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"Bilingualism is Great!"は本当か?

複数言語を流暢に使えるようになったら
どんな世界が見えると思いますか?

それは、それは、世界がとても広くなることでしょう。

英語ができれば、きっと世界中、色々な国に行っても言語で苦労することはないかもしれません。または、日本には留まらず、学校も就職先も、そして将来のパートナーまでも、世界規模で考えるようになるかもしれません。

もし私が親であれば、そんな世界を子どもにも見せてあげたいと願ってしまうでしょう。

ですが、バイリンガル(マルチリンガル)であることが「良いこと」と絶対視して良いのでしょうか?

私はバイリンガル

今の私は、社会的にバイリンガルとして認められる存在なのでしょう。

ですが、これまで、私は自分のことを「バイリンガルである」と思ったことはありませんでした。それは、未だに英語で本を読んでもわからないことが多いだけでなく、ネイティブと会話をしたところで、ついていくのが精一杯な状況も多いからです。

何年経っても、英語は日本語のように気楽に使うことはできません。

ですから、今までの私は、もっと英語を勉強しなければいけないと不思議と自分にプレッシャーをかけ続けていました。実は、今もそう思い続けているように感じます。

そんな私は、いつになったら自分の英語力を認められるようになるのでしょうか・・・?

バイリンガルであることは良いことなのか?

"Bilingualism is Great"という考えが世の中に蔓延る中、私自身が英語を話す上で、バイリンガリズムに対して疑問を呈するのはおかしげな話ではあるのですが、私はバイリンガリズムを良しとする風潮に完全には同意ができないのです。

それは、私自身が苦労をしているからです。

私にとって英語はいつになっても、私を不完全にする要素であり、自分を落ち込ませるものでもあります。いつまでも完璧にならない私の英語力と向かい合うしんどさは、言葉にはできません。

それなのに、私は英語を切り捨てることはできないのです。

それは、私自身バイリンガルであり続けることが「自分らしさ」を構築し、その姿が他者からも期待されている「私像」であると感じるからです。

そんな自分の内から出る独りよがりなプレッシャーと闘い続ける辛さは、誰とも共有できない孤独との闘いに等しい気がします。

だから私は、たまにこんなことを思ってしまいます。

もし、私が英語を話せない人間だったら、私が無意識に感じているプレッシャーや期待から解放されるのだろうか?

と・・・。

バイリンガルであることへの期待

世界は国際化の流れとともに、英語へのニーズが高まっています。

英語ができる人材の方が、英語ができない人よりも高収入を得たり、より高い社会的ステータスを得ていると言われています。

そうなると、やはりBilingualism is Great という考えが「正義」であるかのように感じます。それだけバイリンガルであることへの社会的な期待が高まっている証でしょう。

でも、人間はロボットではないんです。

社会の期待に応えるために英語を勉強するのでは
気持ちが持たないように思います。

つまり、英語を勉強をするかしないかはBilingualim is Greatが正義だから!ではなく、「自分がやりたいか、やりたくないか」「自分が英語を必要か必要じゃないか」そして、「英語が好きか嫌いか」そんな軸で考え、英語と向き合っていけばいいのではないかと思うのです。

もちろん、英語と相性が合わなかったら英語やめて、違うことに時間を使ってもいいと思うんです。なぜなら、Bilingualism is Great だけが正義ではありませんから。

となると、英語の習得には色々と大変な道のりがありましたが、結局私が英語を勉強し続けているのは、他者から期待されているためではなく、私が英語を勉強したいと思っているからなんだよなぁーと、最近しみじみと感じます。

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