見出し画像

話を聞いてもらうということ

最近生まれた懸念事項について、知人に話した。話すまでは少々不安だったりもした。そのような状態に陥ってしまった自分を悪く思われるのではないかと。しかし、心配することはなかったようだ。私の心情を思って返してくれたのだろう言葉が、ありがたかった。

だからといって、これからその問題を誰にでも話したり、ここのような場所に書いたりできるかというと、そんな簡単な話ではない。

別に難しい問題に限った話ではないが、相手に何かを伝えることは、その相手に伝える内容を押しつけてしまうことにもなりかねない。情報を聞かされることが相手の負担にもなり得るのだ。その意味においても、何かを誰かに聞いてもらうというのは、実は簡単なことではない。

これは、仲が良いから話せるとか、そういったふうにも割り切れない。仲が良くはないからこそ安心してできる話もあったりする。

相手に迷惑になるかもしれない。それでも話したい気持ちや、この人なら聞いてくれるかもしれないという希望を抱いて、大丈夫だろうかという微妙な線を探りながら、話すのだ。しかし、そうして出した話を、相手がどう扱おうと、文句など言えない。相手には受け取らない自由もある。

ここに書いている文章だってそうだ。私は一生懸命書いているけれども、それを受け取るか受け取らないかは見た人が決める。書いた物に対してどんな反応があってもいい。相手が自分の意図通りに物事を受け取らない場合のほうが多いかもしれない。でもそれも自由だ。

誰かに何かを伝えることは難しい。それが大事であればあるほど、細心の注意を払って、相手をよく見て、よく聞いて、同様に自分の状態もよく感じていなければならない。そういった、送り先の相手と、相手に対峙している自分について観察をすることができないネット上に書かれる文章は、実は全然、気軽に書けるものではないのだ。

それでも伝えたい気持ちというものは、消えないのだろうし、その気持ちをなんとかして、そのままに近い形で届けたいと思うのだろう。

お気持ち有り難く思います。サポートは自費出版やイベント参加などの費用に充てます。