BLMで思い出す
2年半前に膵臓がんであっという間に亡くなってしまった長い間の親友であり同僚だったアンドリアはジャマイカ出身だった。
アンドリアはネイリストで、とにかく喋るのが好きで私のお客さんがネイルしてもらう間も1人で喋り続けて中には寝たフリする日本人のお客さんも居るくらいだった。(腕は確かだったけど) 接客中の私の横に来てあれこれ話しかけてくることも多く毎回「仕事中は話しかけないでって言ったでしょ。あっち行け。」と追い払い、そういう日は決まって仕事が終わった後に電話してきてまた延々と話をよく聞かされた。
彼女のおじいさんはドイツ人で、彼女の姉妹兄弟はみんな肌の色が違う。一番肌が「白い」のがアンドリアでジャマイカに住んでた子供の頃はよく「お前はブラックではなくブラウンだ。」と虐められたそうだ。ブラックの中でも差別とかあるんだ、と私が言うと「差別される人達はより差別できる対象を意識的にも無意識にも探すから」と言っていた。コンプレックスというもの裏返しだ。そういえば白人に対してコンプレックスを無意識に刷り込まれてる日本人も手近な近隣諸国を差別してる人多いわ、と私が言うと、ほらねと言わんばかりにうなづいていた。
肌の白い黒人だった彼女はとても肌の黒いキューバ出身の警察官と結婚してちょうど2人の中間のような肌の色の男の子を産んだ。子供が物心ついた頃からアンドリアは息子に繰り返し「生き残る術」を伝え続けた。
「自転車で友達の家に行く時にもし警官に停まれと言われたらすぐに停まること」
「警官の言うことには絶対に逆らわないこと」
「ポケットやバッグには触らないこと」
「両手をあげること」
「万が一暴力のようなものを受けても一切抵抗しないこと」
子供が小さい頃に離婚したけど、その後もわりと良好な友達関係でいた元ダンナは警察官だしそこまでくどく言い続ける必要はあるのかと思うのだけど、元ダンナも息子には同じ事をよく言っていた。
「そこまでかえって刷り込みのように子供の意識に植え付けてしまうのはかえって永遠に分断が大きくなる、みたいな感じにはならないの?」と私が聞くと「撃たれて死んだら終わりだから。」と言っていた。
「サユリはイエローでしょ、イエローも差別されるけど問答無用で撃たれて殺されるって事はそんなに多く無いでしょ。そんな話ニュースで見たことないよね。」
「卑屈になってるんじゃなくってリアリティね、コレは。」
よくそんなことを言っていた。
私が留学のためにアメリカに来たのは大昔のレーガン大統領の頃だった。
日本ではロン・ヤス外交なんて良好な関係が報道されてたみたいだけど、実際には通い出したアジア難民が溢れてる小さなコミュニティカレッジのキャンパスでは日米自動車摩擦/貿易不均衡の影響で反日デモが行われていた。アルファだのオメガだのという名前の付いたサークルの人達が「ジャップカーを買うな!」とか「ジャップは我々アメリカ人から仕事を奪った!」とか叫ぶ横を、日本人ってバレませんように、、とまだ英語もちゃんと喋れなかった私は「もし聞かれたらアイムチャイニーズって言おう」と怖々通り過ぎた。
私を送り出してくれた厳格な父親のおかげで日本のバブル景気とは全く縁が無い貧乏学生だった私は学校のスチューデントセンターで学生ビザでも出来るバイトをしてたのだけど、どこからか私が日本人だとバレたのか、その少し後に車に放火された事がある。ボロの中古のターセルのボロいガソリンキャップの辺りが焦げたくらいのボヤ騒ぎだけど、セキュリティや消防の人に「心当たりは?」と聞かれても「さぁ」としか言えなかった。ジャップがジャップカーに乗りやがってという事なのかなぁと怖くなりカウンセラーかスチューデントセンターのボスか忘れたけど相談し、その後しばらくよく面倒見てくれたセキュリティがさりげなく車まで付いてきてくれた。
