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長崎異聞 28

 橘醍醐は官吏でもある。
 しかし幕臣としての報恩も忘れない。
 代々が旗本の家柄であり、お家相続の為に部屋住みとして江戸で暮らしていた。いざ長州征伐の折に橘家も出征することとなった。
 父は隠居の身であり、当主である兄は出せぬ。そこで病弱の兄が万一のときにと実家に据え置かれた醍醐に御鉢おはちが回る。
 往時は旗本の子弟であれ、戦さ働きを忌避する者が多く、血気盛んに応じた彼は、実に珍しい方であった。
 然し乍らしかしながら彼が洋式軍隊への訓練が始める前に、長州は崩壊している。先発隊を率いたのは尾張徳川慶勝公であり、総大将として慶喜公そのひとは大坂城にて睨みを利かした。
 幕軍の作戦立案を行い、謀を巡らすのは大村益次郎であり、脇を固めている薩摩軍の参謀にはかの西郷隆盛公の姿もあった。
 その一翼に参加も許されず、戦は終わった。
 長州は大いにその領土を失い、多くの藩士が防府崩れとして各地に散らばった。かつては中国八か国を有した毛利氏が、僅かに父祖を弔う墓碑に頃合いの狭地が許されている。
 
 襟首を掴むまでもない。
 腰紐すら掛けてもない。
 醍醐は彼を襲ってきた賊頭を長崎奉行所まで連行してきた。
「逃げるなら試してみよ。その切には貴君の片足は落ちておる。技は既に見知った筈だ」
 居合の巧者に、背中からこう囁かれては、彼はその一歩一歩にも気が気でなかったろう。
 さっさと詮議方に彼を引き渡した、恐らくは防府崩れの一角であろうと付け加えた。次は階上に上がり、上役への定期報告である。
 上役に対し、陸奥宗光宅に居住してからのひと月余りの顛末てんまつを語った。さらに大村益次郎こと、旧名村田蔵六に関しても言及した。但し彼の描いている国家の大計までは話さない。いや話せない。そんな横槍を刺すのは士道にもとると考えている。
 彼は幸運でもある。
 その大計を軽忽けいこつに言及すれば、その詮議で彼こそが責められていたであろう。そもそもが不心得な事は世間では口にしてはならぬ。
 上役は陰口では眼鏡小僧と揶揄される、近目の背の低い男である。
 官製洋服の袖に腕が寸足らずであり、分不相応な高級な丸眼鏡をかけている。彼に報告が終わりつつあるときに、戸外より啄木鳥きつつきのように性急な叩音ノックの音がする。それに立腹したか、入れと横柄に上役が命じた。
 脂汗を垂らした同期の義顕がそこにいた。
「申し訳ございませぬ。あ、あの上方よりお出での、え、江藤新平公からの、お召にございます」
「なに、儂にか」と勇みこんで上役は立ち上がる。
「いえ、この橘醍醐へのお召でござる」
 また来たか、醍醐はこの目紛めまぐるしい日々に閉口している。
 呆気に取られた上役は傍目にも明らかに肩を落として、さらに居丈高に下がれと義顕に吐き捨てた。そして醍醐に嫉妬に燃え盛る目を向ける。
「よいか、失礼があればこの長崎奉行の名折れである。江藤公は初代司法卿を務め、さらに大日本共和国憲法の制定にもご尽力頂いた、立法の神で在らされる。その言葉言葉ひとつが法律と思え」
 さてもさても。
 さりとて醍醐の心根は幕臣のままである。

佐賀本丸歴史館の桜


 

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