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長崎異聞 17

 縁とは奇しきものである。
 と橘醍醐は痛感したのだ。
 その男は兵部省大臣、大村益次郎と名乗った。
 しかも太政官位も有しているというのでは、大村卿とでも呼ばねばならない。
 ただしここはくるわの一角である以上、虚栄と欺瞞の糊塗を受けており、その言には信は置けぬ。しかも彼の衣服は華族どころか、商家のものにすら見える平服である。
「大村卿は」と言いかけた先駆を打たれた。
「蔵六で構わぬ。その名は未だ面映ゆい。またこの館で知られたくもない」
「では蔵六殿はここで何を」
姑娘クーニャンを買うような男に見えぬか」
「見えませぬな」
「儂もな、ここにきて姑娘の脈ばかり取っておる」
 彼は薄く伸びた髭顎を擦って、悪戯小僧のような眼をしている。
「・・そのみぎりは医学の徒でありましたな」
「それは趣味であります」
 ぴしゃりという。
 触れられたくない話題のようだ。
 実は、と声を潜め、彼は床几に手を添えて膝を近づけた。
 醍醐は耳を寄せるために勢い、桃杏を脇から押す形となった。結果として床几が重なり合い、三者の膝小僧が触れ合うまでになった。
「ここはな、清人の動向を探るのによいのです」と言いながら、唐突に桃杏の乳を下から揉み上げている。驚愕した彼女は腰を浮かせたまま声もない。
「ほお、叫ばぬか。姑娘、其処もと、実は日本語を解するな」
 さらに桃杏が身を固くする。
「醍醐君、そろそろお迎えが来るはずだよ。それに便乗していこう」
 彼は懐中時計を見て事も無げに言う。
「お迎えでございますか?」
「君が二名の官吏を逃がしてあるのだろう。それが警務方を連れてくるよ。彼らが報告書を書いて、書面が上に巡回して下りて来る時間だ」
 果たして警務方の名乗りが遠くに聞こえてきた。
「では参ろうか。ついでにその娘はここで買い受けておこう」
 懐から巾着袋を取り出した。紐が伸びきっておりずっしりと重そうだ。頑丈な翠の綿糸で編まれた袋である。その結び目までも金貨が詰まっているのであろう。
 
 縁とは奇しきものである。
 彼らは三人で仏蘭西ホテルの正門前を歩いている。
 醍醐と蔵六の後ろから、肩をすくめて李桃杏が従っている。
 奉行所の警務方は既に役目を終えて、彼らを解放しているが、蔵六は最後まで身分を明かしていない。
「君はどこに住まいかね」とふいに蔵六は尋ねる。
「間借りでございます」
「間借りか、家主とは士分かね」
「丸菱の陸奥さまです」
「成程、これも奇しき縁であることよ。共和国成立の折に亜米利加より大量の銃火器を手配した御仁か。ならば否やはない。そちらに参ろう」
「長崎奉行所の方が身の安全を守れるのでは?」
「いやさ、敵は身内にいるものぞ。あの館内に居て儂が安泰であったのをどう知るかね。金子の力学よ。彼らはな、清に忠を尽くしてはおらぬ。寧ろ儂の命など一テールもの価値もない。今度の戦さで如何に稼ぐか、その要諦はどこか。其ればかりで算盤を叩いていたよ」
 むしろ危ないのは味方さね、と彼はうそぶいた。

 

 
 

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