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29歳の私が海外協力隊になろうと思ったわけ_番外編_

人生には必ず分岐点があって、
少なくとも間違いなく、
JICA海外協力隊になろうとしたことは
私の人生の大きな分岐点になったことだろう。


世界に興味を持ったあの日

海外に興味を持ったのは「高校生の時」。
学校のプロジェクトで留学に行く友達がいたり、
交換留学でクラスにイギリスの女の子が来たり、
海外に触れる機会が増えた。

私は当時、英語が大の苦手でただ漠然と、
「いつか話せるようになったら外国に行ってみたい」
そう考える程度だった。

高校の修学旅行で初海外を経験して、
スケールの大きさにびっくりした。

人の大きさにも、食べ物の大きさにも、ショッピングの仕方にも……。

全部が大きくて、
たまらなく大きくて、
自分の知る世界が小さく感じた。

日本しか知らなかった自分にとって、
本当に未知の世界でワクワクした。

修学旅行では楽しいこともたくさんだったけれど、
それと同時に決して楽しいだけではない
「世界から見た日本」を学ぶ機会がたくさんあった。

「日系」と呼ばれる人たちに出会い、
海外からの視点で「戦争」について学び、
自分の視野がいかに狭く、
あらゆることにおいて多角的に物事を見なければ、
見えないことがたくさんあることに気がついた。

正しいか正しくないかを別にして、
周りの人が(日本に対して)
「そういう考え方をしているんだ」
という事実を知ることがすごく新鮮で、
「大切だ」と高校生ながら感じた。

そしてこれが
世界を知りたくなったきっかけだったと
振り返ると今は思う。

小さい頃の夢と大学院進学、自分の趣味

小学生の頃の夢は「小学校の先生」
魔法使いやセーラームーン、プリキュアを経て
フライトアテンダントやスポーツ選手、
医師など多々浮気もしたけれど、
いつでも漠然と「先生」に憧れて、大学も教育学部に。
研究が楽しくて、大学院まで進学したけれど、
「人に伝える楽しさ」
「分かってもらえた時の喜び」
「試行錯誤の楽しさ」

を毎日味わうことのできる「小学校の先生」への憧れがなくなることはなかった。

「小学校の先生になるのになんで大学院に?」

在学中、よく聞かれた質問の断トツの1位はこれ。
教育学部で大学院を出る人は教授になりたい人が多いらしい。
確かに周りにもたくさんそういう人がいる。
だから異質だったようで。

でも、わたしは小学校で働きたかった。
だって学校が好きだったから。
学校が嫌いだという子に
「なんで?学校って楽しいのに。」
「できるようになるって面白いのに。」
小さい頃、そう思っていたのもきっと大きな理由の1つだと思う。

今でも、学校で友達を作れなんてことは言わないけれど、
「知りたい」とか「分かりたい」とか、
「できた!」とか「わかった!」という気持ちを知って、
その楽しさを感じて欲しいと思っていることは変わらない。

様々なことに、「なんで?」「どうして?」「本当に?」と疑問をもって、それを「解決していくこと」が単純に好きなのだと思う。
そして、それを多くの人に知ってもらいたいと思っている。

そのためには自分の目で多くを知り、見て、感じて、それを伝えたい。

それもあってか、趣味は「旅行」と「カメラ」。
自分の知らない生活や、食文化、大自然を直接感じられる最高の趣味。
でもこの趣味にはある程度お金もかかる。
だからこそ、稼ぐことも大切だった。

大学院に行った理由は単純に教授になりたいよりも、
学問として「知りたい!→学びたい!調べたい!」気持ちが強かったから。
それから、金銭的な面も大きい。
大学院を出ることで、昇給にも大きくかかわる。
好きなことを勉強して、将来給与も上がって、
最高だと思った。
たくさん旅行に出かけられる。


訪れる転機と課題

小学校の先生になって、毎日が課題でいっぱいだった。
世間で心配されるような労働環境や
教員のイメージはブラックさは基本的に正解で、
新卒24歳の私も一通り世間の荒波に揉まれた。
辞めたいと思ったことも度々ある。

