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わたしとパニック障害~繊細さは宝物~

今回の「わたし」光さんのプロフィール
*53歳
*女性
*看護師、介護支援専門員
*2児の母
*パニック障害と10年闘う、その最中に子ども2人の不登校も経験

(ゆき 以下ゆ)よろしくお願いいたします。看護師さんなんですね。

(光)もともと看護師を10年間、ケアマネージャーを17年間ほどやっていました。
合計で30年間ぐらいフルタイムで仕事をして、2年前にやめたんです。

(ゆ)ケアマネさんでしたか。
それで今は、介護の傾聴活動などをされてらっしゃるのですね。

(光)今は、心の部分で何かできないかなと思って模索しているところです。
薬膳を勉強したり、数秘術にちょっとはまっていることもあります。
そういうことを自分の中に取り入れてみたり、自分探しみたいな感じでようやく少しずつ動き出せそうだなという感じはしています。

(ゆ)パニックの症状が出たのは、ケアマネをやっているときですか?

(光)たしか看護師の時ではなかったですね。
ケアマネになって2年くらい経ってからだと思います。

(ゆ)15年ぐらい前ですね。

(光)そうですね。37か8歳ぐらいだったので。

(ゆ)症状はどんな感じでしたか?

(光)脂汗をかいて気分が悪くなるというものでした。
ケアマネを始めてから最初の頃は頑張りすぎていて、昼も夜も訪問していました。
お客さんの希望があれば、夜も訪問していて。
結局、自分の自律神経のバランスが崩れていたんだと思います。
自分が体調が悪いことを家族の誰にも言えなかったです。
でも、やっぱり救急外来に行くことが増えてきました。

(ゆ) 救急外来にかかるときは、倒れてしまったりしていたのでしょうか?

(光)気分が悪くなったと思ったら、血圧がすっと下がる感じになって手足が硬直し始めてしびれてかたまってしまい、身動きがとれなくなってしまって。
どうにか主人に「病院に連れて行って」とだけ伝えて、連れていってもらってました。
病院に、はって行くようなときが最初はありました。

(ゆ)しんどかったですね。

(光)「眠れていないんでしょう?」と言われてデパスをもらいました。
「寝てはいるのだけどな」という感じでしたが。
朝になると、「仕事に行かなきゃ」という思いだけでしたね。
そういう症状が起きるのは夜なので、子供や同居しているお父さんお母さんも気づかなかったと思います。

(ゆ)お子さんは何人いらっしゃいますか?

(光)2人です。
その当時、子供二人は小学生でした。

(ゆ)夜にデパスを飲んで寝て起きて、週5で仕事に行くという生活だったんですね。
そして子育ても同時に。

(光)せまいところに入れなくなったりもしました。
子育て中で、主人は土日も仕事で家にいない人だったので、私が子供たちをどこかに連れて行かなきゃいけないみたいな気持ちに駆られて、無理しながら電車で移動してたら電車の中で気分が悪くなったりしました。
「どうにもできない」と思いながらも、隠そう隠そうとする自分がいるんですよね。
そういうことから電車に乗れなくなったりしたんですね。
電車が停まらないと怖かったり、各駅停車じゃないと不安になったり、という感じでした。
あと子供の行事で、バスでキャンプ地に行くのも怖くて、でも理由が言えませんでした。
「私は自分の車で行きます」と言いました。
一人の空間なら大丈夫だったんですね。
みんなと一緒に車に乗るのは何か怖くて、また発作が起きるような気がしていました。

(ゆ)「これはパニック障害だ」っていうのは自分で気づいたんですか?

(光)はい、「パニック障害だろう」と思いました。
主人に「パニック障害かもしれない」と言ったら、「何がパニックだ」と言われて。
「もう絶対に言わない」と思いました。
経口補水液とかポカリスエットとかを一口二口飲むと、ちょっと手が開いて和らぐことがありました。
飲み物が手放せなかった時があって、デパスも持ち歩いていました。
ある時仕事場で、ポロっと私が(自分の症状を)言ったら、「こういうところに行ってみたらどう?」とあるケアマネさんから教えてもらったんです。
市内で、カウンセリングをしてくれるところでした。

(ゆ)メンタルクリニックとか心療内科とはまた違うところですか?

