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読書:密行 最後の伴天連 シドッティ

https://www.amazon.co.jp/増補版-密行-最後の伴天連シドッティ-古居-智子/dp/4906822789

1708年。神父もいなくなり、キリシタンは仏教徒を装い、キリスト教が過去のものとなった鎖国中の日本にやってきた、最後の伴天連シドッティ。シドッティを尋問した天才儒学者・新井白石。ケンペルの弟子で、通詞の今村英生。鎖国中に出会った東西の知識者が、日本の歴史に大きな影響を与えていく。

シドッティ


イタリア・パレルモ出身のシドッティは、ローマにあった戦国日本の伴天連たちの記録を見て日本での宣教を志し、教皇へ日本行きを願い出た。日本へ行くことは迫害=死を意味し、難色をしめす教皇だったが、ついに願いが聞き入れられる。シドッティは日本行きの準備をはじめ、ルソンで活動しながら日本渡航の機会を伺うことになった。現地の古参の修道会から疎まれながら、病人の世話や神学校を建てたりと貧しい人を助けていくシドッティ。その情熱や人柄からシドッティはなくてはならない存在に変わっていく。日本行きに大反対されながらも、その熱意は人々を動かして、助けを借りて屋久島に上陸。

言葉の通じない、侍の格好をした謎の人物(シドッティ)は上陸後、厳重体制の中長崎へ護送される。しかし宗教対立のあるオランダ人の前ではシドッティは態度を急に変え話そうとしない。プロテスタントのオランダ側も急にやってきたシドッティは厄介な存在だった。唯一西洋で日本と貿易をしているオランダは、南蛮人と通交禁止で南蛮人の動向報告が義務付けられていて、これを破ると日本渡航禁止であったらしい。プロテスタントとカトリックは違うと通詞に勧告し、オランダに疑惑がかかるようなことは絶対阻止せねば、と必死であった。実際シドッティが持ってきた「教皇の手紙」が長崎を最後になくなっているらしい。オランダ人が隠したのでは?と著者。いずれにせよこの手紙がないことで、後でシドッティの立場は苦しくなる。シドッティは江戸行きを願っていたが、十ヶ月ほど長崎で拘束される。

通詞 今村英生


一方シドッティが来る18年前。オランダ商館付き医師として、ドイツ人ケンペルは長崎出島に赴任。出島に出入りできる人は限られていて、上級役人、通詞(通訳)、遊女のみだった。オランダ人たちも年に一度、往復3ヶ月をかけていく江戸参府以外は外に出れない。それも目隠しをしていく。通詞はこの時の添乗員も務める。他にも、オランダ船の検分、貿易品の値組みや計算、事務仕事、船員たちの雑用なども全て通詞が行っていた。通詞は100人ほどのピラミッド型の組織になっていて、トップから大通詞、小通詞、稽古通詞という正規のグループがいた。その下に、内通詞が正規通詞の補佐をしているが、2つは厳格な違いがあり、それぞれ世襲制でもあって、内通詞が正規通詞に昇格することはまずなかった。

今村英生は、内通詞の息子として長崎に生まれ、父の後を継ぐため出島に出入りしていた。ケンペルは彼を個人的にやとい、徹底的にオランダ語を叩き込んだ。さらに解剖学、医学、植物学といった西洋学を教えていく。そして今村はケンペルに日本の資料を与えた。ケンペルがこの情報をもとに書いた「日本誌」は、ゲーテ、カント、モンテスキューなどに大きな影響を与え、ペリーも黒船に持ち込んだという。誰がケンペルに情報を与えていたかずっとわからなかったが、1990年にようやく誰かわかった。