それでも毎年関わる子どもたちは
最高に可愛くて今でも大好きだ。
目の前にいる子どもたちと毎年全力で向き合う中で、
転機となる課題に出会う。

私は、4年生→1年生→6年生→6年生→4年生の担任をしてきた。
そしてこの3学年に共通する話題が1つある。

「大きくなったら何になりたいか」

1年生は漠然と
4年生はドリームツリーを1/2成人式用に
(成人年齢変わったからもう違うけれど)
6年生はドリームマップや作文で(卒業文集に載せたりもする)
どの学年でも未来を見据えて、
自分が将来どうなりたいのかを考える。

そして、ここで始まる「コロナ禍」
コロナは子どもたちの夢も確実に奪っていた。

子どもたちの夢はある意味現実的で
なりたい職業を聞くと会社員が一番多い。
私が子どもの頃ならありえない回答だ。
ユーチューバーになりたいと話す子も
大変なことを予想しながら書いていたり
スポーツ選手やアイドル、医者やパイロットなど「夢」って感じの
頑張って手が届く!という夢を持ったりする子どもは少ない。
現実的すぎる。
さらにコロナも相俟って、
家族をもって美味しいごはんを食べれたらいいとか。
お母さんとお父さんをレストランに連れていきたいとか。
マスクなしで生活したいとか。
そんな簡単にできそうなことを
夢にする子が多いことに驚いた。
(そういってはダメなのかもしれないけれど)
大人は大変そうだとか。
子どもの方がいいだとか。
そんなことをいう可愛い我が子たちに
少し……いや、だいぶ悲しかった。

もっと〇〇したい!って堂々と思っていいのに。
もっと夢は叶う叶わないにしろ大きくみてもいいのに。
それに向かって頑張るものだから。
大人も楽しいのに。

「もっと大きくていいんだよ?」
「叶うか叶わないか、分からないことたくさんあげて
そこから取捨選択していけばいいんよ。」

とりあえずいっぱいあげていこ!
そういうと子どもたちに決まって言われる

「じゃあ、先生の夢は?」
「たとえば?」
「先生はどんな夢あるの?」

必然的に子どもたちと一緒に将来を考えることに。
子どもの頃の夢が叶った今、
私の今の夢はなんだろうか?
自分は何がしたいのだろうか?
もう夢はないのだろうか?
これから何がしたいのだろうか?

合わせて、知らないことに出会うきっかけもあった。
「SDGs」だ。
教科書や本でしか知らない
飢餓の世界、水のない世界、必要物資が揃わない世界、
教育よりも労働に子どもがかり出される世界……。
日本にいては絶対に経験することのない世界。

知らないことは教えられない。
自分の目で見てみたい。
調べてわかることだけでは物足りない。

私の夢の発見だった。
「世界を、今を、日本以外の国を知りたい!」
「世界のどこかで先生がしたい!」
「見てきたことを話せる教員でいたい。」
「やりたいことを実現する背中を見せたい。」
「大人って楽しいぞ!」

そんなことを伝えられるそんな人になりたいと思った。

私がクラスで大切にしていたこと

①「ごめんなさい」と「ありがとう」を大切にすること
②「可能性の種」を潰さないこと

私の学級経営の大きな根本はこの2つ。

人ととして一番大切だと思っているのは
①の「ごめんなさい」と「ありがとう」を大切にすること
必ず人は間違いをおかす。
これは致し方のないことで、
悪いと知らずにやってしまうこと、
悪いと分かっていてもやらざるを得ずにしてしまうこと、
そんなことも世の中には絶対にある。
もちろん、悪いと分かっていたらやらないことが一番いいが、
そうはいかないことも人生には往々にしてある。
それに自分はいいと思ってしたことも、
見方を変えると実は悪かった、なんてこともザラにある。
だからこそ、
「あ、やっちまった……。」と少しでも感じたら、
ちゃんと非を認めて謝ることができることがすごく重要だと思う。

また、謝るだけでなく、感謝を言葉にすることも
とても大切なことで、感じても言葉にしないでは意味がない。
「ありがとう」と思ったらきちんと言葉で伝えることが大切だと思う。

