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読書:西洋紀聞 新井白石

最後の伴天連シドッチに尋問した儒学者、新井白石の書いた本。ずっと16世紀あたりを勉強してきたので、鎖国して18世紀初頭の日本人(白石)がどんな風にそれまでの歴史や世界を見たのか面白かった。


「南蛮の人がここにこなくなって、すでに100年近くになる」

シドッチ登場。オランダ人たちは、シドッチの言うカステイラやルソンが何かわからないらしい、と聞いた白石。オランダ人達にとって敵対しているカトリックの連中が来るのはよくないので、色々としらんふりをしたようだが、白石はカステラやルソンを知らないなんておかしいと思ったようだ。

「彼地方の人(ヨーロッパ人)は、きわめてよく万国のことばに通じ・・・むかし、ナンバンの人、我国に来りし初、数日がほどに、我国のことばに通じ得て、つゐに其教をも伝へし」

確かに日本に来たバテレンたちは最低でも3、4カ国語は話せる人たちが多かった。日本語取得には苦労したが。でももうポルトガル語を通詞する人はいなくなり、出島にいるオランダ人とイタリア人シドッティの言葉は違うから通じない。

ポルトガル人の日本登場とキリスト教伝来

白石は、キリシタン屋敷で暮らしたジュゼッペ・キアラが残した本で勉強していたようだ。その本は現在残っていない。ポルトガル人が最初に日本(豊後)に来たこと、マードレ・デ・デウス号のこと(ちなみにマカオで日本人300人殺されたことになってる)、さらにマテオリッチのことも知っているとは。リッチの地図が鎖国中にも使われていたのは知らなかった。白石の身分からして禁書をみれただろうし、オランダ人とも接しているので、一般の人より色々な情報を手に入れられただろう。禁教令中はワインも禁止されたというような事を聞いたことがあるけど(ミサに使うから?)、カステラは残ったのはなぜだろう。

中盤はシドッティによる世界各国の話。世界史はわからないが、ペルシャがまだモンゴルの属国認識なのは不思議。最後はシドッティ自身の話やキリスト教について。

(シドッティ)豊後の殿様が最初にその教えに帰依し、部下の大名に命じて、はるばる我本国まで使を遣わし、多くの貢ぎ物を献上されました。その使節は、ごく幼い子をつれて来ており、キリスト教徒にしましたが、帰ろうとする際に御自身は亡くなりました。この使節を葬ったところは、今もローマに現存します。

(白石)私見では、・・・豊後の殿様とは、大友左衛門督入道宗麟である。その使節としてローマへ行ったのは植田入道玄佐で、元は美濃の国斎藤氏の一族である。天正12年に、宗麟から派遣されてローマの地で没した。

これは、ザビエルが離日するときに連れて行った宗麟の使節たちのこと?植田玄佐はローマで亡くなったわけじゃない気がするけれどよくわからない。そしてシドッティの持ってきた本には、大友宗麟が洗礼をうけている絵があるらしい。

ヨーロッパで騒ぎになった天正遣欧少年使節のことはシドッティは知らないのか、言及しなかっただけか。白石は「西洋まで派遣された人も数多くいた。」と書いているので、そういう人たちがいたことは知ったかも。そして、宗麟がザビエルと出会ってすぐ最初に入門した人とあるけど、実際宗麟はザビエルに会ってから27年後に改宗した。今自分たちが知っている歴史が正しくないのかもしれないけれど笑 

当時、どの程度、日本にいた宣教師たちの報告がまとめられて、ローマにあったかは謎だけど(その頃フロイスの日本史はマカオで眠ったまま)キアラの残した本には豊後にザビエルがくる前の話が書いてあるらしい。ほぼ同じ内容の話がザビエルの手紙としてフロイスの日本史にのっている。ザビエルは聖人になっているからその手紙は有名でローマで読まれていたのだろう。そう考えると、他のキリシタン大名たちの話ではなく、ザビエルと直接出会っている宗麟の話が出てくるのは納得できる。

シドッティはザビエルのことは知っていても、マテオリッチのことはよく知らないと言う。* 白石は、リッチは東洋人でヨーロッパにいって騙されて帰ってきたと言っているが、リッチはイタリア人、笑 日本に来た西洋人でザビエルを知らない人はいない、らしい。(*別の本を読んでシドッティがリッチを知らないといった意味がわかりました。)

シドッティの博学さに驚く白石、白石の賢さを認めるシドッティ。白石が書いた本がのちに大きな影響を与える事を考えると、本当に運命というか不思議な出会い。キリスト教の話は全く理解しなかった白石だけど、宣教師が侵略しにきたわけではないことを理解して、本国へ返すよう提案したこと。2014年にキリシタン屋敷の発掘で見つかったシドッティの骨はカトリック風に埋葬してあったらしく、幕府側も敬意を払ってくれたのかなと思う



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