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"愛されるよりも愛したいマジで"の真理に気づく32歳、夏

同世代のみなさんならご存知であろう、KinKi Kidsのあの名曲。

20代前半まで、「愛されるよりも愛したいマジで」って思ってた。愛されるって感覚がそれまでよくわからなくて、だから愛す側でいたかった。はちゃめちゃに愛したいのに、愛すほど去っていく。理由が分からなかった。

最近やっとその理由に気づいた。
これまで、愛されたい愛されたいって言いながら、私、愛を「受取拒否」してた。愛は送られてたのに、自ら受け取らないことを選んでたんだって気づいた。少しだけ重たくて息苦しい話かもしれないけど、大切にしたい気づきだからここに置いておく。



つい先日のマイコーチとのセッションのこと。
人と信頼関係を結ぶのが怖い、終わりが寂しいって泣いたんだ。初めて訪れた地で、安心できるコーチの前で、飲みかけのペットボトルの水を所在なさげに抱えながら「本当は、」って泣いた。まだまだ奥底にはそんな気持ちが眠ってるみたいで、ちょっとがっかりした。今年33歳、人生の3分の1は超えているであろうにまだそんなこと言ってる。私は、とっくに、誰かと信頼関係を結ぶことを克服して、心のトゲトゲや鎧を外せていると思ってた。
人間関係に感じる恐怖に、何かその答えがありそうだと思って少しそこについて考えてみた。


両親との関係もそうだし、中学時代の友人も、かつて共に過ごした恋人たちも。
どんなに自分を無下にされて悲しい思いをしても「他人は変えられない」ってずっと言い聞かせてきた。傷つけられることには不思議と、痛覚を無くしたみたいに鈍感で、あらゆる違和感を見逃して「だから私が変わるしかない。」っていつも呪文のように唱えてた。
信じ合いたい、分かち合いたい、愛し合いたい。そう思って相手と全力で向き合ってきたつもりだったのに、ぜーーんぶ空振り一方通行。だから、私が変わるしかなくて、"相手が愛したいと思える私"に変わろうとしていった。そしたら、あっという間に"私"なんて姿を消して、やりたいことも好きなこともよくわからない私になった。「あの時こう言えばイライラさせずに済んだかな」、「こう振舞っていればずっと好きでいてくれたかな」って、後悔ばっかり抱えて。そうやって、ひとまず好かれてその場をやり過ごすことに情熱注いで生きてきた。そんな感覚がずっと心の奥底に残ってる。
結局、偽りの私と本当の私のギャップに心身が耐えられなくなって自滅する。急に泣き出したり、自暴自棄な言葉を投げつけてしまう。そして大概「重い」とか「面倒」とかを直接言われたり、間接的にそう聞いたりして呆気なく終わる。それが20代前半、25歳くらいまで続いてた。



ひとしきり泣いて、水を飲んで落ち着いて、ふうって息を吐ききって。気が付いた。そもそも、どんなに私が取り繕っても、そんなの信頼関係でもなんでもなかったじゃん。私のこと、大切にしてくれない人なんてそもそも信頼に値しないじゃん。愛されたって苦行じゃん。私と相手のことなのに、私1人でどうにかしようとするから苦しかったんじゃん。私、歪んでたんだ。って。

みんなどうして、いつから人を信じてこれたの?どうやってたくさんの人と健全な愛を結んでいったの?いつどこで、どんな経験を積んでいたらもっと早くこうやって心地よく暮らせただろう。そんなことを思いながらバスに揺られて帰った。



あれからしばらく考えた。

"信頼関係を結べなかった本当の原因って何?"
"私が愛したかった人たちは、1ミリも私に愛を返してくれなかった?"

思うに、愛を届けようとはしてくれていたんだ。正確に言えば、信頼なんて、愛なんて突然生まれるものじゃないから、「これから愛になり得るもの」。それはちゃんと私に向けられていたんだと思う。
でも、「愛を受け取る」って生まれながらに備わってる力じゃないようで、私には愛される覚悟や力がなかった。与えられたそれをそのまんままるっと受け取れる器。なかったんだ、あの頃。

謙遜は、日本の美徳だと思うけど、私がしてきたのって謙遜じゃなく「受取拒否」だったんじゃないかってこと。褒められてもむず痒かったし、好意を寄せられるといつの間にかソワソワして「何か裏があるのでは」と警戒してしまう。素直に受け取れず「いやいや、私なんて」って謙遜したつもりでいた。けど、それって、相手の愛を受け取ろうとしてこなかったってことじゃないか。自己肯定感の低さと言えばそれまでだけど、相手にとっては自己肯定感の低さなんて関係ないことで。
愛して愛してって言うくせに、いざ愛されたらそれを拒否する。

…めちゃくちゃ失礼極まりない。

私は愛されなかったんじゃない。愛されることを拒んできた。自分で「愛されないことを選んできた」んだろうと思う。つまりは、自分自身を愛せてなかった。「私は愛されるに値しない」。だからあなたの愛は受け取れませんって。
私が変えるべきだったのは「相手に好かれそうな自分を演じること」ではなく「そのままの私で愛される覚悟を持つこと」だった。悲劇のヒロインのように「愛されてこなかった、かわいそうな私」と思って散々自分を慰めてきたけど、そうじゃなかった。

愛すならまず自分から。灯台下暗しすぎる。人生って難しい。


そのことに気付いてしまって、えーーーそうだったのーーー?!と久しぶりの後悔した。ずどーんって頭を殴られた気持ち。大晦日に鐘をつくあの棒で、ずどーーーんって。
なんでそんなこと今まで気づかなかったの?って思われる方もいるかもしれないけど、幼少期からの愛着などなどに影響されるものだと思っているから、仕方がなかったのだとも思う。誰のせいでもない。もちろん気づけなかった私のせいでもない。

でも、今、こうやって気づけたことがとても嬉しい。それは、そのままの私を私が愛することができて、そのままの私で愛される覚悟を持って、めっためたに愛されてるからだと思う。私を愛せるようになってきてから、愛してくれる人が増えてきた気がしている。気付かせてくれた皆々様へただひたすらに、感謝。ありがとう。年齢は重ねてるけど、愛着についてはマジで赤ちゃんなもんで、これからもこんな発見がたくさんあるんだろうな。


ねぇ、「愛されるよりも愛したい真剣(マジ)で」って、「(誰かに)愛されるよりも(まず自分を)愛したいマジで」ってことなんじゃない?ねぇキンキ、そうなの?真理に近づいた気がした夏…。

一生こうやって私は自分の価値観を自分でぶっ壊しながら、あの時はこうだったのに今はこう思うのー?!きゃー!私ってばまた成長しちゃってるじゃーん!って思い続けるんだと思う。愛ある人に出会うとさ、ほらこうやってまたすぐ気づきを得ちゃって、あっという間に脱皮する。変わっていいし、変わっていくのが自然だよね。

まず自分をめっためたに愛そう。話はそれからだ。私、今日も生きてるよ〜!

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