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長崎異聞 22

 蔵六の声は、誰に向けたものか判らぬ。
 しかるにつんと臓腑の奥に降りて来る。
 ソファの背にゆっくりと背中を沈めながら、独り言のように呟いたのだ。
 日の本を清から護るためよ、と。
 橘醍醐の腕にかかる桃杏の指に、ぐっと力がこもる。この姑娘クーニャンは日本語を解する。醍醐だけが、彼女の心根の毒気を肌身で感じている。
「日の本はなぁ、まだまだ未熟だ。懐も寂しいものだ。だから知恵が要る。他人の褌で土俵に上がるしかないのよ」
 彼はいう。
「それでな、先にも言ったが、グラバー卿に大浦お慶女史をご紹介したいのよ。その通詞もな、ユーリア嬢。貴女であれば造作もあるまい。これも奇しき縁じゃ」
「何度もお尋ねして申し訳ないです。ですがその大浦様のご素性を伺いませんと、即答はできません」
 大浦お慶と英商人W・J・オルトとは刎頸ふんけいの仲である。
 と世間は思っていた。
 文久元年に、お慶は九州一円から茶葉を搔き集めて、一萬斤をアメリカに輸出した。ところが文久元年に南北戦争が同地で勃発する。暫しの輸出の沈滞となったが、慶応に入り茶葉輸出は爆発的な飛躍を得た。
「茶の貿易商を営んでおってな。オルト卿の斡旋で嬉野茶を大量輸出した女傑よ。その後に熊本藩士、遠山某に騙されて保証人になってのう。ばかりか長崎奉行所の小役人が、その熊本藩士と裏で繋がっておって罪までも被った。冤罪と判明したが、保証金は生家までも売り払って弁済したのよ。無論、商売はオルト卿に乗っ取られた。つまりその絵を描いたのがオルト卿だと語る、お慶女史の眼光たるや。この儂も肝を冷やしたぞ」
「なるほど、それでグラバー卿に」
「女史は嬉野の、上質の茶畑に詳しい、英國人ほど茶には煩さかろう。お慶女史の茶葉と交換に、実はオルトは南北戦争の古兵銃を受け取った。非業の代物でな、それが長州に渡っての。新式銃であれば、まだまだよい戦さも見せてくれただろうが・・・いや詮無きせんなきことよ」
 彼の生国は長州である。
 しかも軍参謀として卓越している。
 彼がもし幕府ではなく、長州参謀として采配を振るっておれば、或いはこの事態も回天したやも知れぬ。その事を詮無きことと語った風に、醍醐は感じた。
「して貴君、儂の姑娘と善い仲ではないか。奇しき縁もあることよ。どうじゃ、その娘と祝言でもあげぬか。何、舅として申し分なかろう、この儂は」
 ふと気づくと、桃杏がぴったりと寄り添っている。吐息さえかかりそうな柔らかい抱擁が左手を包んでいる。醍醐は慌てた。
「ご執着にござります。ですが拙者、部屋住みの若輩者。口減らしもあっての長崎奉行所預かり。わが節度が立ちませぬ」
「通り一辺倒な事由ことわけを申す奴だな。まあ良い。余り事を性急に進めたら、嬢の機嫌も立たぬ。さすれば我が策も水の泡よ」
 横目でユーリアを見やる。
 脂汗がたちまち結氷した。
 

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