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◇1. 初めての仕事


「図書館司書とか向いてるんじゃない?」

そんなデンマーク人の友人の軽いひとことを重く重く受け止めたわたしは、娘がまだお腹にいたある夏の暑い日に、王立図書館大学へ入学願書を提出した。締め切り2日前だった。デンマーク人の夫と結婚しデンマークで暮らすと決めたものの、どうやって生活していけば良いんだろうと悩んでいたから、ただただ仕事につながる資格がほしくて、そしてできることならデンマーク人のなかで仕事がしてみたいという思いもあって、当時のわたしはとにかく藁にもすがる思いだった。

8月の入学が決まってからは、日々外国語の文献を読んで予習し、授業に出席し、グループワークやレポートを書く日々。20歳前後の学生に混じって毎日毎日、授業に出て内容を理解するだけでもう精一杯。半年後に娘を出産し1年ほどの育児休暇を経て復帰してからは、娘を育てながらの予習、レポートで大わらわだった。今振り返ってもあまり記憶がない。

それでも、自分は本当にこの国で仕事に就けるんだろうかと、在学中は常に不安だった。それはこの国で暮らしていく以上、何らかの仕事に就かなければならないというプレッシャーがいつもあったから。外国人だからとか、小さな子どもを育てているからとか、ましてや女だからとか、そんなことは一切関係ないのがデンマーク。医療、教育、社会システムの多くが税金で賄われている以上、だれもが貢献するのがデフォルトの社会だ。移民でも、この国の若者たちに混じって大学に無料で入学できるのは、その後社会に税金を納めてお返しすることが見込まれているから。だから2009年のある日、夫の従妹ハンネから、近くの図書館でプロジェクトを手伝ってくれる人を探しているよと聞いたときは、嬉々として話を聞きに行った。

初めての仕事

娘を保育園に預けた後、自転車に乗って15分ほどの図書館へ。ここは以前からたびたび利用しているところでもある。小さいけれど必要なものはだいたいそろっていて、お知らせボードには地域のイベントを知らせるカラフルなチラシが所せましと張られている、そんな生き生きしたエネルギーを感じる場所だ。移民の多い地域でもあり、デンマーク語だけでなく、アラビア語、ソマリア語、ペルシャ語など、さまざまな言語の本もある。

そんな街の図書館で、そこで働くハンネから少し話を聞かせてもらうつもりで来たのだけれど、通されたのは館長の部屋だった。

「ああ、あなたね」そう言うと、すらっと背の高い女性館長は、この図書館のある地区について、そして取り組んでいるさまざまなプロジェクトについて話し始めた。なぜこんなに丁寧に見ず知らずのわたしに図書館事情を話してくれるんだろう…?そう思いながら話を聞いていると、次第に話題は新しいプロジェクトの話へと移っていく。そして、それをわたしがやるんだなということが少しずつ明らかになってきた。

え…?これはもう採用ってことなの?
履歴書さえ準備してきてないけど…!?

心の中では戸惑いつつも、この図書館でもし本当に働けるのならこんなに嬉しいことはないな!!とわくわくしてきた。

始まりはBOOKSTARTプロジェクト

担当することになったのは、国のパイロットプロジェクトBOOK START。しかもそれをたったひとりで進めていくのだそうだ・・・?!え、未経験の外国人にいきなり丸投げ?!それでいいのか…??とさすがに驚いたけれど、図書館内には同じようなプロジェクトをやってきた先輩たちがいると聞き、アドバイスをもらいながらたくさん学ばせてもらおうと即決。そんな感じでわたしの図書館での初仕事が始まった。

