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キンモクセイウォーク


この秋はまだ金木犀の香りに出会っていない。SNSを見ていてもそろそろいくつかそんな便りが届いているというのに。

一年前の今頃はいたるところで金木犀が香っていた。

休職期間に入って2、3ヵ月が経った頃で、クリニックでの毎週の診察以外は特別な用事もなく、気持ちがわずかながら落ち着いてきたタイミングで季節的にちょうど過ごしやすくなってきたから、急に遠くまで歩きたい欲に駆られてきたのだ。それまでも徒歩で片道30分くらいの範囲に個人経営のおいしいパン屋さんが3軒あって、週に1~2度はそのうちのどれかに通っていたのだけど(今はハード系がおいしかった1軒が遠くに移転してしまった)、秋になってからはその歩きたい欲に任せるままに倉敷の旧市街、いわゆる美観地区まで遠征するようになった。大好きな商店街のコーヒー屋さんで豆を買い、大好きな古書店の狭く心地よい空気に包まれ、大好きな美術館の重厚な建物の外観を見て(たまに中に入って)、そして古い家屋の並ぶ大好きな景色がある。地図アプリでそこまでの経路を検索すると自宅から片道一時間前後だと表示される。しかも徒歩のルートを調べるから車では知りようもないような細い道を教えてくれる。旧市街までは自転車で出かけることは度々あったが、去年の秋はまだ病気の影響でそれも含めて手間のかかることが億劫だった。ヘルメットを被りチェーンの油で汚れないようにジーンズの裾を黄色の反射材付きのマジックテープで留め手袋をはめる。途中でいい景色に出逢って写真を撮ろうと思うと自転車を降り念のためチェーンロックをかける。歩行者や自動車に気を配り、走るレーンにも常に注意を払う。車の運転にしても同じように集中力が必要で当時は不安でそれができず、しかも環境負荷に対しての責任も感じているので、カバンと財布を持って靴を履きさえすれば実行できる徒歩での外出はその当時のぼくにとってうってつけの移動手段だった。カメラを肩から提げていれば気の向いたときにすぐに写真を撮ることができる。いい気分になる。単に移動するだけではなくいい薬にもなった。

いつもクリニックに行く時に歩く駅までの道を、途中でアプリの指示通りに今まで曲がったことのない角に入る。人とすれ違うのもやっとの細い道が目の前に現れる。わざと道に迷ったようでわくわくする。時々どこで曲がればよかったのかがわからなくなる。リュックのポケットから取り出したスマートフォンを開いて自分が今いる場所を確認し、来た道を少し戻ったり、もう少し先かと歩みを進める。倉敷で生まれ育ったのではないぼくにとって、そうやって未知の道を開拓していくのは、この街の空気を自分の肌感覚に落とし込んでいくようだった。

秋、歩いていると木そのものを見つけるより先に、そこかしこから甘い香りが嗅覚をかすめる。あ、と咄嗟に辺りを見回すと民家の塀の上に橙色をした金木犀の花の一群が目に入る。探しても見当たらないとまたしつこく探し、思ったよりも遠くに咲いていたりするのがやっと見つかって、風もないのにこの匂いはよほど広く漂うんだなと感心する。普段は金木犀だと意識していないところでもやたらと咲いている。もしかしたら目に見える以上に塀や建物の陰に隠れているのもあるかもしれない。一時間も歩けば何度もそういったことに遭遇する。一度、白い金木犀を見つけたことがある。あの甘い香りがするのに橙色の花が見当たらない。よくよく探してみると花の形はそっくりなのに生なりの白い色をしているのがすぐそこにある。知らない家の塀の上から覗くその花に、怪しまれないようにさりげなく顔を近づけてみると、確かに金木犀の匂いがする。そうしながら今日は何本見つけられるか数えてみたりするけれど、あまりに多くて、そして甘やかな芳香にうっとりとして指折りを忘れてしまう。

ぼくにとって金木犀の花の香りは何か特別な思い出と結びついているわけではない。ただ春の沈丁花と同じように幼い頃から知っている。昔は沈丁花の、春の訪れを告げる爽やかな匂いの方が好みだったが、今はスイーツのように甘い金木犀の香りも同じように好きだ。そこに特別な思い出は無いけれど懐かしい何かを思い出せそうで、でもそれは一つだけの記憶ではなくて、いくつもの、その時はそうとわからなかった幸せな瞬間が、心の中に浮かんでは消えるような。

そうやって去年の秋にたくさん歩いたこと、それはその年の忘れ難い思い出として過去の記憶に上書きされ、この先この香りはこの年の特別な秋の記憶に結びついていくのだろう。先の見えない不安を抱えつつもその秋は幸せで、そして自由な季節だった。何が幸せの条件なのかは後になってわかるものなのかもしれない。


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