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父の亡くなる瞬間、、、命の灯火を見た。

こんにちは!
爽やかサプリです✨

現在、
3児の子育てをしている、
30代の主婦です。

普段は、、、

朝5時からのルーティン、、、
美文字レッスン、

毎日更新中、
ハムスターのコロちゃん、
毎日の空、

そして、、、
日々の気づきや、
趣味の記事を書いています。

7月からは、

30代の運転免許取得
マガジンの追加をしました♪

ご興味のある方は覗いてみて下さい^^

今回、いつもの記事とはテイストを変え、
私の経験したある話を、
皆さんにお話ししたいと思います。

最後までご覧頂けたら、
幸いです✨

父を看取る

時に、、、

皆様は、人の死の瞬間に、
立ち会ったことはありますか?


私は、、、あります。


22歳の時、

母と姉、
家族3人で父を看取りました。


それ以降、、、

これまで以上に、

【生きる】
という事について、

考えるようになりました。

大切な人の命の灯火が、

ゆっくり、、、

けれど、

静かに消えゆく瞬間を、、、


確かに見たのです。

まず私の父の話を、、、

そして、看取った日のことを、
順を追ってお話ししたいと思います。

父の肝臓ガン発覚

私の父は、
若い頃から料理人として、
いろんな飲食店を渡り歩いていました。

怪我で入院は数回あれど、
大きな病気の1つもしたことのない、

元気な父でした。

そんな折、、、


2010年、
父が60歳の時、、、

肝臓がんが発覚しました。

癌は進行具合で、
ステージ1〜ステージ4に区分されます。

ステージ4は最終段階。

ここまで来てしまうと、
回復は中々難しくなります。


父は、ステージ3でした。
既に、大分進行していました。


発覚したのは、
私の出勤前の出来事が
きっかけでした。

私は当時、実家暮らしでした。

当時ケーキ屋さんに勤めたばかりで、
新人の私の朝は早く、

4時には起床して、
5時には出勤しておりました。

そのため、
家族はみんな就寝中。

ほぼ誰とも顔を合わさないのが
いつものスタイルでした。

けれど、、、
その日は違いました。


父の寝室から呻き声が、
聞こえたのです。

すぐに飛んで行ったら半身を起こし、
苦しそうに呼吸している父の姿がありました。

突然の出来事に、
酷く戸惑いました。

一つ上の姉も、母も
まだ寝ている時分、、、

私しかいない、と思い、

救急車に電話しようか?と、

声をかけました。


けれど、、、
父は心配をかけたくないから、
と拒否。


結局その日は、
後ろ髪を引かれる思いのまま、、、
父を置いて出勤しました。

帰宅後母に聞いた話だと、

その後数時間経過したのち、

気付いた母が電話して、
救急車に運ばれたようです。

そこで、、、
初めて癌が発覚したのです。

それは、、、

私たち家族には衝撃でした。

先にも語った通り、

病気で入院したこともなく、
健康だったからです。

それから、、、
治療が始まりました。

ここから、長い一年が始まります。

父の初めての入院

治療の度、

半月余り病院へ、
入院を繰り返しました。


その入院費用は、

私と姉が負担していましたが、
高額医療制度のおかげで、

10万円以下で済みました。


最初の治療は、、、

カテーテルで、
薬を直接体に届ける治療でした。

初めてカテーテル治療をした日、

痛みのあまり寝不足になり、
目にクマを作る程酷かった病状が、、、

父が笑みを浮かべる余裕が生まれるほどに
回復したのを、