日本人は謝りすぎだと思っている。
私は「ごめんなさい。」よりも「ありがとう。」が好きだ。

自分のために行動してくれる人がいたら、
「ごめんなさい。」「すみません。」
ではなく「ありがとう。」と伝えたい。
すみませんって思う気も分かるけれど。
でも、私なら、「ごめんなさい。」そう言われるより
「ありがとう。」そう言われたい。

非は素直に認めて、謝ることができる。
お礼はきちんと伝えられる。
それだけ出来れば、社会で万人から嫌われることはない。
「生きる力」で一番大切だと思う。

心もちとして一番大切にしていることは
「やってみること」

やらずにできないと決めつけない。
本気でやっていないのに諦めない。
可能性の芽を潰すのは他人も自分も絶対にダメだと思う。

どんなことにも可能性がある。
1度はやってみよう。
もしかしたらそこで何か変わるかも知れない。
そんな気持ちを大切にしている。

「失敗は成功のもと、やってみよう」
「挑戦したから、できるようになったんだね!」
「自分でできないって言わないよ。大丈夫、できるよ。
 一緒に挑戦してみよう!」
「自分を変えられるのは自分だけだよ。」
「後悔しないように、今を全力で。」

そんな投げかけをクラスでしている。
で、私はそれが自分でできているだろうか?

特に②番、
私は最近、何かに挑戦しただろうか?
やってみただろうか?
自分の可能性を信じているだろうか?

私の夢の可能性、具現性

夢が見つかったら、実現できるかどうか。
私の夢を実現するのに譲れないこと。

あくまで小学校の先生として働きたい。
退職は考えられない(お金大事)。
SDGsの現状を知りたい(先進国に行きたいわけではない)。
たくさん旅行がしたい(これは世界中どこでも)。
外国語を何か1つ自信をもって
話せるようになりたい(コンプレックスの克服)。

譲れないものを照らし合わせて考えたときに
見つけたもの、それがJICA海外協力隊のパンフレットだった。

元々、教員3年目、コロナ禍の日本の教育は窮屈で、
「海外で教員として働く」ことへの興味はどんどん高まっていた。
「働き方改革」そんな上っ面だけの国の言葉。
コロナはそのくらい学校現場を業務多量にした。
帰りたくても帰れない。
何が正解かわからない。
子どもに会えない上に、会うために行う学校中の消毒やコロナ対応。
苦しかった。

どんどん変わる海外の学校。
先生が遅刻しても、定時で帰って家族を大切にしても、
怒られない海外の先生。
そうなりたいとは思わないけれど、
そういう働き方ができるためには、
どんな工夫ができるのか。
何か活かせることはないのか。
考えるようになった。
全部が全部、海外がいいとは思わないし、
日本の良さもたくさんあるからこそ、
よりよく働くためのヒントを知りたいと思うようになった。

そんな時に出会った「JICA海外協力隊」。

あまり深く知らず、学校の回覧でその存在を知った。
当時の初任校に勤めていた私は、
校長室で当時の校長にその旨、
興味があることを伝えるとこんな回答がかえってきた。
「海外を知ること、外国語の能力を高めようとすること、
これは非常に価値のある経験になる。
ぜひ、やりたいと思った時に行動したらいい。
まだあなたは若く、未来がある。
……
ただ
……
3年目から確かに応募はできるものの、
今後も日本での教員を視野に入れて働くのであれば、
もう1校経験し、体育主任だけでなく、
特活主任など他の経験もしてから行くことで、
帰ってきた時により強力な存在になれると思う。
もちろん今目指してもいいが、
自分はもう少し、5年目などで行くことを勧める。」

当時の自分は「あぁ、今じゃないのか。」と
確かに少し落胆したものの、
その考え方に納得したし、
当時お付き合いしている人もいて、
簡単に離れ離れになることを選べなかったこともあり
結局応募せずに終わった。

その結果、「先生の夢は?」と聞かれるたびに
「海外で先生をすることかなー。」と答えるようになった。

教員4年目、28歳 転機

2校目、2回目の6年生。
ドリームマップを作る中で、
自分のドリームマップが
早くできた子クラスの子が見つけてくれた
海外協力隊の「現職教員特別参加制度」

めちゃくちゃドンピシャだった。これじゃん!

