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あの日から10年。

今日は東日本大震災について書くべきだろう。

そうは思いつつ何をどう書こうか探り探りなまま時間は過ぎ、あっという間にこの時間になってしまった。

14時46分、1分間の黙祷。


そして気づいたら夜。

明日になる前に、節目として探り探りでも書いていこうと思います。


あの日。10年前のあの日。

私は東北の秋田県にいました。

日本海側とはいえ体験したことのない揺れ方・大きさでした。なのに、やけに冷静だったことを今でも覚えています。

あの日は自宅にいました。

本来ならスキー場にいるはずでした。なのに自宅にいたのは理由があって、それは尾てい骨にヒビが入っていたから。

1ヶ月ほど前にスノーボードで怪我をしてしまい、でも軽いヒビだったので仕事に行きつつ休みの日は自宅療養を続け、そろそろ復活してもいいかな……とスノーボード復帰を予定してたのが3月11日。

でも前日に「まだちょっと不安だから、ボード復帰は次回にしよう」と予定を変更して11日は1人で自宅にいることに。

そして、揺れた。


驚いたのが、お風呂場からジャッパジャッパと水の音がしていたこと。

地震の揺れよりその音に驚いて慌てて様子を見にいくと、浴槽内の水が見たことない揺れ方で外に飛び出していました。

「これはやばい」

急いでキッチンに向かい、天井近くまである食器棚の扉を体全体で抑え、左足で母親が育てている観葉植物の鉢植えを抑えました。

少しの痛みを尾骨に感じながらもこの体制のまま、揺れがおさまるのをじっと待ちました。

で、その後。

同居している母親に電話するも携帯はつながらない。とりあえずテレビ!とリモコンを操作するもビクともしない。

停電。

電気がないとテレビはもちろん、ストーブも使えない。まだまだ寒い東北の3月。果たしてどうしたものか……。

あ!と閃きました。車のガソリン満タンだ!

元々は山に行く予定だった今日。ガソリンを満タンにしていたことに気づきました。車だったら暖房が効くし、ラジオもテレビも見れる!そこで情報収集しながら母親からの連絡を待とう。

そう思って家を出たとき。近所のおばさんの悲鳴に似た声が聞こえた。

「じゅ、10mの津波くるってーーー!」



その後のことはところどころしか覚えていない。

帰ってきた母親から市内の交通が麻痺している(停電によって信号が機能していない)ことを聞いたり、2人で買い出しにいったコンビニに客が殺到して喧嘩が勃発していたり、なんとか買えたカップラーメンを暗い部屋ですすりながら母親の携帯でワンセグTVを見たり。

暗い部屋のなかで毛布に包まりながら、炎しか見当たらない太平洋側沿岸部の中継をただただ見てた。

現実感が全くない世界。この暗闇の中の炎は、なんだ?


現実感は翌日さらになくなった。

私のいた地域は震度5強。最大震度7・マグニチュード9の大地震。

ラジオから流れる被害状況。海岸に打ち上げられた遺体の報告ばかりが流れてくる。

停電が復活して安心したのもつかの間、テレビで流れる光景は見るに絶えず言葉を失った。

でも、それしかなかった。

テレビもラジオも震災のことばかり。仕事はしばらく休業。余震も続くなか、家にいるしかない私は震災と向き合うことしかできなかった。

私は揺れただけ、停電しただけですんだけれど、心が苦しい日々だった。


あれから10年。当時の映像を見ると当時と同じように心が痛みます。

と同時に、人間は弱いけど強いな、とも思います。

命は簡単になくなってしまう。でも、それでも人間は強いと思います。

だからこそ”あれから10年”と言えるのだと思うから。



生きたかった人たちの分も、まだまだ生きるはずだった人たちの分も前を向いて生きていきたいと勝手ながら思っています。

そう思って歩んできた10年だったけど、今の自分を振り返るとまだまだ未熟だなと感じています。

こんな自問自答を朝から繰り返して結構疲れてしまいましたが、今日はもう少し10年前に思いを馳せてから寝ようと思います。

東日本大震災を忘れたくないので。

それが、私の10年。

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