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【その10】闇の極まりを抜けた先へ


そして2ヶ月ほどで目標だった100セッションを超えた。

次はモニター価格から正式価格への移行を考えていかないといけない。途端に怖くなった。
値段をあげることでお客さまが減ったらどうしよう。モニター価格でもう少しだけ、継続しようかな。でもどこかで「大丈夫、なるようになる。腹を決めるだけだ。」と思えている自分もいた。私の周りにいてくれる友人たちも、絶対大丈夫だと口々に言ってくれた。
怖いだろうけど、さゆりさんは絶対大丈夫。
進んでいこうよ。

そのエネルギーに支えられながら、6月から値段を上げて正式価格でリリースした。

心配していたことは起こらず、むしろほぼ休みなくセッションする毎日が続いた。

会社員時代の月収をこの頃には遥かに超えていた。そうなったらいいな、そうなるかもしれないな、とは思っていたが、本当にそうなると人は途方に暮れるものなんだなと思った。そして、人はできないことに憧れを抱かないのだなと思った。

何より、毎回毎回のセッションが楽しかった。目の前で変容していく様を見れることが嬉しかった。諦めていたことが諦めなくてよかったんだ、むしろ可能性しかないと思えるって幸せだね、と一緒に喜び合えることが本当に面白くて夢中でセッションと向き合った。

年だから、元々こうだったから、運動してないから、運動してきたから、筋力が弱いから、筋力が強いから、綺麗じゃないから、可愛くないから、といった自分が作り出した思い込みの中に自分を閉じ込め、「だって、そうだもん!」と信じていたものが自分の努力や我慢と全く関係ないところで起きる。身体の変化とともに「だって、そうだもん!」がガラガラと崩れていく。「私はこういう人」というカテゴライズに違和感を感じ始める。いつからでも人はこの瞬間から生き直せる。
そんな風にセッションを通して感じ、毎回毎回胸が熱くなった。

9月になっても有難いことにセッション浸けの毎日が続いていた。正直疲れを感じる日もあったが、寝ればまた復活する身体になったことが嬉しかったし、これぞ健全だと思っていた。

そんな頃、久しぶりに友人たちと愛犬とで2泊の伊豆旅に出かけた。2日目の寝起き直後、首背中が激しく攣り、あまりの痛みに動けなくなった。
私は海で泳ぐことも、歩くことさえままならず、強制的に休むしかなくなった。犬の散歩も友人にお願いするしかなく、ごはんも友人の介助付きだった。痛くてもどかしくて散々だったけれど、あの光景を思い出すだけで今は笑いが込み上げてくる。何日かすると痛みはなくなり、休んだ気になった私はすぐに「楽しい」セッションを再開した。

12月、新たにスタートした骨格メソッドの1年間コース初日、スタート時間しょっぱなに滑る床の上で派手にコケた。足の小指にヒビが入った。痛くて靴が履けず、寒空の中、片足はビーサンという奇妙な格好で冬を過ごした。バランスが取れず、1年弱かけて整ってきた骨格が急激に崩れるのを感じた。

情けなかった。また調子に乗ってしまった。いつもこうだ。肝心なところでつまづく。自分に小さく舌打ちをする。さらにそれまで奥の方で無意識にずっと固めてきていた腹が見事な3段腹となってあらわになった自分に嫌気が差していた。

そんな状態でもセッションも、セミナー参加も、ストップすることはせずに続けた。痛みや違和感を抱えながら動いていたから、足の小指のヒビはちっとも治らず、3月くらいまでひきづった。

年が明けて2022年2月。
流行りのコロナにかかり、強制的にまた休まなくてはいけなくなった。待っていただいているクライアントさんがたくさんいる。セミナーの予定も入っている。熱や痛みは数日で引いた。日程を再調整して早く日常に戻らなくてはと、焦っていた。

