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トワイライト・イン・パリ ~ぼくと画伯の憂鬱な夕暮れ~

パリの街を、青い夜が覆いはじめた。ガス灯が灯り、灰色の石畳に黄色の光をおとす。岸辺に打ち寄せるセーヌ川の水音も静かな夜を歓迎しているようだ。

長期休暇でパリに来て数日。ぼくは、たそがれどきのパリが一番気に入っていた。

川のほとりのカフェ、テラス席。

雨上がりの空気を吸い込んで、一人、旅の夕暮れを満喫していた。

カーン、カーンと、どこかで鐘の音がする。

―――――

ふと、隣に、髭面の男が腰かけていることに気が付いた。

こけた頬を、伸びた髭が覆っている。落ちくぼんだ目は、深い緑色。上半身を揺らしながら、時折ぎょろぎょろと瞳を揺らす。着古したコートからは油の匂いがした。

(浮浪者では、なさそうだけど)

髭面の男はウエイターを呼び止めて、コーヒーを注文する。時折、ぼそぼそつぶやきながら、小脇に抱えたキャンバスらしきものに、なにやらかき始めた。

サッサッと木炭が動くたびに、どんどん川辺の風景が浮かび上がっていく。

(わ…)

ぼくは絵画鑑賞が好きだ。天才たちが描いた線や色遣いを見ていると、ひれ伏したいような気持になることがある。

不審な髭面の男の絵は、なぜかぼくをそんな気持ちにさせた。

―――――

どれくらい時間がたったのだろう。夕暮れは終わり、夜が訪れていた。

周囲を見渡すと、ウエイターやほかの客がこっちを伺っている。無心に絵を書く男を見ているのだろうか。

(ん…)

何か違和感がある。客の服装がおかしい。古臭いというか、クラシカルというか。女性も髪を結い、帽子をかぶっている。さっきまで、マックブックを開きスマートフォンで電話していた人は、どこに行ったのだろうか。

それに、ウワサの対象になっているのは、髭面の男だけではないようだ。ぼくの髪形や服に刺さる視線をいくつか見つけ、慌てて席を立った。

レジに向かう。

ぼくが出したユーロ紙幣を、ウエイターが宙にかかげるように透かした。

「この紙、金なのか?」

「え」

「パリで使えるのはフランだよ」

田舎者が、とでも言うようにフンと鼻で笑った。その時、奥で怒鳴り声がした。髭面の男だ。

「そんなはずはない!」

「で、でも」

男の剣幕に、別のウエイターが怖気づいている。

「だって、金額がぜんぜん足りません」

「なんだと!」

こぶしを振り上げた男に向かって、ウエイターはおびえた声をあげた。

「警察を呼びますよ!」

そのあとの、男の動きの速いこと。今まで挙動不審が嘘のように、脱兎のごとく駆け出す。ぼくの横を通り過ぎるとき、男が小脇に抱えたキャンバスを落とした。

「あ!」

思わず拾い上げ、あと追う。

「おい!おまえもグルか!」

そう叫ばれ、一瞬振り返るが、ぼくの足は男を追いかけるほうを選んだ。食い逃げだ!という怒号が夜の街に響く。乗り掛かった舟。ぼくは薄汚れたコートの背中を懸命に追いかけた。

―――――

小さい路地をいくつも抜け、橋のたもと。やっと男に追いついた。二人とも息が切れて、なかなか言葉が出ない。何度か大きく息を吐き、ぼくは小さなキャンバスを差し出した。

「こ、これ…」

「ああ」

男は目も合わせず、礼も言わず、キャンバスを受け取る。

(失礼な人)

その時、キャンバスの端に、見たことのあるサインがあることに気が付いた。信じられない。でも、確かに。

「あの、名前を教えていただけますか」

男は珍しいものでも見るような目で、ぼくの顔をみた。それから、吐き捨てるようにこう言った。

「フィンセントだ。フィンセント・ファン・ゴッホ」

―――――

ゴッホ。

世界に知らない人はいない天才画家。「ひまわり」「星月夜」。彼の絵を見たことがない人はいないだろう。

(そんな)

混乱する頭を整理するように、ぼくは夕暮れから今までのことを振り返ってみた。クラシカルなお客たち。消えたマックブック、スマートフォン。使えないユーロ。

(まさか)

