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「もう、裸族でもいい」とか言ってみたい。

1カ月前、友人が面白いことを言っていた。

友人「もう、裸族でもいい」

私「・・・え?」

当然のことながら、私の理解は追いつかなかった。
彼女はこう続けた。

「化粧もしなくていいし、どんなにボロボロな服でもいいんじゃないかな」

「大事なのは、その人自身のあり方でしょ?」

たしかにそうなんだけど、身なりを整えることは大切だよなぁと思いながら「裸族でもいい」という言葉の衝撃が大きすぎて何も言えなかった。

「裸族でもいい」の真意は?

友人と別れてからも、その言葉がずっと頭の中でリピートされていた。

私の口からは絶対に出てこない「裸族でもいい」という言葉から、彼女の話の本質を見つけたかったのだと思う。

最初、その言葉の裏には

「ありのままの私を見て」
「これが、私だから」

と、他者に「ありのままの自分」を受け入れてもらいたいとか「これが私だから」嫌ならどうぞ離れていってください。みたいな強気なメッセージを意味しているのかな?とも考えた。

でも、彼女の人柄から察するに、それではどうもしっくりこなかった。

なぜ、「裸族でいい」と言えないのか。

今の自分からは絶対に「裸族でいい」なんて言葉は出てこない。

でも、もし自分「裸族でいい」と言うとしたら。
どんな心理状態なら「裸族でいい」と言い切れるのか。

やっぱり私が「裸族でいい」と言いきれない一番の理由は、恥ずかしいから。

もちろん、本当に裸になるわけではない。
でも、自分の全てをさらしだすことを考えるだけで恥ずかしくなる。

きっと彼女の言っている「裸族」とは、「自分の全てをさらけ出す」ことを意味しているのかもしれない。

「裸族でいい」は、自己受容の極み?

ここ最近、私はようやく自分を受け入れられるようになったような気がしていた。

でも、自分をさらけ出すことを想像すれだけで「恥ずかしい」と感じるのは、まだ自分を否定している部分があるからだと思う。

きっと、本当の意味での自己受容の領域には届いていないのだ。

ありのままの自分を認める
ありのままの自分を受け入れる
ありのままの自分を許す

もし、本当の意味で自己受容ができたら。

ありのままの自分をさらけ出すことに「恥ずかしさ」を感じることはなくなるのかもしれない。

となると。

「裸族でいい」とドヤ顔で言いきれるようになれば、本当の意味で自己受容できたということになるのかもしれない。

あー。いつか私もドヤ顔で「裸族でいい」とか言ってみたい。
(裸は嫌だけど)

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