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ニューヨークから見える「日本」という国

ニューヨークに来て早くも2ヶ月が経とうとしている。久しぶりにコンフォートゾーンをガッツリ抜け出し(というかここまで抜け出したのは間違いなく人生初)慣れない環境で過ごしてみて、感じることが山ほどあって毎日忙しい。

ニューヨークという街

日本から一歩出てみると、日本のことが本当によくわかる。特にニューヨークなんていう街は、はっきり言って色々と「真反対」だ。

日本のように、ゴミひとつ落ちていないきれいな道路も、勝手に音が流れるという気遣いをしてくれるウォシュレット付きのハイテクトイレも、歩行者みんながちゃんと赤信号で止まって待っている光景も、ニューヨークではお目にかかれない。

ニューヨークでは道を歩いていると、大声でなにかを一人で叫んで走っている人に結構な頻度で出くわすし、鼻につんとくる匂い(たぶんマリファナ)がどこからともなくフワッと漂ってきて、歩行者用の信号なんて誰も見ていない(車が来てなければ渡っていいという暗黙のルールになっているように見える)。ゴミ箱はだいたい半径50メートルにひとつはあるのだが、そこはゴミが溢れかえっているし、道もゴミだらけで風で色々舞っている(別の意味でマスクをしたい)。

先日地下鉄に乗っていたら、ベビーカーを引いたお母さんが乗ってきて、列の端っこに座っていたおじさんの前に行き、「(ベビーカーがあるから)そこに座りたいので、ひとつ詰めて座ってもらえませんか?」と言った(おじさんの隣が空いていたのだ)。そのおじさんは、無言を貫き動かなかった。それでも「Hello?きいてる?」と、お母さんの方も諦めない。すると別のおじさんが、「おい、どいてあげろよ」と声をかける。それでやっとそのおじさんはしぶしぶ席を譲る。

次の駅で、また別のお母さんがベビーカーを引いて乗ってきた。同時に乗ってきたおにいちゃんが、大声で歌い出した(ニューヨークでは本当に多くの人が突然歌いだしたり踊りだしたりして、チップを集める)。するとそのお母さんが、「ちょっと!私のベイビー寝てるんだから、歌わないでよ!!」とブチギレである。そのふたりは激しい口論になり、おにいちゃんは怒って次の駅で降りていった。

同じ車両でもうひと悶着あった。二匹の犬(盲導犬ではなく完全なペットしかも中型犬)を連れた女性が、車両の真ん中の席に座っていた。犬は紐で繋がれているだけなので、乗客の中に混じって座ったり歩いたりしている。その犬が、何かの拍子にとなりの男性に吠えた。するとその男性は飼い主の女性にキレ始めた。少し距離があったので詳細は聞き取れなかったのだが、「You're so selfish!」と連呼していたのだけ聞こえた。ふたりはしばらく口論を続けて、周りの乗客もその口論に参加し始めた。男性側に何人かの乗客が加勢しはじめ、女性は諦めて犬を連れて降りていった(やはりキレている)。

たった15分地下鉄に乗っただけで、こんなにたくさんのことが目の前で起きてしまう。日本では決して見られない光景ばかりだ。みなさんがよく知っている日本の電車での光景と比較してみて、どうだろうか?このニューヨークの日常とそれを比べてみて、なにを思うだろうか?

ハドソン川の対岸にあるニュージャージーという街のこのモニュメントは、マンハッタンに向かって「シー(静かに)」って言っている(実にIronicである…こういうのもアメリカっぽい)。


「人に迷惑をかけない」日本人

日本でも、ベビーカーを引いたお母さんを電車で見ることはよくあることだ。しかし、ニューヨークで見るお母さんたちと違って、日本のお母さんたちは車両の端っこのほうに、申し訳無さそうに立っている様子が目に浮かぶ。赤ちゃんが泣こうものなら、「すいません…」とお母さんも泣きそうになりながら赤ちゃんを泣き止ませようと必死である。

