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小説「あんぱんと弦月湯」第2話(全4話)


これまでのお話


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第2話



「すげえ……」

 大人になってから見る弦月湯の内装は、自分という存在の芯に迫ってくるようだった。美術を僅かなりとも学んできたから、ここに使われている技術がどれだけ凄いかも理解できる。彫刻家・若月弦二郎が自分という存在のすべてを賭けて、この内装に取り組んできたことが肌身で感じられた。思わず、俺は身震いした。

 グラスゴーでの山口さんとの電話から三日後の午後、俺は弦月湯にいる。山口さん、インタビュー記事で読んだ若月暦さん、それから弦月湯三代目の若月いずみさんとの面談のためだ。何か手土産を持っていった方がいいのか迷って、巣鴨駅前のキムラスタンドであんぱんを買っていった。

「祖父の弦二郎は、グエル公園で出会った青いトカゲにインスピレーションを受けて、この蜘蛛の巣モチーフのモザイク細工を作ったんです」
「そうなんですね。でも、なんで蜘蛛の巣を?」
「祖父が子供の頃、気がつくと庭の木に蜘蛛の巣が張られていることが多かったそうです。雨上がりなど、日の光にあたって輝く水滴をじっと見ていたことも多かったようです。身近なものをモチーフにしていいんだと、それまでのこだわりから自由になった祖父は、子供の頃から大好きだった蜘蛛の巣も弦月湯の内装に取り入れました」
「へえ……」

 弦月湯に着いた俺はまず、番台にいた小柄な女性、三代目の若月いずみさんが風呂場を案内された。noteに毎週コラムを書いている、スペイン語の翻訳者でもある方だ。俺は緊張しながら、その話を聞く。

「一条さん、ねえちゃん、お茶にしましょう」

 明るい声が聞こえる。風呂場のガラス戸から、紅茶色の髪が見える。ああ、この人がインタビューで読んだ若月暦さんだ。目が合って、俺はペコッと頭を下げる。暦さんも大きく笑って、頭を下げる。

「せっかくだから一条さんが持ってきてくれたあんぱんに合わせて、アイスカフェオレにしたんだけど、それでもいい?」
「あ、はい、恐縮です」
「じゃあ行こう。壱子さんも待ってるからさ」

 壱子さん……さっき、あんぱんを渡した山口さんのことか。電話をくれた女性だ。キビキビしていて、仕事の出来る大人の女性って印象だったな。俺は緊張しながら、暦さんといずみさんの背中について歩く。

「どうぞお座りください」
「あ、はい」
「そんなかしこまらないで大丈夫ですよ。お茶を飲みながら、ゆっくりおしゃべりしましょう」

 山口さんの静かな笑顔に緊張がほどける。座布団に腰をおろす。ちゃぶ台には、皿に載ったあんぱんと、氷の入ったカフェオレが並んでいる。自己紹介を済ませたあと、慣れない正座でもじもじしている俺を見て、山口さんは微笑んだ。

「正座だと辛いと思うので、足は自由に崩しちゃってくださいね。私も正座してないので」
「ありがとうございます」

 俺は頭を下げる。その横で、暦さんが無邪気にあんぱんに手を伸ばす。

「木村屋さんのあんぱん、美味しいよね」
「そうなんですね」

 と返して、ハッと気がついた。これじゃ、食べたことないのに持ってきましたと同義じゃないか。俺は観念して、本当のことを打ち明けた。

「実は、俺、木村屋さんのことも、キムラスタンドのことも知らなかったんです。今日お伺いするにあたって、なにか手土産を持っていった方がいいかとあれこれ考えて。で、いろいろ調べてみたら、巣鴨駅前のキムラスタンドを検索できて。調べてみたら、あんぱんで有名な木村屋さんってことだったので、それなら間違いないじゃん! って、買ってきたんです。あんぱんにした理由は……俺が、あんぱんを大好きだからです」

 三人は顔を見合わせた。笑いがはじけた。笑いの渦がちゃぶ台を包んだ。

「え……な、なに……」
「いやー、やっぱ、悠平くん、面白い人だわ。ねーちゃん、壱子さん、そう思うでしょう」
「ほんとね。一条さん、あなた、とても面白い人ですね」

 いずみさんはアイスカフェオレを両手で抱えながら、無言で小刻みに頷いている。山口さんは可笑しくてたまらないという表情で、俺に向き直った。

「一条さんのその正直さ、なかなか得難い美点だと思います。大人になると、どうしても見栄をはって知ってるふりをしてしまったり、話をなんとなく合わせてってことも出来るはずなのに、それを選ばない。かえって正直であることによって、人の心を開いていくことができるんですね。とても素晴らしい美点です」
「は、はあ……」