今でも鮮明に思い出せます。


数日で目のクマも取れ、
1週間経つ頃には普段通り生活出来るまでに
なり、

すぐに退院できました。

家族一同、
ホッとした瞬間でした。

けれど、、、
この治療は万能ではありませんでした。

次の章で紹介します。

父の腹水

1ヶ月おきに入院する父。

回数が増えていく度、

次第に憔悴していき、

お見舞いに行っても
だんだん言葉が少なくなり、、、

無気力な様子に心を痛めていました。


最初の治療以降、、、
中々良い結果とならず、

そのうち、、、

カテーテル治療後には、

ぐったり疲れ切ったように変わっていき、

本当に回復するのだろうか、
と不安が募りました。

この時、、、

私はブラックなケーキ屋に勤めていて、
休みは月に1、2回、、、

姉は大手企業で勤めていましたが、
夜勤などあるため多忙、、、

ほとんど、
父に関しては母に一任していたので、

具体的な治療方法や経過は分かりません。

そんな私たちが、

不安を抱くような様子を
見せる父。

治療が半年余り続いた頃、

それは、、、
現れました。

腹水です。

肥満体系でもない父のお腹が、
パンパンに膨らみ、

動くのも、
ご飯を食べるのも、

とても苦しそうでした。

けれど、、、父は勇敢でした。

そんなお腹で苦しいにも関わらず、
退院すると、、、
仕事に行くのです。

私が父の日にあげた肩掛けカバンを掛け、
ゆっくり息をしながら歩行する、、、

涙が出そうな光景でした。

けれど、、、
涙はいつも我慢していました。

それは何故か?

これは、、、
家族にも内緒の、
ある隠し事が原因でした。

家族への内緒事

癌が発覚した際に、、、

家族にも言わず、
自分の心の中で
強く約束した事。

【涙を流すのは、死に別れる時だけ】

どうしても泣きそうな時は、

空を見上げて、、、
ギリギリで堪えていました。

だって、、、

もしも今、
泣いてしまったら、、、

まるで父が死んでしまう事を、
肯定してしまう気がして怖かったのです。


そして、、、

実はもう一つ、
内緒にしていたことがあります。


私の通勤途中に、
灯籠が灯る神社がありました。

朝5時台の神社はまだ暗く、

木々は暗く茂り、
中々迫力があるもの。

最初は、足がすくみました。

けれど、、、
それ以上に、
願いたくて堪らない事が
一つありました。

それは、、、

父が苦しまない様に見守ってください

と、神様にお願いする事でした。

それは、
完治を望む以上に、
大事な事でした。

完治、、、

それは治療薬がもっと強くなって、
体に作用するものに変わる事を意味します。

けれど、、、

カテーテル治療でさえ、
辛そうな様子を見せる父に、
無理はさせたくない。

ならば、望むことはただ一つ。

せめて、

少しでも苦しみが和らぐ時間があれば、、、

そう思ったのです。

出勤前に神社に参拝する。


この習慣は、、、

私がのち、

長く働くことになるケーキ屋さんへ、

再就職してからも、
絶えずずっと続けました。


そして、
毎年この神社への初詣を欠かさず、
おみくじを引くのも恒例となりました。

そうすると、、、

毎年必ず、
大吉が出るのです。

だからこそ、、、強く意識しました。

神様の存在を、、、。

そんな神社での触れ合いがあった事は、

家族には未だに内緒にしております。


父のお見舞いと職場

当時ブラックな労働条件のケーキ屋に
勤めており、

休みなんて月に3回もなく、

睡眠時間は3、4時間が当たり前の生活を
強いられていました。

お見舞いなんてほとんどいけない、、、
諦めかけていたら、、、

なんと!

