2015/12/17

今年の8月に第一子を出産した。

母が私を産むときに取りあげてくれた先生が、地元で開業した産院で産んだ。

助産師さんと看護師さんが何人か、同業者である母と顔見知りであったこともあり、幼少時代の私のことも覚えていてくれた。だから、分からないことだらけでも、不安はそれほどなかった。

その産院はご飯がおいしいことで地元でも有名で、体重制限がかけられた私は毎日昼ご飯と夜ご飯を作ってもらったものを食べに通った。(無料というから驚いた)体重制限は苦しかったが、ご飯が美味しかったのでなんとか続けられた。「産んだらたくさん食べさしてあげるけんね」と言ってくれた。

陣痛が本格化してきたときも、助産師さんが丁寧にいろんなところをさすってくれた。

田舎の産院で、先生の懐が広かったこともあり、六人(父、母、叔母、従姉妹、その子、夫)の立ち会いのもと、出産した。(赤ちゃんが出てくるところまでばっちり立ち会わせてくれた)

にぎやかなお産であった。

私が産んだとき、新生児室には私の子しかいなかった。だから、授乳や沐浴まで丁寧に教えてもらえた。掃除のおばさんは、私が洗濯をしていると「干しとってあげるけん寝よきなはいや」と言って洗濯物を干して、乾くとたたんで病室に置いておいてくれた。「来年もまたおいで」と言ってくれた。

二人目も、ここで産めたらい、と思っていた。

その産院は来年か来年度から婦人科だけになる、と叔母が今日、教えてくれた。

それを聞いて、きっともう、あんなに幸せなお産はできないんだろうな、と、ぼんやり思った。

この夏、病室のテレビで甲子園を見ていた。あのときはただただ、赤子とのおっぱい奮闘の合間に高校球児たちを微笑ましく見守っていただけだった。

同じ夏は来ない、なんてことは29回繰り返して知っていたはずなのに。

今になって、あの夏を彼らと共に戦ったことが懐かしく、こんなにも恋しい。


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