、「非婚」を否定し、「結婚」へのプレッシャーにつながっています。非婚のまま、子を持てる制度や環境が整っていればともかく、今の日本はそうではないので、とくに子を持つことは、どうしても結婚が前提となってしまうのです。
 そうした現状を歴史の中で位置づけ、未来を予測するためにも、注目したいのが「ひとりみ」でいた、歴史上、そして歴史を反映する物語上の人々です。
 そこには、先述のように社会的地位の低さゆえ、貧しさゆえにひとりみでいざるを得なかった人々のほか、宗教的な立場の、職業上ひとりみでいることを強いられる人々、性的な嗜好などからあえてひとりみを選んだ人々、さらには後世の偏見によって「あの人はあんなだから、ひとりみで生涯を終えたのだ」と決めつけられた伝説上のひとりみの人もいます。
 彼らの生まれた背景や、思想や嗜好を見ていくことで、長い日本の歴史におけるひとりみの人々がどんな思いで生きてきたのか、また、世間はひとりみの人をどんな目で見ていたのか、結婚とは、家族とは一体なんなのか……等々を考えていけたらと思います。

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