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蝉の声、潮騒を連れて

   蝉が、鳴いている。
まだ、日も目覚めたばかりだからか、涼しい空気が部屋を満たしている。
鳴き声は次第に大きくなる

蝉の声の間に海風と、さざ波の声

「           」

 まるで誰かに呼ばれている様な錯覚を覚える。
俺は、今病室に、そう、病室の寝台にいるはずだ。
それなのに、意識が潮騒に拐われる。

  一あの日、俺が仕留め損ねたタコの祟りだ。
それが倒れた時に最初に思った事だった。
銛を脳天に突き立てたっというのに、取り逃した。
片方だけになった横に広い瞳孔が恨めしそうに墨の中で光っていたのを忘れられない。

 岩場だらけの遊泳禁止の海岸でサザエやアワビ。時々、鯛やカサゴなんかも捕って、漁師の友人に調理して貰っていた。

 祖父に連れられ、それから毎年。
夏の度に通って数十年目の海。
タコと目があったのは始めてだった。
銛をたしかに脳天に突き立てたのだ。
だが、暴れるタコは思うよりもしぶとく、気付いたらサザエを入れていた網が流された……。

 散々だ、負け戦。と肩を落す、
仕留め損ね、その日の取り分まで奪われた。
呑気なもので悔しがる余裕がその時はあった

 ソレから地元に帰り、アスファルトで身を焦がす日常を、過ごすつもりだったのだが
身体が上手く動かなくなり、口が回らなくなって直ぐに倒れた。

医者に脳梗塞だと告げられ
気付けば手術を受け、
そうして俺は生き延びて
今、ヤケに退屈な寝台の上で潮騒の幻に揺られている。

あのタコも俺を仕留め損ねたのか、それともわざとなのか。
少しだけ痺れの残った右手は、情けなのか呪いなのか。

 いや、手術が明けたばかりで、不安だからだろうこんな妄想に囚われるのは。

 こんな馬鹿に早く目が覚めて、寝惚けて夢でも観ているのだろう、
蝉の声と潮騒の音が、自分の輪郭を朧気にしていく
今、俺は何処に居るのかすらわからない。

耳に充てた貝殻から聞こえる気がする海の音の様な、不可思議な感覚が脳を襲う
波の音が大きくなって、潮の匂いと蝉の声が微睡みを誘い、夏の温度を心地よくする、浮遊する体、寄せては返す白い波と砂浜の照り返し パシャ、パシャン……と、足は海へ向かう。

ああ、戻れない。深く深く誘われる
もう、海底が遥か深く、足なんて届かない


 そこに仄暗い気配があった。
ああ、アイツだ。
俺が仕留め切れなかったばかりに、片輪になった大きな……。

 瞬間、息があぶくになる。
心地よかった海水が濃い青になってヒヤリと身体を締め付ける。海面だけが美しく輝いているが、身体と意識は下へ下へ引っ張られる

足に何かが、ピタリと張り付いた
寝巻きだった筈が、自分は何も身に纏っては居なかった、あぶくになった酸素は上へ昇る、身体はその度重くなって下へと引き摺りこまれる、腹にペタリ、腿にぐるりと吸盤のついたしっかりとした触腕が絡む。

 アイツの視線が刺さる。
追って来たのか、生き延びた俺を仕留め損ねまいと……。
もう、観念すべきかも知れない。
片輪になって狩りも上手く出来ないだろう、だから俺を獲物に生き長らえたいのかもしれない。
身体から力が抜ける。

思えば、この海からは貰ってばかりで
何も返す事は出来なかった

幼い頃に連れられて、泳ぎと素潜りを覚え
何度も通ったこの海ならば……
くたばっても退屈する事は無さそうだ

  力が抜けて首が海面を向くと
大きな赤い尾ビレと艶やかな黒髪が揺蕩うのが見えた

「           」

 脳裏に、海岸にある赤い鳥居がチラつく

幼い頃に一度だけ、溺れてしまった事があった
気付けば、俺は鳥居の前で眠っていて
祖父が心配したぞと怒鳴っている。
その後で、海から飛び上がる人魚の様な影……。

 ああ、あの時の……
次の瞬間、下から抱えられ身体が上へと持っていかれた
腹に巻きついた触手の吸盤が離すまいと吸い付いて痛い。

 光が乱反射する。海面はすぐそこ-

 目を見開いた、酸素が突然脳に送り込まれすぎたのか過呼吸の様になってしまい。むせる。
さっきまでの海面を照らす眩い太陽光はそこには無かった。蛍光灯の灯りが瞳孔を刺して照らす。
息をどうにか整える、周りを見渡せばなんてことはない東京の病院だ。

手術の為に丸坊主にされた頭には縫い跡を隠す様にガーゼと包帯が巻かれ
潮の匂いも砂浜と松の木の木漏れ日なんてのも無い。クーラーの無機質な音と冷風。
独特な消毒液っぽい匂いがする。

 ただ、寝汗と言うにはあまりにも大袈裟に濡れた身体と、衣服。
そして腹の吸盤の跡が、アレがただの夢では無かった事を知らせる。

 少し痺れた右手を眺める。

 また、助けられた。
次の夏に鳥居の奥に入ってお参りをした
祖父も祖母もそうしていたのに、いつからか忘れていた。

 人魚は気まぐれで俺を助けたのか
それとも、何か縁があるのか。
分からないが、夏が来る度に夢に現れる様になった

 あの神社の女神は
人魚の姿に鹿の角が生えているらしい

 気まぐれに人を掬いとっては
戯れる、海の様に気まぐれで美しい 女神だそうだ。

****

 おじいちゃん。またその話?
もう聞き飽きたんだけど。

 孫娘が、悪態をつく
「昔は好きでよく聞いてくれたってのに。連れない女だよ、お前は」

 だが、孫娘も彼女に会っている。
足の動かなくなった俺の代わりに
毎年神社に行ってくれるのだ。有り難い話だ。

 死ぬ前にまた、あの海が観たいものだ。今なら、海で死んでも構わない位に長く生きたから。
あの人魚と一緒に行くのも 悪くは無い。

****

一 蝉の声が、潮騒を連れてくる。
焼けた砂浜の匂いと、海風。

 女神は時に少年に恋をすると言う
幼い頃に印をつけて、何かがあったら命を助け。そうして迎えにくるという。
潮騒を連れて、戯れる。

 年老いた魂は少年へと還り
海は穏やかにその魂を拐う。


「おかえりなさい。」

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