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長崎異聞 20

 橘醍醐は南山手の石畳を歩いていた。
 常日頃の務めを漸く思い出していた。
 昨晩は魔窟にも近い館内で過ごして、朝帰りであった。
 ユーリアは既に南山手で通詞をしているという。その警固を怠っていた。
彼女の身辺を護るのが、陸奥家の要望であり奉行所からの下命でもあった。
 皐月の風が南山手を優しく撫でている。
 その海風には潮の香りが混じっている。
 南山手はもう異国の風情に満ちている。
 薄青い木壁に白枠の窓がある。紅色の鎧戸も、ギヤマンが嵌合かんごうされた窓も開け放っている。レースの窓掛が風に揺れている。
 むしろ醍醐自身が、この丘では異質であった。
 井戸端会議も異国語であろうな。
 顎を撫でながら彼女の機嫌を推し量ったが、すぐに止めた。自分の半生に女子おなごとの出会いはない。まして碧眼へきがんの女性の心持ちなど判りようもない。
 さて羊腸のごとき細い石段が繋がり、それを追ってゆくと急に広めの私道に行きあたった。
 この館に相違ない。
 満開のツツジで敷地を囲い、芝生にパラソルが立ててある。
 六角形の大屋根を、曲木のアーチが幾重に並んで支えている。日差しがその窓に当たって輝いている。小振りでありながら、黒船のごとき威風を感じている。
 そこは英國人トーマス・B・グラバーの居宅である。
 かの館にて、ユーリアが誰と誰の通詞をしているのか。
 恐らくはそれが陸奥宗光の事業にも関係があるのだろう。

 露西亜を止める手立てがあるのか。
 蔵六はさも当然と事もなげに語る。
 朝方の問答の終盤であった。興味の余り、そこまで聞いて彼ははっと自らの務めを思い出した。
「薩摩を梃子てこに英國を揺り動かすのよ。あれでな、薩摩は実はたもとの下で英國と昵懇じっこんでなあ。それを共和国政府にはひた隠しにしておるがの」
 共和国政府は仏蘭西に近しい。
 それは幕府時代からの縁である。
 なので来年から高等小学校は仏語を必修としている。醍醐には身震いするほどの驚きである。
「だがなあ、欧州では仏蘭西の権威はもうないのよ。例のボナパルトの甥がな、皇帝に就いたはよいがプロシアに大敗しての。驚愕した政府の足並みも乱れておる」
 蔵六は陸奥宗光の長崎への帰宅を待つという。
 亮子夫人の語るには、もう東京に打電しているとのことだ。
 蔵六の画策に、全てが絡み取られていくような予感がする。
 
 
 

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