あと差別されてるとハッキリ感じたのは、美容師になってから州の上の方に美容のイベントで行った時に立ち寄ったダイナーで私だけガン無視された事があるくらい。この時は私も根性ついてたし同僚も激怒してたので抗議しても良かったのだけどやっぱり万が一の外に出たところをショットガンでバン!みたいな事は怖いので激怒する同僚をなだめチップおかずに出た。
こんな事もあったけど、普段移民ばかりのマイアミのこの普通の住宅街に住んで居る中で「アジア人」として生きていて命の危険を感じる事は無い。恐怖を感じる事といえば、学生の子供を持つ身として学校での無差別銃撃事件が起きるたびに、朝送り出した子供が帰って来なかったらどうしようと怖くなる事ぐらいだ。でもこれはあくまで「無差別」であって「アジア系だから殺されたらどうしよう」とは違う。
私が学生だった頃の反日感情は現在反中感情に代わっていてコロナをチャイナウィルスと連呼する大統領が居てもその辺歩いてて「ゴーバックトゥーチャイナ!」と罵声を浴びることもなく良い人たちに囲まれて毎日暮らしている。
それに対してアンドリアのように自分の子供を守るために子供に孫に重い十字架を背負わせ続ける人達を思うとやりきれない。
かと言って差別が無くなる世界というのも想像もつかないしピンとこない。
身近なところで「○○人は仕事がルーズ」「○○人は信用できない」と言ったステレオタイプで一括りにするのは良くある話で、私自身も○○人の人は予約の時間に絶対に遅れるんだよなと思う事もある。レイシズムにおいて「区別と差別」の違いってボヤけててよくわからないし、こう言った決めつけや思い込みのようなものが段々と差別に繋がっていくのではないかとも思う。なので私は頭の中でふと思ってもそれを口にしないようにしようと思っている。
BLMに対して、だって黒人が多い街は犯罪が多いと反論する人も知り合いで居たけど、そもそも肌の色に関わらず犯罪が多い街に住む人達の命が軽視される事は許されるのか、なぜ犯罪が多いのか、どうやったら良くなるのかなど、ちょっとでも深く考えてみないと一生他人事として終わっていくんだろう。
アンドリアが息子の成長を見届ける事なくこの世を去ってから「BLM」というスローガンが出来てNYの街の中やDCのホワイトハウスに続く道にまでBlack Lives Matterと描かれるようになった。
息子が生きていけるようにと毎日心配ばかりしてたくせに、自分の方がガンで先に死んでしまうなんて。
黒くない肌の色がコンプレックスだった彼女は人一倍このムーブメントを喜んでいたのではないかと思う。
↑12年くらい前?の写真。飲めないくせに飲める私とよく週末の仕事の後に飲みに行ったりした。
↑誕生日のケーキには毎年うるさい注文があった。仕事の後にBahama Breezeというカリビアンレストランでご飯をご馳走するのが習慣だった。亡くなってからも仲のよかった同僚とアンドリアの誕生日にはこのレストランに行っている。
↑抗癌剤治療で髪の毛も全部抜けてしまってカツラだった。亡くなる前の月にサロンで彼女の治療費と息子の将来の学費のために寄付のイベントをやった時。
入退院を繰り返してたけどこのあとホスピスに入った。よく私と自前ランチ交換してたのでホスピスには味噌汁の差し入れに通った。
もうちょっと生きていたらBLMを見る事が出来たのに、とニュースでたくさんの人達がプロテストしているのを見る度に思う。
コロナ禍じゃなかったら私があんたの分までプロテストに行くのにごめんね、とも。
相変わらずこういう事件が起きるたびに吐き気がするんだけど、ソーシャルメディアの発達とともに個人や団体の声が拡がりBLMとなり、プロスポーツでは選手個人やチームが抗議の意味を込めてゲームをボイコットする動きになっている。かつては表にすら出てこなかったかも知れないものをリアルタイムで共有できる時代にはちょっと希望は持ちたい。
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