店で支店を出すことが決まり、
私はそこへ派遣される様になったのです。

皮肉にもそこは、、、

父の病院があるところから、
全速力で走れば10分で着くところでした。

これは、、、
かなりの幸運でした。

なので、

休憩時間の間や、
電車で本店に帰るちょっとの間に、

ちょこちょこ顔を出せました。

父は、
突然来た私にも嫌な顔をせず、
仕事の話などを聞いたり、
ご飯の話をしたり、

また、下の売店でちょっとした軽食を
奢ってくれたり、、、

そして、
必ず最後には自販機で飲み物を買ってくれ、
「頑張れよ」と応援してくれていました。

その言葉があったからこそ、

あのブラック企業で死なずに、
やってこれたのだと思います。


耳の鼓膜が破けるほどの暴力が横行し、

睡眠不足のせいか足の指は疲労骨折、

2人いる従業員の方々から
毎日浴びせられる罵詈雑言、、、

ストレスからか、7ヶ月もの生理不順。

仕事ができないから、と、
毎月の給料から引かれる弁償代、、、

全部、、、

全部、
耐え抜いてきました。

ある日、
オーナーからこんな言葉を
言われました。

『お前が仕事ができないから、
俺、毎週〇〇病院に通ってんの。
わかる?めちゃ頑張ってんのよ、俺』

その病院とは、、、

偶然にも、
父が入院している病院と同じでした。

オーナーは昔、
神戸の有名なホテルで
シェフをしていたそう。

それだけにこだわりも強く、

ケーキはどれも美味しくて、
その面ではとても尊敬していました。

けれど、、、

この言葉を聞いた瞬間、、、
何かが、急速に冷めていきました。

私の父は、
苦しそうに動きはすれど、、、

入院中に弱音を吐いた事は、
一度もありませんでした。

ですが、、、

オーナーは、

少なくとも足を引き摺るような
重い病気ではない。

まだ半年ぐらいしかケーキに携わってない、
新人同然の私に愚痴を言い、

あまつさえ、
全く関係ない自身の体の事の
責任もなすりつける。

なんという、、、

器の差。

けれど、、、
このオーナーの存在で、

私の父がいかに尊敬できる人格で、
優しさ、慈しみを有した強い人なんだ、

という想いを、
深く認識にするに至りました。

そういう意味では、、、

出会えた事は幸運な事だったのかも
しれません。

強くて優しい父

交わす言葉は少ない。
授業参観にもほとんど来ない父でしたが、、、

買い物について行くと、
いつもこっそり何か買ってくれて、、、
(姉にも、と必ず二つでした。)

