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【短編小説】温かいガトー

なんか、食べたくない? 

と、ミオが唐突に言うものだから、私はほぼ反射的に良いね、と答えた。隣に横たわるミオ越しに見るカーテンから、僅かに漏れる光が眩しい。良いね、と勝手に答えた起きたての脳みそで考える。 

あたたかいガトー 

翠(みどり)が一番に思い浮かべたのはガトーショコラでもシェル型で焼かれたマドレーヌでもなく、ダックワーズだった。 大学でフランス語を専攻していたミオとの日常会話には聞き慣れない単語が出てくることがある。私たちはお菓子を作ることが多い。だからガトーという単語がお菓子を指すことは何となく知っている。だけど普段の翠はガトーをお菓子、と呼ぶ。

「私、ダックワーズがいい」 

「じゃあ朝ごはん食べたらスーパーへ行こっか」 

今日はミオと翠にしばしば訪れる、手作りガトーの日だ。 

朝食は翠が作ることになった。マーマレードをかけたヨーグルトに目玉焼き2つ、スパムを一切れ。そこにブロッコリーを添える。ミオはバタートースト、翠はご飯を選んだ。華奢なわりによく食べるミオに連られて、翠は食べることに恐れを抱かなくなった。脂質だとか、糖質だとか、そういう難しいことを計算しないほうがご飯は美味しいし、美味しいご飯を身体は喜んで吸収してくれる。二人で食べるご飯を吸収することは、彼との時間をも身体で味わうようなものだから余計に好きだ。 
そうしてたっぷりの朝食を食べ終えてニュースを観た後、洗い物をミオが済ませた。ご飯を作ってもらった方が洗い物をするのが我が家のルールなのだ。

その間に翠は簡単な化粧と着替えをすることにした。

「ところでガトーの定義って何?」 

翠はミオに聞いてみる。 

「日本だとガトーって単語が入ってるから単純にガトーショコラのイメージが強いけど、フランスじゃケーキもクッキーもガトーだよ。焼き菓子全般のことを指す言葉として使われてるって認識だな」 

「ふーん。フランス語って難しいのね」 

「そんなことはないさ。要は焼き菓子ってこと」

ミオはグレーの柔らかなコットンのシャツにジーンズを着ている。その上にドロップショルダーのチェスターコートという身なりだ。彼の服はいつもシンプルで、気に入ったものを少ししか持たない。それでいて絶妙にセンスが良いのだ。だから時々翠はミオのようになりたいと思う。サラサラでシャンプーの匂いがする髪も、笑っても綺麗なバランスを保つ顔も、何でもポジティブに捉えられる性格も、翠は持ち合わせていないと思ってしまう。

「僕もう準備できたよ」

私も!と答える。
リビングの電気を消して翠は玄関へと向かった。  

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昨夜、夢と現実の狭間で考えていたことがある。それは出来立てのガトーは美味しいのか否か、である。ガトーの代表であるガトーショコラは一晩置いておくことを大抵のレシピが推奨している。でも、焼きたてのあつあつが食べてみたい。きっとアイスクリームも添えてみたりして。起きた瞬間口をついて出た、温かいガトーという言葉。だけど今日のガトーは翠の希望でダックワーズになった。

あつあつのダックワーズ。

いまいちピンと来ないものである。あの独特のシャクシャクの食感が楽しめるのは冷ましてからだろう。

ミオは、翠にとても弱い。

ふわふわと癖のある茶髪も、焼き菓子のような匂いのする肌も、何にでも子犬のように飛びつく無邪気さも、翠の全てがミオには可愛くて仕方がない。出来上がったダックワーズを頬張る翠を想像する。妄想の中の翠はとんでもなく幸せそうな顔をしているものだから思わずにやけ顔になる。これは、上手く作らなければいけないな。

着替えてリビングに戻ると、翠も着替え終わったところだった。背の高い翠はパンツがよく似合う。今日は淡いブルーのパンツにクリーム色のニットだ。服を豊富に持ち合わせている翠は毎日少しずつ違った雰囲気の服を着る。お洒落より簡単さを選ぶ自分にはできないことだ。

「ねえミオ、買うのはアーモンドプードルだけでいいよね?」

「うん、他はもうストックがあった!」

ミオは先を行く翠の、揺れるポニーテールを追いかけるように急いで玄関へ向かうのだった。

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