「日本の通詞と言われる連中が足元にも及ばぬほどよく話せるようになった」今村は、シドッティが来る1年前には異例の大通詞に昇格。この今村がシドッティと通詞として対面する。「邪教の言葉」で忌み嫌われているポルトガル語に少しだけ理解があったのも唯一、今村だけだったが、シドッティはポルトガル語は苦手で意思疎通が難しい。彼の話す言葉をラテン語と推測した今村は、持っていたラテン語の辞書(ケンペルが置いていった?)で少し勉強したらしい。ラテン語の知識のあるオランダ商館の補助員にラテン語を習うことになった。オランダ人同席の元、一悶着ありながら、なんとか調書を書き終え、幕府に送り、これが新井白石の目に触れ興味をひくことになる。今村も後で通詞として江戸へ同行する。

新井白石


江戸時代随一の知識人と称された白石。幼い頃から勉強家だった。17歳の時、学問の道に進むことを決意し、「良知によって、民に正しく接し、政治を正しく国を治める」こと、「聖人の道」を求めていく白石。白石に惚れ込んだ豪商から婿養子になることを条件に3億円の結納金の話が舞い込んでも、それを断って貧しい暮らしをしていたという。しかし、綱豊(のちの6代将軍 家宣)の侍講を探す使者がやってきて推薦されたことで転機が訪れる。この時、綱豊は継承争いから脱落していて、将軍になる可能性は少なかった。それでも信念に生きる白石は、学問好きな綱豊の将来性を見込んで、かなり少ない俸禄でこれを引き受けた。

「紆余曲折の人生であったが、学ぶ道だけは踏み外さず、人の何十倍も百倍も努力した。金や権力に無欲で、ひたすら自分の理想を追い求め、信念を捨てなかった白石の生き方そのものが、運を切り開いていったとしかいいようがない。

さまざまな局面があり、大きな岐路もいくつか存在したが、シドッティに出逢い、そして歴史的名著「西洋紀聞」をこの世に出す、まさにその一点に向かって白石の道はまっすぐに続いていたかのように見える。」

シドッティ来日時の将軍は、生類憐れみの令で有名な徳川綱吉(つなよし)。しかしシドッティが長崎勾留中に綱吉は麻疹で亡くなる。綱吉がそのまま存命であれば、シドッティもただ処刑されただけだったかもしれない。6代将軍 家宣(いえのぶ)が跡をつぎ、新井白石が最高顧問として就いた。政治改革を行う傍ら、江戸城に保管されていた禁書からキリシタンの研究も始めていた。そしてシドッティは江戸へ呼ばれ、白石が尋問することになる。

「羅馬人(ローマ人)に度々出会い候こと、凡そ一生の奇会たるべく候」


引き続きラテン語を勉強していた通詞の今村も一緒に、シドッティは江戸へ送られた。尋問内容は西洋紀聞に書いてあるとおり。西洋の地理、歴史、文化など色々なことを話していく。徐々にシドッティのカタコトの日本語に慣れてきて、通訳なしでもジェスチャーを交えて会話ができるようにもなっていったという。学問好きな白石にとって、シドッティと話して色々な情報を得ることは楽しい時間だったに違いない。お互い相手を尊敬している言葉が垣間見える。白石は宣教師が侵略のために来ているわけではないことを理解し、3つの策を幕府に出した。その理由も詳しく載っているが、どれもシドッティへの情を感じる。白石は彼を本国へ返すのを願っていたのは違いない。
しかし幕府はシドッティを幽閉することにした。白石はシドッティに度々会いにいっていたという。3年後、家宣は病死、白石は後ろ盾を失ってしまう。正しい政治を行うため強い信念を持って行った白石の政治改革は、まわりに疎まれることも多かった。シドッティも自分をお世話をしていた日本人夫妻に洗礼を授けたことで、夫婦とそれぞれ地下壕にいれられる。

これを聞いた白石はオランダ商館長ラルディンに話をしにいく。シドッティと話した後、白石もオランダの見方が変わりはじめる。南蛮を中傷して日本から追い出したオランダだったが、商人の顔をしながら、領土的野心を持って危険なのはオランダなのでは・・・。