声を荒げて怒ることはほとんど、
見たことがありません。

私の専門学校の入学が決まった日、

お祝いに定期入れを買ってくれて、
帰り道にはお寿司を奢ってくれたり、、、

気遣いや優しさの塊のような、
温かい人でした。

特に忘れられないエピソードは、、、

うっかり友達と長居してしまって
終電を逃した時のこと。

手持ちも少なかったので、
タクシーも乗れず、、、

とぼとぼ何駅か歩いて帰っている時に、
父に電話したら、、、

『タクシー代出すから、家の近くまで
乗ってこい。』

と言ってくれて、

タクシー代を払ってくれたばかりか、

迎えに乗ってきたチャリの後ろに私を乗せ、
2人乗りをしてくれました。

もう20歳近いというのに、、、
情けないよなぁ、と
落ち込む私、、、

けれど、
怒る言葉は、、、

一つもありませんでした。

きっと重いだろうに、、、。

お腹周り、
なんだかどっしりしたなぁ、、、。

いろんな思いを抱いて、
父の腰に手を回し、


しっかり掴まって揺られながら、


この瞬間をとても楽しいと感じた、、、


まだ肌寒い2月のシンとした空気。


あの時の時間は、

いまでも私の中で色褪せず、
昨日の事のように鮮やかに蘇ります。

私の11月の誕生日に、、、

そうして2010年から続いた治療も、
そろそろ一年経つといった頃、、、

2011年11月、
私の誕生日の日。


当時、

お付き合いしていた主人と、
八王子市の高尾山に登っていました。

家族旅行で何度も登った場所に、
主人と一緒に行きたいと思い、
計画したのです。

レストランでサプライズなどもしてくれて、
ホクホク温かい気持ちで帰っていたら、、、

夜道、
突然、一本の電話がかかって来ました。

、、、父からでした。

消灯時間はとうに過ぎておりました。

本当はルール違反ではありますが、、、

けれど、
出掛けてることを考慮して、
遅くにかけてくれたのでしょう。

『どうしたの?』と聞くと、、、

父の第一声は、、、

お誕生日、おめでとう
でした。

不意の言葉に、
涙が溢れ落ちるのをグッと堪えました。

小さい頃から、

誕生日には必ず父が腕によりを掛け、
ご馳走を作ってくれていました。

綺麗なフルーツカット盛りに、
1から手作りの唐揚げ、
錦糸卵を乗せたちらし寿司、

それが、我が家の定番。

けれど、
今年は入院と被って、
作ることができない。

なので、
せめて電話だけでも、、、

と掛けてくれたのだと、言いました。

声を震わせないように注意しながら、

何度も、

ありがとう、ありがとうね、、、

とお礼を伝えたのを覚えております。


この頃には、
ブラックのケーキ屋さんを辞めて、
別のケーキ屋さんに就職しておりました。

前回とは違い、
オーナーやスタッフも優しく、
とても働きやすかったです。

しかし、、、

まだ慣れない新しい環境の中、
クリスマス前の目の回るような忙しさに
参っていた部分もありました。

ですが、

この父の電話で、
後ろ向きだった気持ちが、
一気に前向きになったのです。

そうして迎えた12月、、、
ケーキ屋さんの正念場に、

父との別れが訪れます。

父の危篤の報せ


12月半ば。
クリスマス前の最後の休み、、、

その日は、
たまたま母も仕事が休みでした。

午前中、
母は買い物に出かけ、

私は用事を済ませに自転車に乗って駅に
向かう途中でした。

その道中、、、

先程、
買い物に出たはずの母が、

自転車でこちらに走ってくる。
、、、かなりの速さで。

買い物を終えるにはまだ早く、
何より、、、

その表情はとても
切羽詰まっている表情でした。

嫌な予感を覚えました。

私のところに辿り着くや否や、、、

『パパ、危篤だって❗️
早く病院に来てくださいって言われた。』


一瞬、頭が真っ白になりました。

けれど、、、
ショックは受けませんでした。


腹水を見たあたりから、
薄々勘づいていました。

父は治らないのだと、、、

だから、せめて共に過ごす時間は、
1分、1秒でも大切に、穏やかに、、、

そう常々願っていました。


なので、私の頭を占めていたのは
ただ一つ、、、

あぁ、ついに来たか、、、

でした。


母も、冷静でした。

すぐに出勤していた姉に連絡して、

その後呼んだタクシーに乗り込み、
私と病院へ向かいました。

駆けつけると、
すぐに病室に案内され、、、

そこで、
苦しそうに呼吸する父と対面しました。

個室ではなく、相部屋だったのですが、
父のところへお医者さん、看護師さんが
慌ただしく行き交い、

最初は声をかけるどころか、
近づくことさえできませんでした。


やっと一波が過ぎ、
母と私で近づけたのは、
随分経ってからでした。

大丈夫❓と2人で声をかけると、

『足が痛くて、、、
悪いんだけど、さすってくれるか❓』

こんな風に頼まれるのは
初めてでした。

私は、懸命にさすりました。
右足、左足、、、

また、右足、左足と、、、

けれど痛みは去るどころか、
ますます強くなるようで、

ずっと苦しそうに喘ぐ父。

そうしているうちに、
主治医の先生に別室に呼ばれました。

それは、、、

看取りについて、でした。


父の看取りについて

小さな面談部屋に、

主治医の先生、
よく問診していた、
まだ年若い先生と、

私と母の4人が、
向かい合う形で座っていました。

まず最初に言われたのは、

このまま何もしなければ、

父が亡くなる、

という話でした。

ずっと覚悟はしていましたが、
それはガンっと頭を殴られたような衝撃で、
頭がジンジンと重たくなっていきました。

そこに姉の姿はありません。
仕事先からまだ戻っていなかったからです。

心細い中、
母と2人で聞いていました。

更に、延命についての話が
続きました。


このまま痛み止めや薬を投与しながら、
命を繋ぐことは出来る。

けれど、、、
それでも1週間生きられるか、、、
というライン。

また、、、
よくテレビとかで見かける、
心臓マッサージ。

あれは実は、

多用すればするほど
肋骨がバキバキに折れ、、、

『マッサージ』というイメージから
かけ離れた処置なのだと、

そういう話もされました。

つまり、、、
延命とは、

父の苦しみを長引かせるばかりか、
更に心臓マッサージで苦しみを増幅し、

その状態で、
1週間だけ命を延ばす、、、

父に、長い苦しみを与える。

それは、、、

かなり酷い仕打ちなのではないか?