ぼくは、2018年から、ゴッホが暮らした1886年のパリに、タイムスリップしてしまったのだ。

(あるわけないだろ、映画じゃないんだから)

ぼくの理性はそう言うが、一方で納得している自分がいた。髭面の男の絵は、強い力でぼくを引き付けた。美術館でゴッホの絵を見るときのように。

―――――

「お前は」

呆けていると、ゴッホに名前を聞かれた。ゴッホに。なんだろう、この天にも上るような気持ちは。

「林です。林要」

「ハヤシ」

偉大な画伯の声が、ぼくの名前を呼んだ。その奇跡を静かにかみしめる。

「ハヤシはフランス人ではないな」

「はい、日本からきました」

「ニホン!」

ゴッホはそう叫ぶと、興奮したように立ち上がってぼくを見下ろした。

「ウキヨエ!」

1886年から1888年。パリ時代と呼ばれるこの2年間は、ゴッホにとって刺激の月日だった。彼を蝕んだ梅毒や精神病は、まだそれほど深刻ではない。ゴーギャンや新印象派の画家たちと出会い、さまざまな画風を試しながら、成熟期へと向かう日々を過ごした。浮世絵にのめりこみ、取り入れるようになったのもこの頃だ。

ぼくは絵画が好きだ。だけど画家の周辺状況を研究するタイプではない。それでもあまりに有名なゴッホのパリ時代。元の時代に戻れるのか、宿はどうするのか。そんな不安もゴッホの前では些末な事象にすぎない。

浮世絵のこと、日本の風景のこと。矢継ぎ早に聞きたがるゴッホの質問に答えながら、ぼくはこの、少しおかしい画伯との会話を楽しんでいた。

「夜は青いと思わないか」

ゴッホはそう言って、空を見上げた。

「ガス灯は黄色だが、川面の灯は朽葉色…、いや緑がかったブロンズ色か」

2018年と比べれば、街の明かりも少ない。星座が見える。

「大熊座はピンク色にしよう」

「最近はどんな絵を書いているのですか」

「つまらないものだ」

ゴッホは急に低い声になってそう言った。たしか、この頃通っていた画塾は、学ぶことがないと数か月で退学していたはずだ。アカデミズムを皮肉ったこの時期の絵を、何枚か見た。

「たしか、髑髏。骸骨、とか…」

思わずそう呟くと、ゴッホは眉をしかめて、ぼくの目をじっとみた。

「ハヤシが、なぜそれを知っている」

不審の眼差しが、徐々に警戒の色を帯びてきた。

(しまった…)

ゴッホは生前名もない貧乏画家だった。突然現れた日本人が、彼の絵について知っているはずがない。どうやってごまかそうか考えを巡らしていると、闇を切り裂くように高い笛の音がした。

「警官だ!」

ゴッホが叫び、走り出した。ぼくも追う。後ろから警官が何か言いながら追ってくる。一心に走るが、コケが生え、ぬかるんだ川辺の道に何度も足をとられそうになった。前を行くゴッホが、急に右にそれた。無人の舟に飛び移ろうとしている、と分かったが、身体が付いていかない。足がもつれ、ぼくは暗いセーヌ川に落ちた。

「ハヤシ!」

ゴッホがこっちに手を伸ばす。必死にもがいて、もう少しというところで、頭を殴られたような衝撃を覚え、ぼくは水に沈んだ。

絵具に染まったゴッホの指先。鮮やかな黄色が瞼の裏に残った。

―――――

気が付くと、元いたパリのカフェだった。通り過ぎる車のクラクション。鳴り響くスマートフォン。

ぼくは狐につつまれたような気持ちのまま、ユーロ紙幣でコーヒー代を払い、並木道に出た。画廊のショーウィンドウに「星月夜」のポスターが貼ってある。ゴッホはパリから離れたのち、糸杉や渦巻く夜空で知られるこの絵を精神病院で描いた。1889年のことだ。

さっき隣にいたゴッホから、たった3年。ゴッホは売れない画家のままこの世を去った。

(いつか、自分の手で、ゴッホの展覧会を開こう)

セーヌ川を一心にスケッチしていたあの画伯の姿を、心の片隅にそっと仕舞い、ぼくはそう決心した。

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