「一通りの商人と心得、うかうかとあへしらいひ候事、さてさて恥かしき事に候・・・商売は皆々軍用の助の為めと見え候。おそろしき国にて候」(安積澹泊宛書簡)  

辞表を出して却下された白石だったが、8代将軍吉宗のときに首にされ、執筆活動に専念する。シドッティに尋問して得た知識をもとに、キアラの本、オランダ人からも聞いてまとめた「西洋紀聞」「采覧異言」はのちの洋学発展につながっていく。また幕末になるにつれ白石は評価され、西洋事情を知るための本として影響を与え続けた。維新の志士たちが彼の本を求めて江戸中をかけまわったという。

2014年

キリシタン屋敷の発掘で3つの骨が発見された。1つはイタリア人のDNA。キリシタン屋敷にいたイタリア人は、キアラとシドッティの二人しかいない。キアラは火葬されているので、該当するのはシドッティのみ。遺骨をもとに顔も復元された。シドッティの日本宣教の夢は叶わなかったが、日本に大きな足跡を残すことになった。

余談 


16世紀のキリシタン史を勉強していたのでちょっと気になる話があった。これまでイエズス会がおこなった、つまりザビエルや、ヴァリニャーノ、マテオリッチたちが行ってきた、現地の文化や習慣を尊重して柔軟に宣教する適応主義は、1世紀にわたってカトリックでは大問題で物議を醸していたらしい。(当時も異論は当然あったが。)つまり適応したことで妥協されて、キリスト教が正しく伝わっていないのではないか、という問題。布教する際、現地の文化に適応することに、どこまで良いとか悪いとかいうのは難しい問題ではある。現在のように情報も西洋との相互理解も何もなかった時代はとくに。なにせ、宣教師の服装一つにしても大問題だった。

16世紀は、スペイン、ポルトガルが教会と持ちつ持たれつの関係にあって、カトリック修道会は国家の庇護をうけて世界宣教へ行っていたが、対抗するプロテスタントのイギリス・オランダが台頭してから問題が出てくるようになってきた。そこで1622年に宣教師を派遣する布教聖省が誕生。国家権力から離れて純粋に宣教活動するという方向転換を図ったらしい。遠方へ宣教を希望する人は、修道会に属しているか否かにかかわらず、ここに申請して試験などをうけることが必須になった。イエズス会が行ってきた適応主義に関して議論を重ねた教皇庁は適応主義を否定した。カトリックも純粋な宣教のため良い方向へ方向転換したとはいえ、ザビエル、ヴァリニャーノたちの適応主義が否定されたのはちょっと悲しい。シドッティは来日前、日本語と日本文化を学んでいて、また純粋な動機といいザビエルたちの後継者ともいえる。

教皇庁のこの決定をトーマス・トゥールノン総司教はインドと中国へ伝えにいく役割だったそうだ。シドッティは派遣されるトゥールノン司教と同行することを教皇に強く願ってローマを去り、インドで一時滞在して司教を助けることになった。しかしこの司教は非妥協論者だったらしい。司教とシドッティは仲違いした。司教は後で一人で行った北京で拘束されたという噂をマニラでシドッティは聞いていた。白石がシドッティに、「マテオリッチのことを知っているか」と聞いたとき、知らない・・と答えたのが謎だったが、この件については、何も言わない方がいいと思ったようだ。(ちなみに中国へいったトゥールノン司祭は、現地で強い反発にあいマカオへ追放、その後、獄中死したらしい。)

ザビエルは、日本に派遣する宣教師について、様々なことを考慮して、ドイツ人やフランドル人(ベルギー人)から厳選するよう勧告したが、実際、中国と日本宣教に大きく貢献したのはイタリア人たちが多かった。そしてシドッティの前にキリシタン屋敷にいたジュゼッペキアラもシドッティと同じくシチリア島パレルモ出身。なんだか色々運命的なものを感じた。

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