(光)はい。
ご主人が気功をされて奥さんがカウンセリングをしているところです。
アロマの空間で、すごくいいところだったんですよね。

(ゆ)わかりました。カウンセリングルームですね。
私もお会いしたことがあります。
傾聴の講座などをされているところですよね。

(光)確か私もケアマネの勉強をしていた時に一度来てもらったことがありました。
そのカウンセリングのときに涙がたくさん出てきて、ティッシュを一箱使ってもまだ涙が出てくるくらいでした。

(ゆ)そちらはカウンセリングルームなので、お薬を処方したりするところではないですよね?

(光)はい。

(ゆ)病院で診断を受けるのではなくて、カウンセリングで少しずつ回復していった感じですか?

(光)何年もかかりました。
ケアマネの勉強会があったときは、前の方の席には行けず、入口から近いところを選んでいました。
いつでもその場を出られる構えを自分の中でしながら半分話を聞いている、ということが数年間ありました。

(ゆ)そちらでカウンセリングを受けて印象に残っていることはありますか?

(光)家族構成をまず最初に聞かれたときに、同居してる父母を上に書いていたんです。
そして主人、私と。
その時点で、「自分中心で良いんですよ」って言われたんですよね。
父と母を優先的に考えている自分がいたのだと、印象に残っています。

(ゆ)仕事柄もあると思います。
看護師もケアマネも、相手を支援する仕事ですからね。
今はもう自分を中心に考えていますか?

(光)話を聞くのは嫌いじゃなかったんですけど、やっぱりどこかで自分の気持ちを押し殺しながらっていうのがあって、家に帰ってもそれがあったのかなと思います。

(ゆ)(発症する)前と今とで、変化はありましたか?
仕事への向き合い方の面とか。

(光)いろいろな方との出会いの始まりでもありました。
どうにかこうにか悪化はせず、行動療法という言葉を知り「難しいかもしれないけど自分で一歩踏み出していこう」と思いました。
息子が大学受験のときで、今から7、8年前のことです。
東京に行くために、飛行機に乗らなければいけない時がありました。
「私もついていかなきゃいけない、でも乗れないな」と思ってしまって。
知り合いでスピリチュアルに詳しい方から、「お守りがあれば乗れますよ」と言われて、
お守りをもらいました。
それでお守りを持って飛行機に乗ったんですけど、帰りにお守りがなくなっちゃって。
それでまたうろたえる自分がいて、「どうしよう、帰りは飛行機に乗れない」となりました。
慌ててその方に電話して、話したら「大丈夫ですよ。帰れますよ。」と言う言葉で背中を押してもらえて、乗ることができました。
乗り物関係は少し自信がついてきた部分ではあります。
音は、苦手です。
強い台風の風の音で、過呼吸になりそうになることもありました。
今でもまだ怖いです。
圧迫感や息苦しさがあります。
自分に降り注いでいるわけではないとわかってはいるのですが。

(ゆ)ケアマネのお仕事は体調が安定しない中、カウンセリングを受けながらずっと続けていたんですか?

(光)仕事を辞めたり休んだりせずに、良く続けてこられたな、と自分でも思います。
ひとつは、家にいたくなかったということがあります。
まだ仕事に出ていた方が良かったですね。
自分の居場所がなかったのかもしれません。
「父と母の前では良い嫁でいたい」とどこかで思っていました。
「嫁としてこれをしなきゃいけない」とか「自分の時間よりも、父と母の用事に合わせなきゃいけない」という思いがありました。
 家にいると無理がくるので、外に出ていた方がまだ無理がなかった。
自分が天秤にかけて、仕事を選んでいたのだと思います。

(ゆ)今も同居されているのですか?

(光)母は13年前に急に亡くなったんです。
父も病気で3年前に亡くなりました。
だいぶ自分を解放できてきたとは思います。
重しだったと感じていたのかもしれません。
嫁いだときから自分のなかに何かがありました。

(ゆ)私も同居して発症したパターンなのでよくわかります。

(光)そうなんですね。
最初に「娘として見るから」と言われて、旦那よりも私を頼りにされていた感じがします。
今振り返ると「頑張らなくて良いんだよ」と思うんですけど。

(ゆ)ケアマネの仕事を辞められたきっかけはありますか?

