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「怒り」の根本にあるものとは

 中学生の時、週刊少年ジャンプで『HUNTER×HUNTER』の連載が始まった。『幽遊白書』と『レベルE』とで冨樫義弘漫画にどっぷりハマっていたわたしにとっては、新連載のタイミングからとても期待値が高かった。

 連載が始まって間もない頃、とても印象的だった台詞がある。初対面のクラピカとレオリオが言い合いになって喧嘩へともつれこむシーンで、それを仲裁しようとした人物に主人公・ゴンがかけた言葉だ。単行本の1巻に収録されている。

「その人を知りたければ、その人が何に対して怒りを感じるかを知れ」――ミトおばさんが教えてくれたオレの好きな言葉なんだ。2人が怒っている理由はとても大切なことだと思えるんだ」

 当時中学生だったわたしは「なんで怒りなんだろう? その人の好きなものや喜びを感じることにこそ、その人の本質は出てくるのではないか?」と疑問に思った。違和感とは共感よりも強く印象づくもので、その言葉がずっと頭から離れないまま大人になっていった。

 その言葉を実感したのは、それから10年ほど経ったときのことだった。人間が喜ぶポイントは、だいたい共通しているのだ。シチュエーションにもよるだろうが「ありがとう」や「おめでとう」と言われて腹を立てる人はあまりいない。

 だが怒りを感じるポイントはどうだ。人によってまったく違う。わたしにとっては大したことはないことで、大切な友達の地雷を踏んでしまった。10代の頃にも何度も経験したことだが、その時はまだクソガキだったから「怒らせてしまったから謝らなければ」「この先この子との関係が悪くなったら嫌だな」という自分本位な考え方と、胸の奥には「なんでそんなことでキレるんだよ」という本音があったと思う。

 だが少し大人になった当時のわたしは、真っ先に「なぜわたしは大切な人を怒らせてしまったのだろう」と悔やんだ。その瞬間に、先述の『HUNTER×HUNTER』の台詞を思い出したのだ。「怒り」にはその人のこれまでの人生が大きく関わってくることを、身に染みて感じた。

 「怒り」はどうしてもネガティブなイメージがついてしまうが、重要な感情のひとつだ。喜怒哀楽という4感情のなかで「守りたい」「大事にしたい」という願望と直結しているのは「怒り」だろう。

 怒りが生まれるのは、だいたいにおいて両者の相違点がこじれ、自分の領域を侵された瞬間だ。怒りを感じることで、自分自身の本質や、自分の大事にしているものに気付くことが多いだけでなく、怒りは相手と自分の相性を確かめるうえでも重要なファクター。相手から怒りが見えた瞬間、人間味に触れられるのもそういう理由だろう。

 最近Twitterを眺めていると「怒っている人ばっかりで嫌になる」というつぶやきを見かける。だがそれのほとんどは「怒っている人」と「攻撃をしている人」を混同しているのではないか、と思うことがある。「怒り」は「攻撃」に変異しやすいが、変異してしまえばまったくの別物だ。そもそも「怒っている人ばっかりで嫌になる」という想いも小さな怒りだろう。

 わたしは10代の時に人生に絶望していた。つねに深海に沈んでいるような感覚で、生きた心地がしなかった。だがそのなかでわたしを水面へと突き動かしたのは怒りだった。怒りが湧いてこなければ、苦しみから這い上がることはできなかった。「怒り」という感情に救われてきた。「怒ること」をやめてしまうことは、感情を殺すことと同意だと思っている。

 怒りを表明するのは「守りたいものがある」という訴えだ。ただ非常に鋭利なエネルギーが強い感情のため、取り扱いには気をつけなければいけない。それが手に負えなくなった時、「怒り」は「攻撃」になってしまう。

 人は生きているだけで誰かを傷つけてしまう。だからと言って人を傷つけていいわけでもないし、不満の声を上げなくていいわけでもない。

 傷つけてしまうかもしれない。だけどわたしはこれからも、攻撃にならない程度に怒っていたい。もちろん怒りだけでなく、喜びも楽しみも悲しみも同じように感じていたい。言ってしまえばこの投稿も、怒りという感情を否定する人への怒りの感情そのものなのだ。

最後までお読みいただきありがとうございます。