 褒められるのに慣れていない俺は、頭をぽりぽりとかいた。暦さんが、俺に向き直る。

「悠平くんも、デザイナーなんだよね」

 来た。ある意味、本題。業界の先輩と、どんな話をすればいいんだ。でも、取り繕おうとするな。そんなことしても見抜かれる。ありのままの俺でいけ。

「はい」
「Googleドキュメントに書いてあったSNS、ちょっと辿って見てみたんだけど、芸大の先端芸術表現科の出身なんだね。あそこ、いろんなカリキュラムで学んでいけるからいいよね」
「そうですね。ほんと、学生時代の学びには感謝しています」
「今は、企業でデザインの仕事を?」
「はい。ウェブ周りの仕事が中心だったんですけど、ツァイトウイルスの影響をもろにかぶっちゃって。結婚を考えていた彼女ともうまくいかなくなっちゃって、俺の人生ほんとにこれでいいのかな? って思っていたところに、弦月湯のnoteと出会ったんです。そこで、若月さん……暦さんのインタビュー読んでるうちに、なんだか心の導火線に火がついちゃって。気がついたら、Googleドキュメントに書き込んでいました」
「そっか。いま悠平くん、『俺の人生ほんとにこれでいいのかな?』って思ってたって言ったけど、ここでリセットして、すべてもう一度やり直していいってなったら、何をしたい?」

 俺は考え込んだ。さて、俺は本当は何をやりたかったんだ?

「悠平くん、ひとりで考え込まないでいいんだよ。よければ自分が壁打ちの相手になるからさ、なんでも好きに話してみて。話しているうちに、考えが流れ出すこともあるからさ」
「……ありがとうございます。俺が本当に何をやりたいのか、明確な答えはまだ見えないんですけど……ただ、とても深い共感を感じている企業があって」
「それはどこ?」
「岩手に本社を持つ、ヘラルボニーです」
「ヘラルボニーね!」
「ご存知でしたか」
「もちろん。自分も好きな企業だよ。障害福祉の枠を越えて、アートによる社会課題の解決案を提示しているところに、すごく共感を抱いているんだ」
「わかります。俺もそんな風に、社会の課題にアートを通じて働きかけていくことは出来ないか? って、知らないうちに考えるようになっていたのかもしれません」

 そう、ヘラルボニーにはずっと深い共感を抱いてきた。自閉症のお兄さんがいる双子の兄弟・松田崇弥さんと松田文登さんが、知的障害を持つアーティストとの共創によって、「福祉」という領域を拡張し、新たな文化創造に挑んできた。障害を特性と捉えて、「異彩を、放て。」をミッションに進んできたヘラルボニーの活動には、いま世界中から大きな共感と支持が寄せられている。

「社会の課題にアートを通じて働きかけていく、か。いいね。具体的なイメージとか、なにか浮かぶ?」
「そうですね……これはSNSで見たんですけど、大人用おむつの色やデザインを変えたことで、利用者の方がすごく喜ばれるようになったというのを知って、なにかヒントを得られたような気がしました。亡くなったうちの祖母も最後はおむつだったんですけど、確かにおむつを履くことにずっと抵抗を感じていました。今にして思えば、色やデザインも大きな要因だったのかもしれないと思うんです」

 実際、大人用の白いおむつを嫌がる人は多いらしい。おばあちゃんも、最初は泣いていやがっていたと母が教えてくれた。もしも、色やデザインでそうした心理的抵抗が取り除けるなら、どんなにかいいだろう。

「確かに。そういう側面は、とても大きいだろうね」
「はい。おむつの話はひとつの例ですけれど、シルバー世代の方々や、障害を持つ方々、社会的にマイノリティとされる方々が『これ、とてもお洒落で使いやすいね』って喜んでくれるようなものを作っていくことが出来たら、俺はめちゃくちゃ嬉しいのかもしれません」

 暦さんは、なにか胸を衝かれたような表情になった。しばし無言になった。それから、意を決したように口を開いた。

「そしたらさ、悠平くん」
「はい」
「ひとつの例として、自分、若月暦に合わせて製品を開発するとしたら、どんなものがいいか、考えてくれない? 自分は、女の体で生まれてきたけれど、性のない存在として生きている、いわゆるノンバイナリー・ジェンダーなんだ。あえてジャンル分けするとするなら、FtXなんだろうな。マイノリティとしての自覚も感じながら生きてる。こういう、自分みたいなノンバイナリーの人たちが思わず手に取りたくなるような製品ってどんなものか、考えてもらえないかな」
「え……」