ペットの犬を堂々と連れて乗っている人なんて、日本ではあまり見ない。いても、やはり申し訳無さそうにペット用のバッグみたいなのに入れているか、盲導犬かのどちらかだ。

電車でお金稼ぎをしている人も見たことがない。ニューヨークの人たちは、自分の持ちうるすべての能力を生かして、お金を稼ごうとする(そしてみんなびっくりするくらい上手い)。日本では、みんな静かにスマホを見ているだけである。

日本人は、自分の気持ちや意見を他人に伝えることが苦手である。自分のことよりも、他人様が優先なのだ。「日本人っていつも静かで礼儀正しくて、親切で、本当すごいよね!」と昨日アルゼンチン出身の友人に言われた。

この違い、一体どこから来ているんだろうか。同じ人間なのに、どうしてこうも、なにもかも違うのか。

監視されて規律ある社会VS監視のない無秩序な社会

先日、言語プログラムでこんな議論をした。私たちが今生きている時代って、mass surveillance (監視社会)って言えるよね、電子機器を使えばそこには大量のログが残る。クレジットカードを使えばいつ何をどこで買ったかの記録が残り、ネットでなにかを検索すればそのデータを元に自分の趣味嗜好に合った商品やサービスをAIが勝手に提案してくれる。私達は生活しているだけで、とんでもない量のデータを顔の見えない誰かに提供している。こんな監視社会に、プライバシーってあるって、いえるのかな?そんなトピックだった。

ふたりずつペアになって話しあって、と先生が言ったので、隣に座っていた中国人の男の子と話し始めた。私は「中国ってめちゃめちゃ監視されてるって聞いたけど、どのくらいやばいの?」ときいた。彼は、元々やばかったのに、コロナでもっとやばくなった、と言う。「僕たちは、いつどこで誰と会ったかまで、リアルタイムで政府に握られてる。このまえコロナにかかった人がその時期の行動範囲を公にされて浮気がバレてた」と笑う。街中にカメラが設置され、タクシーの中の会話まで聞かれているという。

「あなたはその状況、政府のそのやり方に納得してるの?」ときくと、もちろんしていない、と。「僕だけじゃない。多くの人が、強い疑問を持ち始めてる。僕たちはTwitterもFacebookも使えない。使用を許された限られたSNSでも、政府を批判するようなことを投稿したらすぐに消される。みんなわかっているんだけど、最近はそれでも投稿する人が増えてきたんだ。ちょっとずつ変わってきてると僕は思う」

私と彼の議論をきいていた先生が、その話題、クラスみんなで話しましょう、ってなって他の中国人にもきいてみた。ある女の子は「私が生まれたときにはもうそうだったから、私はもう慣れてる」と平然という。また別の女の子は半ばキレ気味で、「私は事態はさらに悪くなっていると思う。監視の目は強まるばかり。それが嫌だから、私はここにいる。」同じ中国人でも、当たり前だが意見が違う。

続いてコロンビアから来ているクラスメイトが「コロンビアは中国みたいにテクノロジーも発展していないし、そんなに監視されている感じはない。でもその代わり、犯罪率がすごく高い。例えばスマホから目を一瞬でも離すと、すぐ盗られちゃうよ。」と発言した。

さて、日本はどうだろうか。日本も中国と比べると、そこまで常に政府に監視されている感覚はない。しかし、コロンビアのように犯罪率が高いわけでもない。むしろ、世界で最も安全と言えるほど、犯罪率は低い。

これは一体、どうしてなんだろうか──。

日本というユニークな国

その昔、聖徳太子が十七条憲法の冒頭に掲げた「和をもって貴し(たっとし)となす」という言葉は、元々「論語」で使われた言葉だそうだ。社会生活の規範をしっかり作り、その中で調和と協調性を持って争わずに生きていきましょう、というような意味である。

この精神が、日本の文化の根底にあることを、ニューヨークにきて余計に実感している(ここにはそれがない)。この哲学をしっかり根強く持っている日本人は、この何よりも大切な「和」を乱そうとするやつを許さない。

「日本人は、政府が監視する必要がないくらい、人々が監視しあっています。だから、監視されなくても、他人の目を気にして自らを制御し、規律を乱すことはしません。だから犯罪率も低い。」