そんな頃、会いにきてくれた友人に「一回完全にリセットしてみるのもいいかもね。一ヶ月くらい休んでみるとかさ。」と何気なく言われた言葉に、あぁ、そんな選択肢もあったのかとハッとした。

どこかでいま足を止めたらダメだと思っていた。私は調子に乗っているのではなく、人生で体験したことがないような流れにやっと乗っているんだから、今止まったらダメだと言い聞かせてきた。湧き上がる情熱や喜びに連れられて私はここまでこれた。あんなに自分にダメ出ししていたコンプレックスまみれの過去の自分はもういない、私には力があったんだ!とやっと思えてきたんだよ。今はがむしゃらにやっていかなきゃ。今は止まれない。そんな風に思って、1年ほど駆け抜けてきたのだと思う。

けれど、友人の言葉に、その時はここで一回完全に休んでみよう、とフッと思えた。

そして「休む」と決めた途端、やる気みたいなものがあれよあれよと萎んでいった。そしてほどなくして気力という気力も萎んで消えていった。あんなに私を突き動かす動力となっていたセッションへの情熱も消えていった。

何をあんなに夢中になっていたのだろう。何をあんなに夢中で話していたのだろう。私が言ってきたこと、やってきたことをを全部忘れて欲しかった。あたしは何が楽しかったんだっけ?みんな何でそんなに笑っているの?食欲も湧かないし、何も美味しくない、面白くない。心が動かない。観たい映画も、読みたい本も、何もない。地球の力学?そんなんどうでもよくない?もうそうゆうこと全部どうでもいいわ。
セッションも仕事もやめようかな。ってか、もうできない気がする。

目に映る全ての色が薄く感じた。焦る気持ちさえわかず、不安にさえならず、ただ、何も感じなくなっていくのを感じた。そしていくらでも眠れた。犬の散歩以外はひたすら寝るか、ボッーっと何もできず、何も考えられず、ベッドで寝て過ごしていた。

今思うと人生で初めての闇?鬱?の時間をしっかり体験していたのだと思う。

そんな数十日間を過ごしていた頃、別の友人にひょんなことから今の状況をただただ、LINEで吐き出したことがあった。全部吐き出していいよ、と言ってくれた。心の中に湧き上がってくる汚い言葉もそのまま吐き出した。彼女はいいぞいいぞと言ってくれた。涙が次から次に止めどなく出てきた。流れる涙もそのままに、一気に吐き出したら、しーんとしたそれは静かな感覚になった。

そのあとにやってきたのは怒りだった。
腹立たしい、悔しい、というとてつもない怒りの感情だった。

全部をめちゃくちゃにぶっ壊したい気持ちになった。大声で何かを叫んだような気がするけど、はっきりと覚えていない。そして全部捨ててしまいたいという衝動が走った。いつか使うかもしれない、役に立つかもしれないと思って引っ越しをしても捨てずに大事に何年も保管していた学びの証拠たち。ヨガやアーユルヴェーダや心についての資料や本も全部捨てた。一つ残らず全部捨てた。ビリビリに破いて捨てた。そしてそのままの勢いでクローゼットから洋服を全部放り出し、8割くらい服を捨てた。

その作業をしている間、多分おいおい泣いていたと思う。何に怒ってるのかさえ、もはやわからないくらいの怒りに突き動かされて一気にやり切った。爽快な気分だった。

やり切った爽快さだけでなく、何かを捨てたところで何もなくならないんだ、という晴れ晴れとした感じたことがない爽快さだった。

その時期、一番近くにいたパートナーは、何もいわず、私と変に距離を取ったり、必要以上に慮ることもせず、そのままに接してくれていた。そこから気力が少しづつ湧いてくるのを感じた。明らかにそれまでとは違う感覚であり、違う世界を観ているようだった。

徐々に自分から出る感覚が増した。自由自在に近づいたり、遠くにいくことができることを知った。別の章で記す「秘行」的観点で世界を観ることに慣れていくのを感じた。

次に続く。

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