知りたいこと知れて、お金も貯まって、
教員としての立場も失わず、帰ってきても先生ができる!

ここからの行動は早かった。
JICAについて調べて、要請について調べて、
自分にできそうなこと、力になれそうなこと、探した。
見つけるとすぐに、校長先生に報告にいった。

日頃から海外に興味があることや、
ドリームマップの授業の話など、
周囲の先生によくしていたからか、
校長先生もあっさり「いいね!」と背中を押してくれた。
チャンスは来年の春。
それを感じた28歳の冬だった。

いざ、2022年度春募集

2022年春。
4年生の担任をしながら、
自分の夢に向けた活動が始まった。
「現職教員特別参加制度」を利用し、
応募した過程も記録として残したいと思う。

担任として日々の教材研究はもちろん
JICA応募のための準備を始めた。
情報収集の後、最初にしたのは応募調書の作成である。
合わせて、校長推薦文、
市町村教育委員会への連絡や県教育委員会への連絡など、
学校側が進めてくれた。


応募調書 思い記述部分
応募調書 思い記述部分

第3希望「理科教育」での合格
抱く若干の不安。
第1の体育でも第2の小学校でもなく。
それでも合格は嬉しかった。

面接はオンラインで2回
事前日時指定あり。(同一日だったが時間が違った。)
ガッツリ学校の勤務日+授業時間だったため、
学校では補欠対応。(年休取得)。

圧迫面接と聞いていたけれど
全然そんなこともなく、終始教員採用試験のような感じ。
2回の面接とも各2人を相手に話す。
どちらも一人は表情豊かで、一人は無表情に近い感じ。
時間は各々15分。

人物面談で聞かれたこと

志望動機を簡潔に。
 →上記志望動機を簡潔に伝えた。
仕事で大変なこと、そんな時どうやって対応するか。
 →保護者からのSOS。
  まずは真摯に聞く。そこから考える。
  結論は一人で出さず、必ず相談する。
応募時の周囲の反応はどうか。
 →素直に話す。応援してくれている。
言葉の通じない現地の人とどう仲良くなるか。
 →大好きなスポーツや料理などを一緒にプレーしたり、
  作ったりして少しずつ距離をつめる中で
  言語習得の努力をしていきたい。
協力隊の後は何をしたいか。
 →小学校の先生に戻り、協力隊での経験を生かした授業や
  オンラインでの国際交流活動など今できないことにチャレンジしたい。

技術面接<理科教育>で聞かれたこと

どうしてこの要請を希望したのか。
 →理科教育の免許は取得しているが、小学校での教員経験のみで、
  理科だけを教えているわけではなく、
  高校大学時代に一番得意だったのが生物だったため、
  この要請なら何か力になれるのではないかと考えた。

他の要請でも行くことはできるか
 →私は海外の教育を知ることも協力隊参加の目的の一つであるため、
  希望要請以外でも参加したいと考えている。
理科教育で一番大切だと思うことは何か。
 →安全性。危機管理の徹底。楽しくて面白い実験の多い理科ではあるが、
  一歩間違えれば大きな怪我や事故につながる可能性がある。
  その為、安全な方法、どうして危険なのか等、
  実験方法の提案に付随して危機管理の講習も忘れないようにしたい。
理科の楽しさは何か。
 →検証の楽しさ。自分で予想し、実験して、考察する。
  試行錯誤の楽しさをより具体的に体感できることだと考える。
  また、実験失敗もなぜ失敗したのかを考える貴重な機会となり、
  「失敗したからいけない。ダメだ。」ではなく、
  「どうしたらできるのか。」に焦点をあてることができ、
  失敗が失敗でなく、次につながるんだという意識を持ちやすいことも
  この教科の魅力だと考える。

