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小説「あんぱんと弦月湯」第3話(全4話)


これまでのお話


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第3話


「ふはあ……」

 離れの縁側に座って八月の夕空を見上げながら、俺はあんぱんをひと口齧った。あんこと柔らかなパンのハーモニーを味わったあと、番台で買った瓶入りの冷たい牛乳をぐいっと飲む。これこれ。これなんだよ。口の中に広がるあんことパン、牛乳の三位一体の調和を喜びながら、目をつむる。ああ、まじで旨い。生きててよかった。

 弦月湯に来てから、ふた月近くになる。暦さん、いずみさん、山口さんとの面談を経て、俺は〈アーティスト・イン・弦月湯〉の一員となった。アトリエを離れの1号室に設けて、歩いて15分ほどの実家と行き来をする毎日だ。今は会社の仕事はオンラインなので、アトリエが仕事部屋となった。たまにこの部屋で寝泊まりもする。

 しかし「社会課題にアートを通じて働きかけたい」という自分のやりたいことの種は見つかったものの、具体的な方策はまだ決まらない。暦さんとのディスカッションを通じて、ジェンダー問題についてもっと知りたい、もっと本気で取り組みたい気持ちが湧いてきてはいるものの、個人で出来ることにはどうしても限りがある。

 そうこうしているうちに、ヘラルボニーが大王製紙株式会社とコラボレーションして、アートをデザインした生理用品を販売するという記事をSNSで見かけた。さすがヘラルボニー! と嬉しく思う気持ちと同時に、先を越されてしまったという喪失感も湧き上がった。

「俺に出来ることなんて、なにかあるのかなあ……」

 心もとなさが、そのまま口から洩れ出てきた。そのまま、晩夏の夕焼け空に浮かぶ雲を見つめる。でも、仕方ない。やれることを積み重ねていくだけだ。俺はあんぱんを見つめ、ばくりと齧った。


 ぱしり。


 乾いたシャッター音が響く。あたりを見回す。カメラを構えた暦さんだ。

「悠平、いい顔してるから思わず撮っちゃった」
「なんすか、いきなり」

 暦さんはニカッと笑って、俺の隣に座った。

「ほら、いい顔。そう思わない?」

 そこには、大口を開けてあんぱんに齧りつく俺がいた。まるでエサにがっつくゴールデンレトリバーのようだ。

「あんぱん齧るおっさん写して、どうするんですか」
「うん、個展に出そうと思って」
「個展? 暦さんの?」
「そう。ここでやるの、弦月湯で」

 驚いて、あんぱんを落としそうになった。

「暦さんが? 弦月湯で、個展ですか?」
「そうそう。他の子達もたまにやってるけど、自分もやってみようと思って」
「暦さんが、まさか個展開くなんて」
「なに、その反応」
「いや、暦さんはすげえ仕事人だと思ってたから、まさか個展開くなんて」

 そう、暦さんの手掛けたデザイン仕事はどれもセンスが良く、業界の中でも高い評価を受けている。弦月湯に来て暦さんと知り合ってから、え、あのデザインも暦さんのだったの? と驚く機会がめちゃくちゃ増えた。お話を聞いてみると、フリーになっても、学生時代や会社員時代に培った人脈も活かしながら、実直にいい仕事を積み重ねているのがよく理解できる。フリーランスに必要なのは、高い技術力やセンスだけでなく、人柄も大事なんだということが、暦さんを見ているとよくわかる。

「自分はそんな仕事人間じゃないよ。ただ、好きなことが仕事になったから、オンとオフの境界線は曖昧なのかもしれないなあ」
「いま、こうやって写真を撮っているのは、オンですか? オフですか?」
「どっちなんだろうね。自分でもよくわかないや。悠平、よければしばらくモデルになってもらえないかな」

 そう言って、暦さんはカメラを構えた。俺は苦笑する。

「モデルになってもいいですけど、そしたら暦さん、俺の思考の壁打ち相手になってくださいな」
「いいよ。どんなテーマで話していこっか」
「テーマは、俺の新しい仕事についてでお願いします」
「オッケー。悠平、どう? 弦月湯に来てから、なにか変わった?」

