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風花の舞姫 勾玉

あらすじ

 信州の燕岳、樽沢の神社に独りの女性が棲んでいる。
 数十年を経てもその容姿は少しも衰えず、凄絶な美貌をしている。
 彼女はその神社の巫女として、巫女舞を奉納している。
 しかし時折は彼女の庵に、悪霊や鬼、生霊などに取り憑かれている人々が訪問する。彼女はそれを巫女舞にて祓っているという。
 彼女の正体は、雪女。
 彼女の生誕は、戦国期。
 最凶の魍魎が蘇り、乱世からの怨念で彼女をつけ狙う。
 交錯する謎の行方には、あの皆神山が常に聳えている。
 戦国時代と現代を結ぶ勾玉に、どんな神威があるのか。
 そして。
 甘利家の血脈で、眠れる獅子はいつ覚醒するのか。
 

#創作大賞2023 #ファンタジー小説部門

風花の舞姫 勾玉 1

 冬は愛おしい。
 特に信州の厳冬期はなおいい。
 澄み切った大気を、剃刀のような冷徹な風が斬り結んでいく。
 蒼天の中に綿毛のような雲がポッカリと浮いている。一見して暖かそうなそれからは、風に乗って小雪が静々と舞い降りてくる。
 そんな冬の方程式に沿って、棲んでいる庵の周囲を凍結させても不自然ではないし、ここに至る砂利道や川縁が氷結していても誰も疑問に思わない。ゆっくりと気分を抜いて自堕落に生活ができる。
 物思いに耽って冷気を垂れ流しにしてもいいし、来客があれば蓄熱した熱量で春の陽だまりのように室内を温めてあげるし、お風呂も沸かして上げる。浴室を北欧サウナのような温度に高めることも造作ない。
 とはいえこの時期にここまで訪ねてくるとしたら、従来は色葉くらいではあったけど。
 この数百年は孤高のままに過ごしてきた。人間の姿で人里で暮らした時期もあれば、氷河のなかに氷塊となって沈殿したこともあり、山奥で怪異として隠棲した時期もある。
 そう。
 私は雪の精。
 不出来の神。
 雪女なのだ。
 雪女とは人間の精気や生命を吸って生きている。
 普通の食べ物は必要がない。口に合わないだけで食べたりもするが、まるで味気ない。活きるための芳醇なエキスがそこにはない。
 そして雪女は莫大な効率を持つ熱交換器でもある。
 周囲の熱量を根こそぎ奪い去り、一定空間の大気さえ液体窒素にまで凝結させることができる。その内部では生物や怨霊ですらも分子の電気結合を破壊され、冷凍破断することができる。
 その能力には作用と反作用がある。
 奪った熱量は逆に肉体に溜まり、それが一定量以上を超えると、意識の混濁を引き起こす。深刻な酔いが回る感覚だ。それが弱点とも言える。
 悪酔いに至れば、その樽の箍が外れてしまう。制御を失い、それが溢れ出すと反作用で一気に周囲は凍土から焦土になってしまう。
 それを防ぐには適度な場所で、無駄な熱量を小刻みに放熱しておくのだ。つまり雪女は灼熱さえも操れる。それが美点とも言える。
 その蓄熱を撒き散らす場所はどこでもいい。
 一度それを視覚で捉えていれば排熱できる。
 PCで検索した場所も知覚できてると可能だ。

 訪問客が近づいている。
 樽沢神社の庵の周辺には、この厳冬期には音がない。
 春めくと滝が落ち始め、轟々と低い音が響いてくる。
 清流が流れ始め、静々と涼やかな音が絶えなく続く。
 浪々と美しい声を響かせる野鳥が、林に舞い降りる。
 小動物が草葉を鳴らし、蕭々しょうしょうたる森林に姿を眩ます。
 それが今はない。
 あるとすれば時折、ざっと枝に積もった雪が落ちる音だけ。だから彼方からのタイヤが大地を噛む音は、よく耳に通る。
 その車は林の陰に駐車されるはずだ。その先は羊腸のように曲がりくねった細道で、徒歩でしか進めない。
 そうだな。
 折角の来客だから歓迎するかな。
 その車のエンジン音は知己の響きだったからだ。
 滞留している蓄熱を撒き散らし、砂利道の雪を消失させておく。勿論、小川にかかる丸木橋も凍結を溶いて、滑らないように乾燥させておこう。氷結した渓流の瀬も流しておこう。そうそう雑木林の雪に埋没している石仏群もお顔を出しておこうと。
 丁度、午後の日も高く陽光が煌びやかだ。
 この刹那限りの春の装いでお迎えしよう。
 私は全裸だったので、座椅子から身を起こし身支度を始めた。絹の小袖を被って、緋袴ひばかまを履き紐を結ぶ。黒髪は紅紐で後ろに纏めた。銅の前天冠をその上に載せた。そう、巫女の正装に誂えた。
「突然に済まないな。それにしてもここの当たりは暖かいのか、春みたいじゃないか」
 甘利助教が両肩を揺すりながら降ってくる。彼の肉の重圧だけで、枝葉から残雪がぼすりと落ちてくる。
「歓待しているのよ。貴方達を」
「明けましておめでとうございます」と史華が深々と一礼をする。
「ありがとう。私の立場でいうとまだ大晦日前だけどね」
「そうか、旧暦だとまだなのか」
 二人を囲炉裏の前に招く。そこに架けられた鉄瓶にはもう湯気が立っていた。茶を立ててお盆に置いて勧めた。生憎と茶菓子どころか、人間の食べ物は置いてない。
「お構いなく」と甘利助教は湯呑みを摘み、無頓着に口内に放り込んだ。史華は冷めるのを待つようだ。
「史華さん、印象が変わったようね。どう?最近は羽衣で飛翔してみたことあるの」
 彼女の笑みには黒い濁りがある。それは私への叛意なのか、彼女が魍魎を内包しているからか。
「もう寒くって、上空は」
 つまり飛んでいるわけね、と思った。
 彼女には翼がある。
 両翼端までは、六間を超える長大な翼だ。
 中生代に棲息した翼竜にも匹敵する。その翼を持ってしても、無風状態であれば地表から離陸はできない。高所から飛翔すれば、ある程度は自由に大空を遊弋ゆうよくできるらしい。
 甘利助教は畏まった表情で姿勢を正した。
「これをどう思うか、忌憚ない意見を伺いたい」
 彼らは白手袋をして、堅牢な標本箱に収められた濃緑色の勾玉を見せてきた。まず眼を射抜かれたのは、山麓を丸ごと搾ったようなその翠の深さであった。


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