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『When I Fall In Love ~ジャス研 恋物語~ 13』

 2月のある日、俺と桜子さんは御茶ノ水にいた。いわゆるデートというやつだ。
 だが、御茶ノ水といえばM大のお膝元であり、楽器とウィンタースポーツ用品の殿堂でもある。改札を出たところで待っていた、細身のチェックのコートに身を包んだ桜子さんと待ち合わせた。
 「さあ、狩りの時間だ!」と。そのナリのせいで、下手に決まってしまうのがもどかしい。
 …本当にこの人は。
 JR御茶ノ水駅を出て、堀を背にしてまっすぐ行けばなだらかな坂だ。その両岸に楽器屋が居並ぶ。新品・中古、なんでもござれだ。
 歩みを進める桜子さんの後を追うように、俺は坂を下り始めた。

 とある楽器屋のショーウィンドウの前で、桜子さんが立ち止まる。
 「どうしたの?」「ね、見ていかない?」「もちろんいいよ」
 階段を上ると、管楽器のコーナーだ。桜子さんはすぐにトランペットのコーナーを見つけて近寄る。
 「うわー」と小さく歓声を上げる。そこには、ショーケース一面に飾られたトランペットたちの姿があった。「あれ渋くね?」と桜子さんが指さす。確かにラッカーは剥げているけど、歴戦の古強者の趣きがあった。「確かに、持ってるだけでスウィング上手くなりそう」と俺。たくさんの楽器を熱心に眺めながら、桜子さんは嬉しそうだ。
 「しかし、いざ買うとなると、やっぱ高いよな…」楽器の各々に付いた値札を見ながら、桜子さんは困ったように笑った。そりゃそうだ。学生の身分でおいそれと手が出るレベルではない。
 「今の楽器、メーカーどこですか?」ふいに俺は聞いてみた。
 「んー、国産だと思う。父親が買ってくれたやつだから、詳しいことはわからん」
 あまりメーカーとか気にしないのが、桜子さんらしいといえば、らしい。
 「ちょうど高校でオケにいた頃かな。どうしても自分の楽器が欲しくなってさ、機嫌の良さそうな頃合いを見計らって父親に頭下げてさ。そんで楽器屋さんで試奏して、相性の良さそうなのを買ってもらった。親父さまさまだよ」桜子さんがへへっと笑う。
 「そういや、優斗はあの楽器どうやって手に入れたの?」
 相変わらずトランペットのショーケースから離れない桜子さんが言う。
 「部室のレンタルのアルトをしばらく吹いてましたけど、さすがにこのままじゃいけない、って買ったんです」
 「優斗…ってかオヤジさんカネ持ってるなぁ」「いやいやまさか。俺も親父に拝み倒しました。それこそ「私立大に高い入学金も払って学費も払って、今度は楽器だと!?」てな具合でそりゃあキレられましたけど。”絶対諦めない”を条件に、呑んでもらいました」
 俺はその頃の記憶を辿って、苦笑いした。
 「そういや今の楽器買う時、遠山先輩に相談したんです。したら休み割いてわざわざついてきてくれて。そんで、いま使ってる楽器を選んだんです」
 桜子さんが、にやりと悪い笑みを浮かべた。
 「けっ、遠山の野郎は普段練習しないくせに。たまにいいカッコするんだから…まぁ、あいつらしいわ」その笑顔は、悪意は微塵も感じられなかった。楽器屋を何軒もハシゴして、俺の試奏に根気よくついてきてくれた遠山さんには、今でも頭が上がらない。
 そこから移動して数件目の楽器屋のショーケースの前で、桜子さんが言った。
 「あのさ優斗…たぶんだけどさ、これから部活が規模を増したら、楽器持ってない子とかたくさん出てくると思うんだよ。優斗もそうだったように。部室でストックしてる楽器にもキリがある。今の部の予算じゃ楽器まで買い増し出来ない。必ず自分の楽器を自分で手に入れなきゃいけない日が来る。そんなとき、先輩としていいアドバイスをしてやってあげてな」
 その横顔を見ながら、俺は笑って言った。
 「大丈夫です。先輩方からもらった恩は、ちゃんと返しますので」
 その言葉に「ん、ありがとな」と桜子さんは小さく笑った。

 御茶ノ水での楽器散策を終えると、俺達は中央線で飯田橋に移動して、カナルカフェに腰を落ち着けた。堀の上に作られた波止場のような場所で、季節や時間帯では到底入れない人気店だ。俺達は相変わらずビールを注文して、寒空の下、小さく乾杯する。
 「優斗もこういうシャレオツなお店に行くことあるんだ~」と桜子さんがニヤニヤと表情を作る。「俺だって、来るのは初めてです。お洒落っぽい場所はいくつも知ってますが、それに桜子さんと一緒じゃなきゃ意味ないです」ふいに、本音が出た。
 どんな景色も、どんなお店も、俺はもうひとりでは満足出来なくなっていた。ちゃんと桜子さんというピースが揃わないと、どれも意味のないものに思えていた。
 「…ありがとね」桜子さんは手にしたビールに、ちょっと口をつけた。
 きっと、学科の連中はもっと楽しい恋愛をしているんだろう。ちょっとした事でケンカして、仲直りして、それを繰り返しているんだろう。ただもう、桜子さんと一緒になってからそんな不文律は通用しない。通用しなくてもいいから、俺は彼女と一緒にいる事を選んだ。
 「さっきの話だけど、遠山が楽器選び付き合ってくれたって、本当?」
 桜子さんがニヤけている。こりゃ同期の足を引っ張る気なんだろう…。
 「はい、本当です。何軒も楽器屋ハシゴして、辿り着いたのが今の楽器です」と俺。俺の使っている楽器は、ラッカーがガンメタ色で、ベルも大きくて普通のケースには入らない。それはそれは個性的な逸品だった。
 ふふっと、桜子さんが笑う。
 「遠山っていっつも部活から一歩引いたところにいてさ。あたしみたくドップリとは正反対だったんだよね。それがあいつのスタンスならしょうがないけど、もっと部活にのめり込んで欲しかったな…ってのが正直なところ。だけど、優斗の楽器選びに一日費やすとか、そういうとこもあったのかって、いまちょっと見直してる」
 そういう桜子さんに、「遠山さんって意外と面倒見いいですよ?」と俺は笑った。
 
 ひとしきり話を終えた俺達は、カフェを後にした。この後の予定はない。
 「このあと、どうする?」桜子さんの言葉に、「うち来ます?」と自然に口を衝いて出た。
 「えっ!?」その言葉が出るまでに、2秒を要した。
 「確か優斗のうちは阿佐ヶ谷だよな。いいのか、行っても?」桜子さんは急にモジモジしはじめた。こういうところ、本当にかわいいんだよな。
 「手狭なワンルームですけど、そこで呑みなおしませんか?」
 俺の提案に、桜子さんはこっくりと頷いた。「それじゃ、行きましょうか」と俺は彼女の手を引いた。
 頭の中には、ジャズスタンダードの「When I Fall In Love」が流れていた。

 どうかこの恋が近づきすぎて壊れないように、変な遠慮で手放してしまわないように。落ちるのは勝手だが、きちんと表現の仕方を間違えないようにしないと。
 最近の俺は、随分と勇気ある行動に出られるようになったもんだ。握りしめた桜子さんの暖かな右手を離さないように、JR飯田橋の駅へと向かうのだった。

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