ここで、
母と私の気持ちは一致しました。


延命はしない。

このまま看取る。

覚悟が決まった瞬間でした。

主治医の方も、

少しホッとした顔つきに
なったように見えました。

お医者さんは、
私たちには想像もつかない数の
死に立ち会っているはずです。

その中で延命、という選択を
された患者さんもいらっしゃるでしょう。

その中で見た過酷さも、
恐らく知っているのだと思います。

だから、、、
脅しでもなく、

ただ真実を語ってくれたんだと思います。


そのあと、、、

看取りについて、説明されました。

父は現在も相当苦しんでいるので、

モルヒネを打ち、
痛みを和らげてあげて看取る

という、選択肢もあると。

ただ、、、
モルヒネを使うと、

脳も麻痺状態になる為、
一切言葉は交わせなくなる。

そのことを承知の上で選択して下さい、
とのことでした。

これには、、、
悩みました。

言葉を交わせなくなる。

それは最後の言葉が聞けなくなる、
だけではなく、

父から言葉を奪う

ということにも繋がっています。

躊躇いを覚えました。

けれど、
苦しみを除く選択肢があるなら、、、

やはり、、、
安らかに眠らせてあげたい。

そう思いました。
母も同じ意見でした。

方針が決まったら、

この先の流れの説明、
そしてモルヒネ使用の同意書、
また、様々な書類にサインして、、、

なにかあったら、
すぐ呼びに来てくれるとのことで、

ひとまず、、、
ロビーで待機することになりました。



お昼も大分過ぎており、
看取る、という覚悟も決まり、、、

急にお腹が空いてきました。

ここで姉も合流し、

病院の売店で買ったものを、
3人でもぐもぐ食べたのを覚えています。


それから程なくして、、、

午後4時を過ぎた頃。
看護師さんに呼ばれたのです。

父の最期が迫っていると、、、


父の命の灯火

そこは、個室でした。

病院側が、
看取るために、
無償で用意してくれたのです。

色々なチューブや機械に繋がれて、
父は静かに横になっていました。

目は開いていましたが、

私たちが入っても、
天井をずっと見ているばかりでした。


モルヒネの効果で、
麻痺していたからでしょう。

けれど、、、
苦しみからは解放されているようでした。


心拍を告げるモニター音が、



ゆっくり、、、


ゆっくり鳴っています。

父の胸も、
静かに上下していました。

看取りとは、、、

こんなに静かで落ち着いてるものなんだ、と、
心の中で驚きを感じました。


しかし、時間が経つと、
心拍のモニター音の間隔がどんどん
広がっていき、

胸の上下の間隔も空いてきました。

その時、
主治医の方が初めて
口を開きました。

『もうそろそろ旅立たれます。
何か、、、
最期に、言葉をかけてあげて下さい。』


そう、
もう10年以上前になりますが、

この時、

、ではなく、
言葉をかけて

と言われたことを、
ハッキリと覚えています。

これが引き金となり、、、

家族全員が思いの丈を
言葉に込めて、

みんな小さな子供のように
涙をボロボロ流しながら、

たくさん、、、たくさん、
最後の1秒まで、

父に語りかけました。


3人とも、

話す言葉や想いは、
それぞれに違いましたが、、、

共通していたのは、、、

父を愛している

といった点でした。


私が話したのは、

自分のケーキ屋さんの夢は、、、

父の料理人という背中に
憧れていたから、

という話でした。

うちはドが付くほどの貧乏でしたが、
食事の記憶だけは、

キラキラ輝いています。


父が家で披露してくれた料理の数々、、、

食事の時間は、
幸せと繋がっていました。

特に、
誕生日の日はご馳走が並び、
特別に大好きでした。

だから、、、
私は誕生日をお祝いするときに欠かせない、
ケーキ作りをする、、、

ケーキ屋さんになろうと決めたのです。


この話は、
照れ臭くて、今まで、、、
ずっと言えたことがありませんでした。

主治医の先生の言葉が、、、
私の気持ちを引き出してくれたのです。

以前、
臨死体験した方の記述を目にしたのですが、
人が死ぬ時最後まで残るのは、、、


聴覚なのだそうです。

それを知った時、
私はたくさん泣いてしまいました。

あの時、
思い思いに発した家族の言葉は、

きっと父には届いていたんだと、、、

嬉しくて、
嬉しくて、、、

感謝が胸いっぱいに溢れて、
涙が止まらなくなりました。


父は、、、
最期までずっと遠くを見ていました。

その眼は力強く、

まだ生きてやるぞ、という
父の強い意志を感じられました。

そして、最後の呼吸が止み、


心拍計がピーッとうるさくなる間も、



その瞳は揺らぐこともなく、、、


ずっと前を見続けていました。