 そうだったのか。たしかに写真を見た時から、中性的な方だと思っていた。実際にノンバイナリーの方と出会ったのは初めてのことだ。学生時代には俺の周りにも男から女になった奴もいたし、女から男になった奴もいた。並々ならぬ覚悟を持って、自分の人生に向き合っているのだと尊敬の気持ちを抱いていた。その中間の、あわいの性に立ち続けるというのも、とてつもない覚悟のいることだろう。

 俺はしばし考えた。けれど、自分ひとりで考え込んでも仕方ない。これだけ、暦さんが自分を開いて飛び込んできてくれたんだ。なら、俺もそうするのが礼儀ってもんだろ。

「ノンバイナリーの方に出会ったのは、初めてです。もしよろしければ、すこし暦さんのお話を聞かせてもらってもいいですか?」
「どうぞ」
「なにか体へのアプローチは選ばれたのですか?」
「自分はしていないんだ。人によっては、ホルモン治療とかをしたり、乳房切除手術をする人もいるけれど、自分はしていないし、これからもするつもりはないんだ」
「そしたら、毎月……生理はあるということですね」
「まあ、そうなるよね」

 俺は、別れた彼女が、生理のたびに顔が曇っていたのを思い出した。彼女はドラッグストアで「ちょっと待ってて」と言って、生理用品コーナーに行って、こそこそとカゴに入れて、レジで青色の袋に入れてもらっていた。「俺がついていっちゃだめなの?」と尋ねると、「恥ずかしいから」と頑なに拒まれた。その反応から、生理について触れるのもタブーなのかと思うようになっていったのも事実だ。

「生理って、俺にとっては未知の領域の話なんです。昔つきあってた彼女も、生理のことはできるだけ隠すようにしてたから、正直なところ、生理について触れるのってタブーなのかなってずっと思ってきたんです」
「悠平くん、すごいね。そのタブーだと思ってきたことに、いま自分から切り込んでいるよ。勇気があるよ」

 暦さんは、笑顔で応える。強い人だ。俺の躊躇いも未熟さも見抜いた上で、受け止めてくれようとしている。この人がこれだけの強さを身につけるには、どれだけ流してきた涙があったんだろう。どれだけ歯噛みした過去があったんだろう。

「自分には女性の体の機能とかはわからないけれど……同じ人間として考えてみると、自分がそうじゃないと思っている状態が常のことであり、なおかつ毎月そうじゃない状態と向き合わざるを得ない時期が巡ってくるというのは、客観的に見て、とてもしんどくて辛いことだと思うんです。だから、日々の生活も、毎月巡ってくる周期の時期も、できるだけストレスフリーに過ごしてもらいたい。そう願うんです」

 暦さんは、無言で頷いた。

「もし自分が、暦さんと同じようなFtXの方々に製品を開発するとしたら、めちゃくちゃシンプルなデザインの生理用品や下着を考えると思います。ただ、生理用品は開発が難しそうだから、最初は下着が中心となるかもしれません。生理用品に関しては、既存の会社とパッケージなどのデザイン面でコラボレーションできないか、道を探っていくというのが現実的な落とし所かもしれません。また下着の色は……これは男性下着のイメージがベースなんですけど、グレーやネイビー、カーキや黒とかの濃い色をひとまずラインナップにします。それで、オンラインで購入が完結できるようにシステムを整えます」

 暦さんは、しばし俺を見つめた。そして、ふうっと長い息を吐いて、微笑んだ。

「そんなサービスの会社があったら、自分、お得意様になる自信あるな」
「そうですか?」
「うん。あと、下着に関しては、形はベーシックでありつつも、色や柄で遊んでもらって、全然構わない。それこそ、ヘラルボニーで出してる製品みたいな柄の下着があったら、めちゃくちゃハッピーになれそうな気がする」
「なるほど」

 暦さんは、手を伸ばした。俺も手を伸ばす。暦さんが、ガシッと手を掴んだ。

「悠平くん、弦月湯へようこそ」
「え……」
「ねーちゃん、壱子さん、いいよね? 離れの1号室、悠平くんに使わせてあげようよ」
「暦がいいなら、もちろん」
「わかりました。一条さん、どうぞよろしくお願いいたします」

 いずみさんと山口さんの歓迎に、緊張していた心が緩まる。

「ほんとに、俺、いいんですか?」
「うん。悠平くんは、いいもの作りそうな気がする。じいちゃんにも会わせたかったな。きっと、すごく話が合ったんじゃないかって思うよ」

 暦さんはニカッと笑った。その笑顔の勢いにつられて、俺も笑顔になる。


 こうして、俺の弦月湯での日々が始まった。




(つづく)



つづきのお話


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・第4話(最終話)はこちら






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