担当することになったプロジェクトは、同年、デンマーク全土の公共図書館で取り組まれることになったBOOK STARTというもの。1990年代にイギリスで始められたこの取り組みは、現在、日本でも広く行われていると聞く。イギリスでは、保健機関、公共図書館と大学が協力して始めた活動で、就学前の子どもが家庭で日常的に絵本を読んでもらう体験が、就学後の学習をスムーズにするという考えから始められたそうだ。日本でも図書館や保健所などと連携して、小さな赤ちゃんのいるご家族に絵本を提供していると聞いたことがある。デンマークでは、このプロジェクトは統合政策(インテグレーション)、つまりデンマークに暮らす外国人である移民、難民出身者が、デンマーク語の絵本を幼い子どもに読み聞かせることを通して、大人も子どもも社会に少しでも早く溶け込むことを目的としていた。そんな理由から、対象は国が指定する社会・経済的に困難のある家庭、EU外の国籍者が多く暮らす地域に限定され、わたしを採用してくれた図書館の近くにもその指定地区があった。

具体的な業務内容はこうだ。国に指定された地区の中から、生後6か月、12か月、15か月の子どもがいる家庭を市のデータベースから探し出し、各家庭に訪問する日時を記入しハガキを送る。そして訪問日には絵本の入ったバッグをもって家庭訪問し、絵本の読み聞かせについて、その意義、そして図書館の役割などについて話をする。3歳の子どもたちには保育園を通じて大きなボックスに入った絵本をプレゼントする。そのために保育園とも連携しなければならなかった。

「家庭訪問するお宅の中には、玄関先でさっさと切り上げたい人もいれば、家にどうぞと迎えてくれる人もいる。家に入れてくれるときはたいていお茶やお菓子がたくさん用意されているから、遠慮なくいただいて、あれこれゆっくりおしゃべりしてくればいいんだよ。」

初めて出勤した日、別の地域プロジェクトを担当している先輩司書ギッテは、そう言いながら市の職員用のデータベースを立ち上げた。「ここに出生年と月を入力して検索すれば、どこの住所にいつ訪問すれば良いかがわかるから」そう言うと、ギッテはその使い方と注意事項を淡々と説明していく。

「知らない人の家に上がってお茶を飲みながら話をするのかぁ、そんなことできるかなぁ」ぼんやり考えながらも、ギッテの話が終わるとすぐにわたしは家庭訪問先を検索し始めた。6か月と1歳になる年月を入力し、近々どこのお宅を訪問すれば良いのかを調べる。するとそこには家族構成や親の国籍、いつからデンマークに在住しているのか、だれといつ結婚し、いつ離婚したのかといったさまざまな個人情報が登録されていた。もちろん、データベースは仕事以外の目的で使用してはいけない。興味本位で知り合いの名前などを入力するのは禁止だ。王立病院で働く人が、ニュースで話題になったある人のカルテを興味本位で検索し首が飛んだという話もある。データを扱うのは慎重にしなくちゃいけない。

訪問先を探し出すと、今度は保護者宛てにハガキを送る。「一週間後の〇月〇日に訪問しますので、ご不在の場合はXXまでご連絡ください」そう手書きすると、BOOK STARTのロゴ付きのハガキをポストに投函する。そして一週間後には大きなロゴのついた黄色いバッグを肩からぶら下げて、指定された市営住宅に向かうのだ。

外国人地区へようこそ

こうしてわたしのBOOK STARTの仕事が始まった。
初めての訪問日はとにかくカチンコチンに緊張していた。なんせ知らない家庭を訪問して、自らあれこれ話さなくてはいけないのだ。いきなり一人でできるだろうか、そもそも知らない人の家に(ほぼ)突撃のように訪問するなんて正直あまり気も進まなかった。でも行かない選択肢はない。とにかくやるしかない!同じような入り口が続く建物の前を歩きながら、訪問先のお宅を探し歩いた。

やっと目的の住所を見つけると、まずは深呼吸。そしてドキドキしながらアパートの入り口にあるインターフォンを押す。「玄関先で話すだけならこれだけは言おう」「もし家の中に入れてもらえたら自分のことも話そうかな」そんなことを考えながら、喉の調子を整える。