実は人物面接の前にハプニングがあり、
ネットにうまく繋がらず、面接に2分遅刻してしまった。
遅刻したものの、5分前からZOOMの部屋には入れていたため、
校長先生に校長室を使っていいか直談判している
バタバタの様子の一部始終を
ガッツリ面接官にみられるという大惨事があった。
ただ、快く校長先生が校長室を提供してくれたり、
「頑張るんだよ。落ち着いてね。」
などの声掛けをしたりしてくれているところも見られていたため、
職場から応援されていることが伝わったようで、
面接の最中も、「職場の理解もあるようですね。」と
声をかけていただいた。
不幸中の幸いである。

合格発表

10月25日。
その日が来た。
何時の発表なのかも分からず、12時に待機していたものの発表はなく、
夕方の発表だったかと思う。
歯科矯正をしていたので、健康条件付き合格だった。

諸々の連絡がきて動き出したのは12月ごろからだった。
それまで、私はオーダーメイドのスーツを2着作ったり、
DUALINGOを始めたりしたが、
特に必ずしなければいけないことはなかった。

私が本格的に動き出したのは1月。
課題や健康診断を始めた。

健康診断は早めに予約したほうがいい。
私はギリギリで困った。
(間に合ったけれど本当に期日前日に
 速達で出したレベルでギリギリだった。)

現職教員参加制度は利用したものの、
基本的に他の候補者さんと同じ課題、同じ提出物で
唯一、「参加形態申告書」だけは、
現職教員参加制度利用の人は提出不要だったようで
その旨の連絡が来た。
また、2023年4月、パワーポイントの事前作成の課題が追加であった。
3月まではガッツリ働き、4月も若干のお手伝いをして日々を過ごした。

そこからは駒ヶ根訓練所生活に続く。
最高の出会いすぎた世界が見たい人は
私の候補者生活の全てが詰まったこのマガジンへ。


この60日を経験したことで私の人生は大きく変わる。
今回、「29歳の……」このnoteを書きたい、
海外協力隊への挑戦が自分の分岐点だ、
そう心から話すことのできるのは
ここで最高の60日間を最高の仲間と過ごすことができたから。

出会ってくれて、ありがとう。

まとめ 
結局人生はタイミング!
そのチャンスを逃すな!


この一言に尽きる。

チャンスが揃っていた。

教員経験も5年目にして、
体育主任、特別活動主任として学校全体を動かし、
研究授業で学校や市町村の代表として授業をし、
ICTについても推進委員として普及に邁進。

良くも悪くも当時、付き合っている人もおらず結婚の予定もない。

合格時、29歳。現地で30歳。帰ってきて31歳。
年齢的にも節目の年。

職場や家族からの後押しや完璧な応援体制。

今挑戦しないでいつ挑戦するんだ?
自分の背中を押すには十分すぎた。

「やってみなきゃ何も始まらない」
これが私のモットーだ。
やってみよう。知らない地で。
どんな困難も楽しんでやるぞ。
人生は経験だ。
何事もどんな感情も、その時その時を大切に
全力で向き合っていこう。

だから私は協力隊を目指し、今ドミニカ共和国にきている。
今週、ついに配属先へ。
夢見た協力隊。
私の夢のスタートライン。

例え要請内容が違っても、
例えうまくいかない事があっても、
その時、自分にできる最高のことをしようと思う。

だって、私の思う「ボランティア」は
「人生を楽しくするお手伝い」だから。

私の人生も、関わる人の人生も楽しくなればそれが一番嬉しい。
少しでも私にできることを見つけて、
それがドミニカ共和国の人の教育のお手伝いにつながったらいいな。

初心忘るべからず
久しぶりに振り返ってみて
そうそうこうだった、こうだったと配属前に確認できてよかった。

私が踏み出す勇気をもてたように、
子どもたちだけじゃなく、
何か始めたくて、でも迷っている人、
なかなか一歩を踏み出せない人たちに勇気を与えられたらいいな。

2022年春募集のキャッチコピーが好き!
#いつか世界を変える力になる

そうなれたら、最高に幸せだ。

これが29歳の私が
海外協力隊になろうと思ったわけ。


毎日、ワクワクが止まらない。

「明日も頑張る!」

そう呟いて、
着実に一歩一歩進んでいきたい。

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