(光)ケアマネの仕事は17年続けまして、10年を過ぎた頃からやめたいなとずっと思っていました。
なぜかというと「向き合うべき利用者様の気持ちよりも周りの声を聞いて作っているケアプランにはどんな意味があるんだろう」といつも思っていました。
「この人(利用者様)の心の中は違う気持ちなんじゃないか」と思っていました。
そんな気持ちが見え隠れしていました。
形式上だけで進めていくことにやりがいを感じなくなっていました。
ただ、仕事をしていくうえでは、行政上のことや法律も守らなければいけない。
そんなジレンマがありました。

(ゆ)「ここまでは良くて、ここからはダメ」ということもありますよね。

(光)ご家族の意向だけを聞くこともありました。
ご本人さんは黙っていて。
そして周りのデイサービスやお泊りのサービスなどが動いていく。

(ゆ)自分の思いとやりたいこととが、違ってきたんですね。

(光)「ケアマネもそれぞれ個性があって、それでも成り立っていくのだな」というふうに客観的に見る自分がいたりしました。
人と比べたりするのは良くないとは思うのですが、そういうことも思っていました。

(ゆ)話をもどして、カウンセリングだけで回復されたということなんですが、カウンセリングはいつくらいまで行かれていたのですか?

(光)通い始めて一年間は行っていました。
一ヶ月か二ヶ月に一回程度でしたね。

(ゆ)行動療法も同じクリニックでやっていたのですか?

(光)自分で意識しながらって感じでした。

(ゆ)何か本を読んだのですか?

(光)紹介してくださった方から資料をもらったりして行っていました。
その頃は、インターネットもなかったので、情報を探すことができませんでした。
スマホもまだ持っていませんでした。
自分から情報を探した、ということはなかったです。

(ゆ)「行動療法がいいよ」と誰かに言われたりしたんですね。

(光)はい。
でも、いつも不安と怖さと隣り合わせでしたね。

(ゆ)最初、救急外来でデパスをもらってから、そのような抗不安薬はまだ続けられてますか?

(光)この数年は持ち歩いていません。
数年前までは、必ずバッグなどに入れて持ち歩いていました。
仕事をしているときはそうでした。
あるとき、いつも行っている救急外来で一回点滴をしてもらったらすごく楽になったことがあったんですね。
また行ったら、先生に「また来たな」という顔をされて「点滴しても治りませんよ」と冷たい感じで言われてしまいました。
そういうこともあって、何回か続けて救急外来に行ったあとは、あまり行かなくなりました。

(ゆ)もともと看護師さんでいらっしゃったために、パニック障害の知識をお持ちだったのですか?

(光)知識がある、という感じではなかったですね。
逆に、「自分はもっと頑張れる」とか「自分には根性がある」と思っていて、「自分は(パニック障害とは)無関係だ」と思っていました。

(ゆ)発症してから、人から情報を得たり、カウンセリングや行動療法を受けられたりしたのですね。
今もまだ回復途中だと思うんですけど、何か心がけてることはありますか?

(光)「この人に会ってみない?」と言われても、ピンとこないと行かないようにしています。
自分のなかで無理はしないようにはしています。

以前と比べると「ノー」とか「嫌」という気持ちを表現できるようになってきています。
仕事を辞める前の2年間くらい、社長や上司に「この理由で受けたくないです」と言えていました。
「これ以上私が頑張る必要はない」と思って言葉に出せるようになっていました。
だから「仕事しようと思えばまだできたかな」という気持ちもあります。

(ゆ)最初の頃は夜眠れないことはありましたか?

(光)眠っても、すぐに目が覚めてしまうことがありました。
「まだ1時だ」みたいな。
夜中にシーンとしたなかで目覚めてしまうと、「寝なきゃ」と余計に思ってしまったり、静けさが不安をあおったりすることがありました。
「眠れなくて苦しい」という感じではなかったです。

(ゆ)安眠できるように心がけていることはありますか?

(光)一時期、背中が痛くなってしまったことがあり、「寝る空間は、絶対に自分にとって心地よい空間にしよう」と思って、「ベッドや枕などお金をかけてでも替えよう」と思い、買いました。
最初は、枕とマットレスを買うつもりで行ったのですが、ベッドも買ってしまいました。
自分の満足感や心地よい空間を、まず優先して作ろうと思ったんですよね。

(ゆ)他にやっておいて良かったなということありますか?