 暦さんの言葉に、俺はぐっと詰まる。このふた月、俺の中ではなにが変わったのだろう。

「弦月湯に入るとき、俺、暦さんとジェンダー問題の話をちょっとしたじゃないですか」
「うん」
「あれがきっかけで、俺にできること、なにかあるんじゃないか? って思って、ジェンダー問題の勉強を始めたんです。本やインターネットで情報集めたり、noteにアカウント開設して、自分の考えを少しずつまとめたりし始めたんです」
「すごいね、悠平。めちゃくちゃ大きな歩みを、着実に積み重ねてるじゃん」
「ありがとうございます。でも、調べれば調べるほど、そして勉強すればするほど、俺になにかできることなんてあるんだろうか? って不安な気持ちが湧き上がってきちゃって。そうしているうちに、ヘラルボニーが大王製紙とコラボして生理用品のパッケージをデザインしたっていうことを知ったんです」
「あ、それ、自分も見たよ」
「そうでしたか。いやじつは、ヘラルボニーが生理用品を出してくれたってこと、めちゃくちゃ嬉しくて、やった! って思う自分と、ああ、先を越されちゃった……って寂しく思う自分が、なんだかないまぜになっちゃってて。これからどうしよっかなあ……って思ってたんです」
「なるほどねえ」

 ぱしり。シャッター音が裏庭に響く。

「自分としては、悠平がそういう風に思うようになってくれたってことの方が、めちゃくちゃ嬉しいけどな」
「そうですか?」
「うん。だって、自分と話すまでは悠平、生理のことはタブーだと思ってたって言ってたじゃん」
「はい」

 そうだ。結婚を考えていた前の彼女は、いつも生理のことを隠そうとしていた。

「それが、今はきちんと自分ごととして考えてくれてる。その変化って、すごく大きなことだと思うよ」
「そうなのかなあ」
「うん。まずは、ゼロがイチになったことを自分でほめなくちゃ」
「そっか」

 確かに、俺はこれまで何も知らなかった。自分の性についても、自分と異なる性についても、自覚的に考えようとすることはなく、与えられる情報をただ受け取るだけでしかなかった。そういう意味では、まだ俺は赤ん坊みたいなものだ。

「ゼロがイチになったところかあ」
「そうそう。で、これからの悠平はイチをジュウにするフェーズに入っていくんだと思う」
「イチジュウのフェーズか」
「そう。あらゆる面で、ゼロイチとイチジュウって違うから、まずはそれを心得る必要があるのかもしれないね。仕事でも、生活でも、人間関係の構築でも同じじゃない」
「たしかに、そうですね」

 俺は空を見上げる。ぱしり。シャッター音が響く。

「でも、最初からイチジュウを目指さなくてもいいと思う。まずは、イチをニにするところからでいいんだよ。最初から大きなもの、完成されたものを作ろうとしなくて大丈夫」
「そうなんですかね」
「うん。たぶん、悠平の場合はゴールから逆算できるタイプじゃないから、スタートからどれだけ進めたかってことを毎日確認できるようにするとモチベーション続くかも」
「あー、確かにそうですね。暦さん、俺をよく見てるな」
「悠平、わかりやすいから」

 思わず笑みがこぼれる。ぱしり。その瞬間を切り取られる。

「仕事もさ、なにか新しいこと、大きなこと、立派なことをバシーンと始めなきゃいけないって思ってる節ない?」
「……はい」

 その通りだった。経歴も華々しい起業家のインタビューや本を読んで、勝手に劣等感を持っていた。立派なことをやらなければ仕事を新しく始める意味なんてないと、無意識に思っていたかもしれない。

「そういう考え方が有効な場面も、確かにある。でも、今はまず思考のパーツを揃えていく時期なんじゃないかな」
「思考のパーツ?」
「うん。もっといろんなことを見たり聞いたり、読んだり学んだりして、自分の思考を深く育成するためのパーツ。悠平は様々なこと学び始めたところだけど、この先学び続けていったら、あれとこれがこんなところで繋がっていたなんて! ってびっくりする場面も出てくると思う」
「なるほど」
「だから今は、まずはインプットを大事にする方がいいんじゃないかな。新しく仕事を開拓しなくちゃってがむしゃらになるよりも、ゆったり構えて一年ぐらいはインプットに充てる気持ちでもいいんじゃないかなって思うよ。たぶん、悠平だったらインプットしながらアウトプットがポロポロ出てくるような気もするし」
「ふうむ」
「今の仕事続けながら、然るべきときに将来の種を蒔いていくってスタンスを選ぶのはどうかな? あと、将来のための貯金があると、いざ動いていこうとする時、とても安心だよ」

 暦さんの言葉を聞いて、俺は目から鱗がぼろぼろと落ちた。新しいことを始めようとする時は、すべてを新しくしなければならないと思いこんでいた。それこそ、今の会社を辞めようかということも考えていたのだ。

「ゆっくり、新しいことに移行していってもいいんですね」
「もちろんだよ。地盤を少しずつ育てていきながら、軸足を少しずつスライドさせていくっていうのは、新しいものを作り続けるクリエイターにとってはとても大事なことだよ。実際、自分も前の会社から独立するときには時間とエネルギーをかけたしね」
「そうだったんですね」
「うん。独立したての頃は、前の会社からのつながりで仕事をいただいていたクライアントさんも少なくなかったし。今もそういうお客さんは大事にしているよ」
「暦さんといま話せてよかった。話せてなかったら、どうやって会社を辞めようかってことばっかり考えてました」
「……悠平のことだから、そう考えてるんじゃないかなって思ってたんだ。実は」

