見出し画像

「敵わない」と感じたら

優れた表現に出会った時に「敵わない」と感じることがある。つまり勝てないということになるが、その表現と私の表現の間に勝ち負けの関係は、本来ない。こちらが勝手に比較をして、負けたと感じてしまうだけの話だ。

敵わないと感じさせるような物の持つ力は強い。そんな強い物に、身の程も知らず勝手に勝負を挑んでは負けるのだから、滑稽でしかない。そもそも、その敵わないと思わせる何かと、自分の何かが比較できるのかどうかも怪しい。何か勝敗の基準が明確にある競技であればともかくだ。

こういったことをわかっていてなお、私はさまざまな表現とそれを生み出した表現者に「敵わない」と何度も思い、その度に打ちのめされる。

敵わない物と自分の物の違いについて理解を深めていくと、それが「憧れ」という感情に変わっていくこともある。そうなったほうが心情的には落ち着く。勝負の結果の敗北は、自分の心を痛ませる。勝手に戦いを挑んで自ら傷付いてしまうよりは、勝負を挑むなんてとてもできない、手の届かない物だとして憧れていられたほうがいい。

このように、憧れは遠い存在に対して抱く感情だが、「敵わない」は、自分の手が届きそうに思える存在に対して抱いてしまう感情だろう。ただ、手が届きそうに思えている場合も、現実では、自分で考えているよりもその物は遠くにあることが多いと聞く。自分の能力を過信しているのだ。過信しているからこそ、敵わなさに気付くことで、実際の自分の能力の低さを知ることになり、傷付くのだ。

さて、敵わないという厳しい現実に気付いて、そこから立ち直るにはどうすればいいのか。先に述べたように、敵わないそれを憧れの対象にしてしまうのが、気持ちとしては楽である。あれは私の手が届かない所にある物だと。遠くから眺めて羨む物なのだと。

しかしそれは「諦め」ではないか? そんな疑問が生まれる。そう感じるのであれば、敵わない何かに近づく努力をするしかない。懸命に手を伸ばしても届かない。何か脚立のような物を使うことにしても届かない。頑張っても届きやしないという現実を感じるのはつらい。それでも、諦めが嫌だと思うなら、1ミリでも指先を伸ばそうとするしかないのではないか。

素晴らしい。美しい。楽しい。面白い。さまざまな賛辞が述べられる、自分が敵わない何か。なぜそれがそのように受け止められるのかを知り、自分なりに噛み砕き、消化して、自分の栄養に変えることができればいい。


お気持ち有り難く思います。サポートは自費出版やイベント参加などの費用に充てます。