(光)家じゃないところで自分の時間を作っていました。
ドライブなんですけど。
仕事から直帰せず、30分くらいドライブして帰っていました。
そういうときは「残業だった」と言ったこともあります。
音楽を聴きながらドライブするのが好きです。
今でも一人の時間が好きなんです。

(ゆ)一人の時間は大事ですよね。

(光)「今日は勉強会」と親に言って、いったん帰ってからドライブしたりすることもありました。
もともとこういう気質なのも、子供の頃からの親との関係性が影響していると思います。
自分を閉じ込めてしまうというか。
親子関係も影響していたかな、ということは今になって思います。

(ゆ)しっかりしなきゃみたいな感じですか?

(光)何でも一番になるのが一番っていう親だったので。
私は看護師になりたいわけじゃなかったんです。
「これからの女性は手に職をつけなきゃいけない」という父親の考えがありました。
私はずっとスポーツをしていて、「スポーツをしたい」と言ったのですが、「スポーツでご飯は食べれない」と言われたのもあって、看護師になったんです。
看護師を辞める時に、親の顔が思い浮かんで辞めるときに父親に連絡しました。
看護師を辞める代わりに、ケアマネージャーの試験を頑張ったというのもあって。

(ゆ)親の呪縛みたいなものは今はなくなってきましたか?

(光)数年前にようやくなくなりました。
母の介護を父がやっていて、二人暮らしなので「私も行ってやらなきゃいけない」と思って行っていました。
ですが、ものすごい愚痴を言われるんです。
私のことをゴミ箱みたいに。
帰り道に涙をぽろぽろ流してしまいました。
「なんで父は私だけにこんなことを言うのだろう」と。
あるとき、自分の言葉を言えたのもあって、私が変わってきて、父も変わったような感じがします。

(ゆ)良かった、一度言えたんですね。 

(光)親戚が集まる法事で、父が兄のことを言い始めたことに、私は我慢できませんでした。
「ここにいない人のことを何でそんなふうに言うのか」と思って涙ながらに言いました。
今で言ったら虐待だと思うんですけど、ぶたれたりしていたので、昔は反発できませんでした。
幼少の記憶で常に「根性」や「頑張る」ということが根付いていたのかもしれません。

(ゆ)パニック障害の方で、そういう境遇の人は多いですね。

(光)こんな経験をしたことを両親は知らないですからね。

(ゆ)パニック障害の人(急性期の人)に何かメッセージはありますか?

(光)発作が起きることをあまり恐れないでほしいです。
確かに、怖いものではあるんですけど、感情や気持ちをしっかりと自分で受け止めるということをしてほしいです。

「その苦しみはずっとは続かないから大丈夫だよ」と伝えたいです。
すごく苦しいとは思うのですが。
「きっとわかってくれる人がいる、1人じゃないよ」と言ってあげたいです。

(ゆ)冒頭に、ご主人からの理解がない話をされていましたが、その後の状況は?

(光)あまり言葉で表現する人ではなかったので、私の状況をどう捉えたのかは聞いていないです。
後から思うと、夜病院に連れて行ってもらうときは、夜中に起こせば一緒に来てくれてはいました。
わかってくれていた部分もあったとは思います。
主人がしばらく出張でいないときは不安でした。
「夜中に発作が起きたら、じいちゃんばあちゃんには言えないな」と思っていました。
いつの間にか、そういうことを想定する自分がいました。
ありもしないことを思い浮かべてしまったりとか。

(ゆ)少し考えれば、心配事は起こらないとわかってはいるんですけどね。

(光)自分がパニック障害だとは職場でもほとんど言ってなかったです。
「過呼吸などの症状がある」という感じで伝えていました。

(ゆ)今の社会や医療に対して、もっとこうなったらいいなということはありますか?