 暦さんは二カッと笑った。

「思い立ったら裏表なく一本気だからね、悠平は。そこが、いいところでもある」
「ありがとうございます」
「けど、大事なことほどゆっくり考えて、いまの自分にできることを積み重ねて、遠くから進めていったほうがいい。しっかり準備をして、動けるときが来るまで待つんだよ。それで、動けるときが来たら、迷わずに動くんだ」

 暦さんは、俺の目をしっかり見つめながらそう言ってくれた。俺も頷く。暦さんの目が柔らかくなった。そして、カメラの画面を覗き込んだ。

「お、いい写真撮れた。ありがとうね、悠平。お礼に今度、あんぱんご馳走する」
「牛乳もつけてください」

 暦さんは笑いながら立ち上がり、親指をぐっと突き出した。颯爽と去っていく暦さんの後ろ姿を、俺は見送った。


 暦さんの個展「みんなの愛と生涯」は、9月頭の水・木と弦月湯の風呂場ギャラリーで開催された。山口さんがSNSでも広報していったおかげで、遠方からもたくさんの人が弦月湯に集まった。入湯制限をかけながらの開催となったが、風呂上がりの皆さんの顔は一様に幸せそうだ。

 俺も、大学時代の友達のカケルと久しぶりに待ち合わせて、一緒に風呂に入ることにした。

「悠平、いまここをアトリエにしてるんだね。すごく雰囲気があって、いい銭湯だよ」
「銭湯もいいんだけど、中の人たちが最高にいいんだよ。個展開いてる若月暦さんって俺達の先輩なんだけど、俺、この人のことすっげえ尊敬してるんだ」

 カケルと話しながら男湯の暖簾をくぐった。するとそこには、あんぱんを片手に大笑いする俺の写真があった。

「わ、悠平だ!」

 カケルは嬉しそうに声を上げる。俺はセピア色の写真に見入る。俺、こんな表情して笑うんだ。なんだか新鮮な気持ちで、暦さんと話した日の自分と対峙する。照れ臭い気持ちを隠しながら、裸になり、体を流し、湯船に浸かる。

「暦さんって、すごく人間のことが好きなんだね」

 セピア色の写真に囲まれた湯船に浸かって、カケルはぽつりとつぶやいた。

「ここに飾られている写真、みんないい顔してる。それって、暦さんに対してみんなが心を開いてるってことなんだよね」
「そっか、そう言われてみると」

 暦さんに初めて会った時から、なんてオープンマインドな人だろうと思っていた。暦さんがそういう人だから、みんなも安心して心を開くのだろう。

「悠平はさ、社会課題に対してアートを通じて働きかけたいって言ってたよね」
「うん。最近はジェンダーの問題を掘り下げて勉強中だよ」
「Twitterの投稿見て、そうなんだろうなとは思ってた。僕もさ、悠平の投稿をきっかけに、ちょっと違うけれど、同じようなことを考えるようになっているかもしれない」
「そうなの? カケルも?」
「僕の場合は、パレスチナの問題に対してなんらかのアクションを起こせないかって漠然と思っていたんだ。けれど、あまりにも問題が大きすぎるし、僕は非力だから、何もできることはないだろうって諦めていた。でもね、悠平が毎日投稿してくれることで勇気をもらって、僕も具体的になにかできないかなって思うようになり始めたんだよ」
「カケル、すごいな」

 カケルは照れたように笑い、湯を掬って顔を洗った。

「多分だけどさ、僕らみたいに社会課題に対して何か自分のできることをしたいと思っているクリエイターって、結構いると思うんだ。そういうクリエイターの連帯の輪を、少しでも広げていけたらいいよね」

 カケルの言葉を聞いて、俺の中に閃くものが走った。

「カケル、いいこと言った」
「え?」
「賛同者募って、グループ展やらないか? ここで、この弦月湯で」

 カケルの目が大きくなった。笑顔が広がる。

「それって、とても素敵なことだね……!」

 俺は湯船の壁に貼ってある写真、常連のおじいちゃんの笑顔を見つめた。暦さんのおかげで、俺たちの心にも火がともった。俺たちは、ここにどんな空間を作り出せるだろう。

 湯船を上がると、体を拭くのももどかしく、俺とカケルは番台の山口さんのもとに駆け寄った。

「山口さん、俺らもグループ展開くことって出来ますか?」





(つづく)



つづきのお話


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