見出し画像

「一汁一菜でよいという提案」前半

私はつくづく、土井先生の文章が好きだなぁと感じた一冊。いや、そんな言い方をしたら土井先生が書いた本はすべて読んでるみたいな感じだけど、すみません、『一汁一菜でよいという提案』が初めてです……。土井先生の文章と出会ったのはTwitter。なんとなくフォローして、なんとなく流れてくる日々の食と文章を見ているうちに、ファンになったのだ。

お赤飯はきれいなぁ ともだちのお祝いにつまが朝からふかしたよ

ほら、これだけでなんかもう吸い込まれちゃうでしょ、癒されちゃうでしょ。日本語の持つ独特なうつくしさ、たとえば平仮名とカタカナ、漢字それぞれが持つ表現力を、とても自由に、そして精密に、ご自分の感受性とつなぎ合わせてるような文章。

『一汁一菜でよいという提案』には、たくさんの美しい日本語が詰まっていた。「これはおいしい日本語で満腹になれるぞ…」というのが、私が持った最初の感想だった。

もちろん、この本の軸となっているのは日本語ではなく「食べること」。

『一汁一菜でよいという提案』の前半は、「家庭料理はおいしくなくてもいい」としつつも、しっかりと日本の文化的な食生活のあり方を説いてくれている。私はタイトルからの印象もあいまって少し勘違いをしていたのだが、「家庭料理はおいしくなくてもいい」、この言葉の中身は、けっして読み手を癒すためだけのものではなかった。

人間の作為的な知恵や力まかせでは表現できなかったのが日本の食文化です

味噌や漬物、古くから続く日本の食は、すべて自然とつながっている。四季が豊かなのは美しいことだけど、よく考えたらその激しい移ろいのなか生きてゆくのはものすごく大変なことだ。私なんかがその時代にタイムスリップしたら、何も考えずにただ物を腐らせて飢え死にしてるだろう。先人たちがこの風土と上手に生きる術をくれたおかげで、私たちは「日本の風土にあった食生活」ができているのだ。

実はもともと和食より洋食の方が好きなのだけど、日本で生まれ育ったからこその感性を、もっともっと大事にしてみたい、いや、大事にしなければいけないのではないか。そんなふうに刺激された。

私たちは日頃、ご飯を食べることを「食事をする」と簡単に言いますが、そもそも「食べる」ことは「食事」という営みの中にあることで、単に食べることだけが「食事」ではありません。
ゆえに、「生きることの原点となる食事的な行動には、様々な知能や技能を養う学習機能が組み込まれている」のです。

最近は自炊しなくてもいいじゃない、という風潮が強くなってきて、どちらかと言えば私もそうだ。「自炊こそ正義」のような見方は現代社会に合っていないし、自炊できない自分を責められているようで好きじゃない。

土井先生も、「料理するのは正しいから、必ずどんなときでも料理しろと言うのではありません」と書いているし、社会システムの問題にも触れている。それでも、土井先生はこんな言葉で少しだけ頑張らせてくれる。

どうぞ踏ん張って下さい。

「日本人の食生活とは」「家庭料理の在り方とは」など、ともすれば「べき」とも捉えることが出来、やや偏った一面も持つ内容なのに、どうしてこんなにスッと入ってくるのだろう。

きっと、日本の暮らしと丁寧に向き合ってこられたのであろう土井先生の言葉だから、素直にこころに響くのだとおもう。

実際、この本と出会ってから、私はすぐに一汁一菜を実践しはじめた。一汁一菜生活は、とにかく楽だ。おかずを考える手間やストレスが減るだけではなく、洗い物まで減る。「漬物って、こんなにおいしかったっけ?」という気付きまであった。

疲れたなと思っても「味噌汁だけ作るか」と身体が動くし、何より、一汁一菜で食事をするたびに「ああ、私、今日も踏ん張って生きてるな、偉いな」と、自分を褒めたくなるのだ。

一汁一菜ほど簡単で、「頑張らない自炊」は無いはず。しかし、土井先生が書いているとおり、一汁一菜にするだけで暮らしている土地の自然とつながることができる。その情緒が、食事という営みを通して、癒しを与えてくれるのだとおもう。

それは、自ら幸せになる力です。
どのくらい自分の食に意識を持つべきか、その考えは人さまざまですが、少し意識することで、その積み重ねによる結果は、未来のいろいろな面において、違ったものになることは確かです。

大げさではなく、『一汁一菜でよいという提案』は、今少しずつ、私の人生を変えてくれているとおもう。作ろう、踏ん張ろう、明日もちゃんと生きていこう。そして夜には、味噌汁と漬物、あつあつのご飯で、自分を褒めよう。

本当に出会えてよかった一冊。長くなってしまったので、後半はまた今度。

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?