父が亡くなったと分かった直後、

母の甲高く泣いた声が未だに
脳裏に焼き付いてます。

私は、
その母の声で、

あぁ、父は亡くなってしまったんだ、、、

とようやく気づきました。

そのぐらい父の瞳に引き込まれて
しまったのです。

確かに、、、

命の灯火は、
そこでフッと消えたはずなのに、、、

意志や想いは、
以前よりありありと鮮明に、、、

私の心の中に存在していました。


父の看取りの後悔

これが、私たちの父の看取りです。

東日本大震災の年に、

61歳で亡くなりました。

なので、
テレビで、
震災から何年経ちました、と聞くと、、、

父が生きてたら何歳だなぁと、
つい、考えてしまいます。


人の数だけ、
様々な看取りがあると思います。

看取る事が出来なかった、
という方もたくさんいらっしゃる事でしょう。


ただ、、、

私たちは大変幸運なことに、
看取る、という選択肢を持つ事ができました。

父はステージ3から始まって、
最後はステージ4にまで達しておりました。

主治医の先生から最後に伺ったのは、、、

父は年内に帰るために、
家族に内緒で、
治療の調整をしていたそうです。

そんなサプライズを企てていたんだ、
とくすりと笑ってしまうのと同時に、

心がじんわりと温かくなります。

父らしいな、と。

そして、、、
そんな父の愛に包まれて大人に
なれたことをとても嬉しく思いますし、

最期まで生きることを諦めなかった父を、
誇りに思います。

今でも、
何が最善で、、、

じっくり考えられる時間があったら
どうしていたのか、、、

考える時はあります。

けれど、
後悔はありません。

あの時、

父を苦しみから解放できた、、、


その結果だけが、
私の胸には残っています。


父と繋がる


そして、
父は亡くなりましたが、

現在も、
意志や想いは繋がれています。


人は、
亡くなると、、、

無くなる、のではなく、

より強く、、、
繋がれる、のではないのでしょうか?


私は父に言葉をかけている間、
本音で話せました。

高校生の時、

父と大喧嘩して以来ほぼ口を利かず、
お見舞いも一度しか来なかった姉は、、、

最後まで謝れなくてごめん、と泣いてました。


癌が発覚する以前、離婚だよ!って、
毎日言い続けていた母は、、、

たくさんのありがとうを伝えていました。

その経験をして、
心がける事が一つできました。


ごめんね、

好き、

ありがとうは、、、

すぐに伝える。

喧嘩して嫌な気持ちは、ごめんね、と
なるべく早く手放す。

どんなに小っ恥ずかしくても、
相手に好きとちゃんと伝える。

小さなことでも、
きちんと、ありがとうを伝える。

この3つを心がけています。

なぜならば、、、

大切な人を大切に扱う事は、
決して、、、無駄な事ではないから。


亡くなった後に繋がりは、
より強くなる。

けれど、、、
それって、

生きている間にもたくさん出来るんです。

どうせなら、
相手の笑顔をたくさん溜め込んで、
さよならしたい。


それが私の信念なのです。


父の最期を看取って

父が亡くなってから、

結婚、出産など
様々なステージを経て、

たくさんの悩み、
苦しみ、、、
そして、

葛藤がありました。

そんな最中思い浮かべるのは、、、

やはり、
父の看取りの光景です


あの時、

懸命に生きようとしていた、
父の瞳に勇気をもらい、、、

私にはまだ頑張れる体がついてるんだから、
前向こうよ、
と、

一歩踏み出し、

ペシャンコにならず、

また歩み出す。


この8年余りは何度も何度も、、、

その繰り返しでした。


私の場合、

父は亡くなりましたが、、、
より身近に感じられるようになりました。


だから、、、

人は、亡くなって終わりではありません。

その先もきちんと心に寄り添い、
繋がってくれています。

別れを惜しむ、、、

という言葉がありますが、

それは死の瞬間だけでいい。


その先は、、、

心に、魂に宿して、、、

再び、共に歩んでいくのです。

長い記事となりましたが、
これが、
私が看取る中で得た答えです。

先に語ったように、
様々な看取りがあります。

看取れなかった人もいるでしょう。

ですが、
どんな別れの形であれ、、、

大切な人との思い出や出来事は、
消失する事なく心にあります。


そのことを忘れずに、

今を、、、

そして、その先を生きて欲しいと
切に願います。

長文となりましたが、
最後までご覧頂きありがとうございます。

是非、皆様の大切な人達に、
たくさんの笑顔が訪れるよう、、、
心から祈っております。



#創作大賞2023 #エッセイ部門

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