(光)子供も過呼吸になってしまい、ずっと送り迎えをしていたことがあって、「命があってくれるだけでいいや」と思っていました。
そういった経験から「みんな違っていいんだよ」「人と同じでなくても良いんだよ」と言いたいですね。
薬膳や陰陽五行説に表れる部分でもありますし、数秘術でも言えることです。
「自分が感じる気持ちを否定しないでいいんだよ」と言いたいです。
そういった寄り添い方を自分もしていきたいです。

治療や薬を飲まなきゃいけないとか、診断が下ることがすべてではないとも思います。
あまり医療を信じていないところもあります。

(ゆ)看護師さんだったのに、医療を信じないっていうのは面白いですね。

(光)「なんちゃって看護師」なんです。(笑)

(ゆ)(笑)

(光)看護師になるときもあまり勉強しなかったんです。
だから、「うちで務まるの?」と言われたりして。
何年もずっと勤めて、病棟の婦長になった経験もあったのですが、「看護師は何か違う」とずっと思っていました。
お医者さんとケンカしたりもしていました。

(ゆ)このインタビューも、人それぞれで色々な考え方があるなと感じます。
インタビュー記事をアップしているんですが、それに対して「ここは違うんじゃないか」とか言ってくる人もいるんです。
「いやいや、それはそれで良い」と思います。

(光)人それぞれで感じることは違います。
数秘術で、宇宙の仕組みを学んだときもそう思いました。
神様は人に違った個性を持たせていて、その感情を味わうために生まれてきていると思います。
だから、良いとか悪いとかはないと思います。

(ゆ)ひとつの記事だけでなく、みなさんのインタビューをまんべんなく読んで、「いろいろな考え方があることに気づいてほしい」と思っています。
私は、光さんとは逆で、新幹線や電車には乗れるのですが、車は怖くて乗れません。

(光)自分で操作してても?

(ゆ)自分が操作するのが怖くて。

(光)私は「自分が操作したら停まれる」と思うので運転できます。

(ゆ)自分が信用できないというか。

(光)それはきついですね。

(ゆ)苦手なポイントもみんな違うので、おもしろいです。

(光)経験したことは意味があったなと思います。
今やりたいことや本当の自分、自分らしさに気づけたと思います。

(ゆ)やりたいことはなんですか?

(光)薬膳や食に関することですね。
昔から、食事を作ることが好きでした。
あるもので何か作ったり、調味料を量らずに感覚で作ったりしていました。
薬膳的な季節の暮らし方や、昔ながらの知恵を伝えたりしていきたいです。
数秘術で自分を見ると、意味を持って生まれてきたみたいです。
楽に生きれるヒントを自分の経験を通して伝えていきたいです。
その先に何かが見えてくるような気がしています。

(ゆ)今は、カフェに勤めているのですよね?

(光)カフェは開店日が少なく、あまり働けないんです。
生活のことを考えて、苦手なことに挑戦してみようと思い4月からトマトのパック詰めを始めました。
昔から「そういう職場は女の世界だからすごいよ」という噂を聞いていましたが、ある方から「現実的な仕事をしていったほうが良い」と言われて始めてみようと思いました。
これまで看護師やケアマネの経験しかなくて、アルバイトはしたことがなかったんです。
資格を持ったうえで人様と関わることが多く、どこか上からの目線になってしまっていたと思います。
生活に直結する仕事、そういう職場に身を置くことも勉強になるかなと思ったんです。
ただ、勤め始めたときは、冷たい言葉を言われたりしました。
人がどんどん辞めていく職場のようで、自分も辞めていく人の一人だと思われていたみたいです。
「皆さんの言うことはごもっともだな」と思いながらも、聞き流すようにしていました。
「いろいろな意見があるから」と思って。
続けるうちに、私に辞めてほしくないといった雰囲気を感じています。
ただ、この仕事はひとつの経験ではあるけれど、ずっとは続けられないと思います。
あと、初めて薬膳のワークショップを開催させてもらいました。
皆さんの笑顔が見れて、とても嬉しかったです。
「笑顔が見れるっていいな」と思いました。

(ゆ)光さんは、人と関わるのがお好きなように感じます。

(光)そう言われたことがあります。
自分としては「人と関わるのは苦手だな」と感じていたのですが、「人が好きですよね」と言われました。
たしかに、人と関わってお話を聞いたり、循環させていくのは好きなのかもしれません。

