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(劇評)自分のオーケー、誰かのオーケー

『最後のオーケー』の劇評です。
2019年9月6日(金)19:30 金沢21世紀美術館シアター21

 ダンスの言葉で、歌の言葉で、ピアノの言葉で、映像の言葉で。それぞれの一番得意な言語で彼らは話しかけてくる。でも一人一人が勝手に喋っているわけではない。周囲の様子を伺いながら、言葉達は発されている。

 『最後のオーケー』は、おどり:100いまるまる(松田百世、なかむらくるみ)、 音楽:Otnk(高雄飛、カワダユカリ)、映像:澤山工作所による舞台作品だ。おどりと音楽と映像のコラボレーションと言ってしまうと簡単過ぎる。そしてダンス公演とも、演劇とも、どこか違う。

 あやつり人形が、鑑賞時の注意事項を説明する映像が終わると、ピアニカの音がする。下手から黒いワンピースのカワダユカリ、続いてジャケットを羽織った高雄飛がやってくる。そしてパンツスーツの松田百世と、なかむらくるみが現れる。二人は、映像に登場していたあやつり人形を持っている。遊んでいるように人形を動かす二人。しばらくすると、二人は人形を持って舞台からいったん去る。
 戻ってきた二人は、高のピアノ演奏、カワダの歌と共に、躍る。といっても、歌やリズムにきめ細かに合わせたふうではない。4人各々がその時点でのベストだと思う表現を、自分の感覚を大事にして行っている。他者の空気を意識しながらも、その空気にすっかり飲まれてはしまわずに、自分としてそこにいて、自分を発している。

 舞台上で織りなされていくシーンに、明確なつながりはない。当日パンフレットに13の項目が並んでいるが、これがそれぞれのシーンのタイトルなのだろう。『最後のオーケー』から連想されたイメージに、アーティスト達が形を与える。誰かが出したアイデアに、別の誰かが違うアイデアを合わせてみる。ダンスの言葉に、歌の言葉が話しかけてみる。ピアノの言葉に、映像の言葉が話しかけてみる。自分が普段喋り慣れた言語だけでは思い付かなかった表現が、ふと現れる。でもそれは、簡単に行われることではないのだろう。もっと喋ってもいいだろうか、ここまでにしておこうか、いや、ここは言ってしまおうと、誰かの反応を敏感に察知しながら、自分を少しずつ差し出していく。自分のオーケーを示して、誰かが出してくれるオーケーを待つ。

 舞台を見ながら、言葉のことを考えていた。これは何を表しているのだろう、文章にするならば何と書けばいいのだろうと。目の前で展開されている表現は、明確な物語を持たない。彼らがイメージした、彼らが感じている日々の小さな『最後のオーケー』達。例えば、松田がラジカセを持ってテープを再生し……とか、皆で長机と小道具をたくさん持ってきて、小道具を楽器にささやかなオーケストラを……とか、そこであったことを羅列することはできるだろう。だが、それでは違うような気がする。
 翻訳などいらないのではないか。いまるまるはダンスという言語を喋っている。私がダンスという言語能力に疎いため、ダイレクトに届きにくいだけのことだ。新しい言語を習得しようとするならば「いちいち翻訳しない」方法もあるようだし、ダンスという言語も、そのまま受け止めればよいのだ。これはダンスに限った話ではない。Otnkの音楽も、澤山工作所の映像も、それぞれの言語で饒舌に喋っている。それをそのまま、味わえばいい。自分の使う言葉に無理やり変換しようとすれば、そこに含まれた面白みがごっそりと抜け落ちてしまう。

 最後のシーンでは、ギターを抱えて椅子に座った高の周りに集まって、カワダは寝転び、なかむらと松田はリラックスした雰囲気で体を動かしている。そういえば、最初は皆、もっとかっちりとした、スーツに準ずる姿だった。序盤で服を着替え、カジュアルな服装になっている4人が、いくらかくだけてきたように見えた。今ここで、観客に、ゆるめた自分の姿を見せてもいいだろうか? その問いにオーケーが出されたのかもしれない。長くはない上演時間の中でも、演者と観客は反応を交わしあい、その距離を測りあうことができたのではないか。そこには言葉はないけれど、雰囲気だとか曖昧なものになってしまうけれど、自分のオーケーと、誰かのオーケー、それが重なるラインを、皆、ずっと探していたのだ。

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