しばらくすると、"HALLO?" という低い声。ドキっとしながら少し上ずった声で「図書館から来ましたっ!」と言ってみる。すぐに建物に入れるだろうとドアノブに手をかけた途端、その低い声の主は大きな声で叫んだ。

「何だって、図書館?はぁ?!そんなもん頼んでないわ!!とっとと帰れ!二度と来るな!消えろ!!!」


呆然と立ち尽くす。

え…、こ、こんな仕打ち…?予定してなかったんだけど…(涙)

ギッテの話を聞いていた限り、もっと穏やかな時間になるものだと思っていたものだから、大きなパンチを食らってわたしはクラクラした。

しばらくは言葉も出ず、ただただ驚きと少しの恐怖さえ感じた。でも今この感情に留まっていてはいけない、このタイミングで悲しくなってはいけない、まだもう一軒行かなくちゃいけないんだしと気を取り戻す。次行こう。今日はもうひとつ行けば終りだから、その後に今あったことを振り返ればいいんだと気持ちを落ち着かせる。


最初のお宅に15分ぐらいはいるかなと楽天的に予定を立てていたから、思わず余白の時間ができてしまい少しぼーっとしながらも、改めて2軒目の訪問先を探す。そのお宅はすぐに見つかった。今度こそ、怒鳴られませんように…と祈るような思いでインターフォンを押す。

返事がない。怖いな…と思いながら、もう一度押してみる。それでも返事はない。しばらく待ってみて、またもう一回押してみた。けれど結局誰も出ては来なかった。

後に分かったことだが、ハガキ一枚をペラっと送ったぐらいでは、訪問を忘れられることも多のだそうだ。たしかに水道管の工事やエアコンの修理などと違い、頼んだから来てくれるありがたい存在ではない。こちらが勝手に来ると言ってるだけ。そもそもその日いないんだけど?と思いながらハガキをポイっと捨ててしまう人もいるかもしれない。

さらに驚いたのが、届いたハガキを郵便受けの広告と一緒に目を通すことさえなく捨てる人もいるのだとか。えーっ!それって飛び込み営業と一緒やん!そんなん無理無理!とパニック気味になっているわたしを見てギッテが言う。

「根気強くやるのよ。この仕事は信頼関係を築いていない、まったく見ず知らずの人が自宅に訪ねて来るっていう、相手側の立場も考えないといけないの。家で待っていてくれたら万々歳。だって図書館の人が勝手に来るって言ってるだけなんだから。しかもかれらのプライベートな領域にね。無視されたり拒まれることも込みで辛抱強く、人として真摯に接していくしかない。しばらく続けていけば、近所であなたの訪問が話題になって、あまり警戒されなくなるから。ね、頑張って!」

頑張ってと言われても、始まりからトラウマ級の体験なんですけど…、と思っていたのが顔に出たのか、ギッテはわたしを見て少し笑いながら付け加えた。

「それにしても、始めからけっこうキツイ歓迎をうけたねぇ。でも落ち込まないで。ほんとに色んな人がいるから。日々辛い暮らしをしている人もいる。そこに公の施設から人が訪ねてきたら、監視されているのかもと身構える人もいるかもしれない。とにかく、個人的に捉える必要はないの。図書館として訪問してるだけなんだから。」

〔赤ちゃんのいる家庭に絵本を届ける〕なんて、すごく希望にあふれたプロジェクトだなぁとのんきにかまえていたけれど、実は複雑な感情も込みな仕事なのだと知る。ひー、これって結構大変じゃない?わたしはこのプロジェクトの〔赤ちゃんと絵本を通して大切な時間を過ごしてくださいね〕なんていう愛あるメッセージを届けることはできるんだろうか。バッグに入った絵本を手渡せる日は本当にくるんだろうか。グルグルとそんなことを考えながら、その日は図書館をあとにしたのだった。


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