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連続投稿700日を前に今後を考える

今日、この記事をアップすれば、noteの連続投稿が699日になる。

連続投稿を続けるのかやめるのか、どうしようと思いながら、やめてしまった場合のとりかえしのつかなさに恐れ、なんとか続けている。

私のnoteを何日分か読んでくださった方はわかると思うが、当noteは何かに特化して投稿を続けているわけではない。基本的には私の日記なのだが、書き方としてはいろいろある。である調の文章、ですます調の文章、140字小説(140字私小説)、短歌。文字が少ないほど書きやすいということはない。それぞれの形態にそれぞれの書きやすさと書きにくさがある。何か思うところが浮かんで「これは短歌だな」と思えば短歌で表現できないか考え、「これはだいぶ説明が必要だ」と思えばテキストとして書く。

このように、テーマや表現形態の統一をしていないのは、その時思い浮かんだことを私が書き表すために最適だと思われる形をその都度、選んでいるからだ。統一しようと思えばできるとは思う。全部短歌で表現するとか。でもそれは私がつらくなってしまうと思うので、していない。

ここで気付く。私は「私がつらくなるような書き方」を避けている。その理由はというなら「何かしら書くため」であり、さらに言えば「連続投稿を途絶えさせないため」なのだ。そう、連続投稿をすることが目的になっている。

連続投稿することが目的でもいいのだ。ただ、私がそもそも連続投稿を続けている理由はというと、「文章を書くことに慣れるため、書ける文章量を増やすため」に、毎日少しでも文章を書いていくといったところなのだ。連続投稿は手段であって目的ではなかった。文章を書くことを習慣化するために、連続投稿というルールを課したほうがよさそうだったから、そうしたまでだ。

現在の私が先に挙げた目的を果たせているのならば、連続投稿にこだわる必要はないのである。ということで振り返ってみよう。今の私は果たして、文章を書くことに慣れてきたか?書ける文章量は増えたか?

自分の感覚的にしか答えられないものではあるが、文章を書くことにはまだまだ慣れない。一日に書ける文章量は増えたのかもしれない。ただ、量を書くにはそれなりに時間を要する。そこは不慣れさが足を引っ張っている。

ここまで「質」の観点が出てきていないのは、最初の目的に「質の向上」を入れていないからだ。量を書くことで質が上がるのかどうかは当初から疑問だった。たくさん書くだけで文章がうまくなるとは思わない。何事においても習熟のためには、ある程度のまとまった量が必要だと思うが、質を決めるのは量だけではないと経験から感じる。よって、質についてはここでの目的とはしていない。

話を戻すと、ここまで連続投稿を続けてきても、文章を書くことには不慣れなのだ。細かく言うならば、不慣れは不慣れでも、あまり書いていない時の不慣れさと、そこそこ書いてきた頃の不慣れさは、様子が違うのではある。そこには多少の変化があるとは思う。しかし、書くことに慣れるなんて状態、そもそも訪れるのだろうか?

訪れない気がするし、訪れない状態のまま進化を目指し変化を求めていく姿勢でいたほうがいいような気がする。止まってはいけない気がする。

というわけで、書ける文章量は少し増えて、慣れはしないでもいい、ということになり、それでは連続投稿をする理由がなくなってしまうではないか。

そうなると少しの寂しさが感じられるのである。

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