最近では「マスク警察」と呼ばれる方々まで出てきた。国民が、誰に頼まれたわけでもないのに、勝手に周囲を取り締まる。私の発言に、中国人たちが「That is crazy…」と顔を歪めたり爆笑したりしていた。先生も「Peer-to-peer-surveillanceってわけね。それはかなり興味深いわね」とつぶやいていた。

この文化、私達にとっては当たり前だが、世界的に見るとかなりユニークだ。そんな国はあんまりない(先日ロシアがちょっと似てるかも、と思った。ロシア人も他人をジャッジし合う文化があるらしい。だから目立ったことをする人はあまりいないとロシア人の友だちが言ってた)。

言語プログラムで一緒に学んだクラスメイトと先生。
11人の中国人、2人がコロンビア人で、2人(私含む)が日本人。


「相互監視社会」の弊害

しかしこれ、良いことばっかりじゃない。私は知ってるんだ。日本の若者が、一歩踏み出すことが恐ろしく怖いと、思っていることを。私たち日本人は「挑戦すること」「自由に生きること」に対して寛大ではない。他者の生き方にまで、干渉しようとする。そのデメリットは、我々が思っているよりはるかに大きいのではないか。

生かされるべき才能を「良かれと思って」潰してしまっている。他人に批判されることを恐れ、「無難に、目立たないように」生きる。自分を責め、自分を押し殺し、生きている人がたくさんいる。その結果が「自己肯定感が異様に低い国」なのではないか。例えどんなに犯罪率が低くても、子どもを含め自ら命を絶つ人がこんなにたくさんいるのは、本当に異常なことだと思う。

なにか目立つようなこと(例えば学年ビリから慶應目指すとか)をしようとすると、周りは「どうせ無理なんだから、やめておきなさい…」と、一斉にとめに入る。「謙虚に生きなさい」「他人に迷惑をかけてはいけないのよ」と育てられ、周囲と違う格好をしたり、「普通」と考えられていることからはみ出すことを、世間は許さない。「みんな同じ」でなければ、だめなのだ。和を乱すことを、許さない。

誰も、他人のことなど気にしていないニューヨークにいると、遠く離れた日本のことがよく見える。私は決して、ニューヨークのほうが良い、と言っているわけではない。教育だって、アメリカにはアメリカの、根深く深刻な問題が山積みであるし、ちょっとみんな自由すぎるな…と思うことも多い。他人のことを気にしていないと言うより、「自分のことしか考えていない」人が多いとも言えるのかもしれない。

夜のタイムズスクエア(ちょうど大量のゴミを撤去しているところ、か、もしくはだれかがゴミを漁っているところ…)


まずは「違い」を知って、自らを知ること

なにが正しいか、なにがより優先されるべきかは、また国ごとに、そして個人ごとに異なって当たり前だ。

Virtue is the golden mean between two extremes.
美徳とは、「過剰」と「不足」というふたつの両極端なものの「中庸」にある。

アリストテレスがこういうように、「行き過ぎ」はたいてい良くない。自分たちがいまどういう点においてどのレベルにいるのかを知るには、まず「違い」を認識すべきである。日本はグローバルスタンダードではない。日本にあるものが世界のどこにでもあるわけではない。むしろ、日本にしかないもの、ばかりなのだ。自分たちしか知らないでは、自分たちを本当の意味で知っていることにならない。まずは外に出る、もしくは外の世界の人と対話をし、違いを認め合い、自らをよく知ることが、より多くの人が生きたいように生きられて、なおかつ他人のことも気づかえる、安全な社会の実現の鍵なのではないか。

こんなふうに、この刺激的な街で、毎日新しいものに触れては、日本を思い、いろいろ考えている。留学は、本当に学びの連続である。

しかし、私が明日いよいよ入学することになるコロンビア教育大学院の名誉教授でもあり、偉大な哲学者であるジョン・デューイ大先生は、こんなことを言っている。

We do not learn from experience… we learn from reflecting on experience.
私達は、経験から学ぶのではない。その経験をしてなにをどう思い、どう感じたかを振り返ることで、学んでいるのである。

ただ経験するだけでも、意味がない。ちゃんとひとつひとつに丁寧に向き合って、学びを深めていきたいと思っている。


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