(ゆ)一番子育てが大変なときに発症して、乗り越えられたんですよね。

(光)子供が中学生になったばかりの頃、子供に過呼吸の症状が出始めました。
私は経験していたので、そこまでうろたえることなく、対応することができました。
ただ、子供の症状を見て、私も同じように過呼吸になったりしました。
娘が学校に行けなかったときに、ケアマネの仕事で良かったなと思ったことがあります。
仕事中に娘を車に乗せたまま、自宅訪問などをしていたときがあったんです。
家にいさせるのが心配なときもあって、「車で寝てていいから」と言って、30分間訪問して、家に寄って娘をおろして仕事場に帰るというような。
職場には言ってなかったですけど。
「よく続けてこれたな」と思います。

(ゆ)続けられて、すご過ぎます。お子さんも安心されたでしょうね。

(光)子供二人もとても繊細なんです。
娘が中学高校と過ごしているあいだは、命があってよかったという感じでした。
今は、「バリスタになる」と言って独立して、福岡にいます。
高校を卒業する頃は、「まわりが大学に進学するなか、やっと卒業できたけど私には何もない」と言っていました。
唯一の希望は、韓国に関することでした。
韓国語を学ぶのが好きなようでしたので。
本屋に連れて行って韓国語の本を買ってあげて、韓国語を学んでいました。
それから、アルバイトをしてお金を貯めて、韓国留学を一年していました。
そのあいだ泣きながら電話をかけてきたこともあって、私は行けませんでしたが、それを乗り越えて今バリスタとして頑張っています。

(ゆ)娘さんは自分のお店を持っているんですか?

(光)前は某コーヒー店と他のお店を掛け持ちして働いていましたが、今は某コーヒー店を辞めて、社長さんと二人でお店を営んでいます。
「これでやっと大丈夫かな」と思っています。

(ゆ)光さんがパニック障害を発症したのは、今から15年前くらいですよね?

(光)はい。

(ゆ)この病気「治った」の判断が難しいと思いますが、治ったタイミングはいつごろですか?

(光)台風の時期が来ると不安感が強く出てしまっていましたが、いつからか大丈夫になりました。
少しずつ治ってきてはいましたが、10年間くらいは症状がありました。
薬も持ち歩いていました。

(ゆ)今は「不安感があっても大丈夫」と思えるようになったんですね。

(光)自分を信じられるようになってきたので、大丈夫になりました。
その10年のあいだ、子供が不登校になりました。
学校に行けなくて、毎日学校に電話していました。
下の子が落ち着いたら、上の子にそういうことがあったり。

(ゆ)不登校のことは、共感してくださる人が多いと思います。

(光)あるとき息子が「自分はHSPかもしれない」と言ったことがありました。
私は「みんなそうだよ」と言ったんですけど、息子は「人を信じられない」と言っていました。
それも乗り越えて、26歳で仕事につきました。
これまでのこういった経験を生かして「渦中にいる方のお話を聞いてあげたい」とも思います。

(ゆ)看護師やケアマネの仕事をされてたから、お話を聞くプロですものね。

(光)プロではないです。
ケアマネをやっていたときに、あるおじいちゃんから「あなたと話していると、どこまでもしゃべってしまう」と言ってもらえたことがあって、それは嬉しかったです。

(ゆ)光さんなら、先ほどのやりたいことをすぐ実現できると思います。

(光)今は、「これからを楽しんでいきたい」と思えるようになりました。

(ゆ)良くも悪くもコロナ禍があって、今はこうしてオンラインで話せるようにもなりましたね。
いつでも誰とでも話せますし。

(光)コロナ禍は、ケアマネを辞めるきっかけにもなりました。
「介護の仕事に束縛されて自由がなくなってしまう」と感じて辞める決断をしました。

(ゆ)私も自由がないと生きていけないです。

(光)本当にそうです。
「本来、魂は自由なんだよ」とある方から言われて、「本当にそうだな」と思いました。

(ゆ)最後に、今だからこそ言えることはありますか?

(光)繊細な心を持っているからこそ、症状が起こることは多いと思います。
ただその繊細さは宝物だなとも思います。
それがこの世に生まれてきた自分の人生の素晴らしい点だと思います。
それすら感じないまま生きていく人は多いと思うのですが、それを受け止めてあげられる自分であれば、光を照らすことができると思います。
きっとその経験は光につながる、と思います。

(ゆ)「繊細さは宝物」良いですね。

(光)この経験がなければ、私の命は短かっただろうと思います。

(ゆ)「繊細さは宝物」というタイトルにしても良いですか?


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