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◇13. わたしは外国人

捨てる神あれば拾う神あり、とはこのことか。1年9か月働いた公共図書館と突然お別れをすることになり、年明けからは図書館近くの公立学校で働くこととなった。

少しだけ、デンマークの学校制度のことを書いてみよう。ここの子どもたちは、6歳になる年に義務教育学校に入学する。最初の学年は幼稚園学級。通称「0年生」と呼ばれ、国語と算数を少し学びながら、それまでの幼稚園での自由な生活から、授業と休み時間という区切りのある生活に慣れるための学年だ。1年かけてゆっくり慣らすのがデンマーク式。1年生になると数年間は同じクラス編成のまま担任の先生も同じで学年を重ねていく。義務教育は9年生(日本の中学3年生に相当)までの10年間。その後は高校に進学する子ども、職業教育系の学校へ進む子ども、10年生という選択制の学年でもう少し学んでから将来を決める子もいれば、エフタスコーレという寄宿制の学校で1年勉強したり、スポーツや芸術、音楽などを楽しむ子どももいる。

ちなみに受験はない。
だから塾もない。

働くことになった学校は、コペンハーゲンから電車で30分ほどの郊外にあり、比較的裕福な家庭(と言っても飛び抜けて裕福なわけではない)で育っている白人のデンマーク人の子どもが多い地区にあった。コペンハーゲン市内で暮らしていると、娘や息子のクラスに少なくとも4、5人はデンマークルーツではない子どもがいるが、この学校ではそんな子がとても少ない。保護者には自営業の人も多く、朝夕の送り迎えに余裕な雰囲気があったり、子どものクラス活動にも積極的にかかわっている人が多かった。

学校の建物はほとんどが平屋、つまり1階建て。さすが郊外ともあって敷地に余裕がある。学校図書館は職員室や家庭科室、校長室などが入っている建物で、入り口と職員室を繋ぐ場所にあり、先生たちが毎朝図書館の中を通っていく、そんな場所だった。

自転車通学する子が多い


仕事は朝8時から。デンマークでは1時間目が始まる時間だ。職員室には毎朝7時半ごろから先生たちが集まり始め、コーヒーを飲みながら談笑している。ちなみに職員室には先生たち専用の事務机はない。食事用のテーブルとキッチンがあるだけだ。職員室は普段は休憩室兼ランチルームとして使われ、コーヒーマシーンやソファー、マッサージチェアなんかもある。

わたしは先生たちがそろそろ教室に移動するかなという8時直前に出勤、図書館にあるセルフサービス用のコンピュータを立ち上げ、生徒用入り口の鍵を開けて、開館準備をする。

同僚は2人。ドーテとケイト。50代後半の2人は、もう何十年も教員としてこの学校で働きながら、週のうち数時間を司書教諭として、学校図書館での活動に充てていた。「あなたは教員ではない有資格者として、この学校の図書館で初めて採用された人です。学校や授業のことは何でもわたしたちに聞いてね。あなたは図書館でやってきたことをここでやってくれればいいから。そうやってお互い協力しましょう」と、2人は満面の笑みでわたしを迎えてくれた。

そんな素敵な同僚たちに迎えてもらったのはとても嬉しかったのだけれど、2人は3年生の担任として授業時間数も多く、わたしは1人で図書館にいることも多かった。

この学校図書館は、毎日8時から14時半までと開館時間が長い。これはデンマークの学校図書館として決して一般的なことではない。そして開館時間が長く、図書館も広々とゆったりしているので、子どもたちは授業中だけでなく、休み時間にもたくさん出入りしていた。

新しい大人がいるとわかると、色々とちょっかいを出したくなるのもまた子どもなのか。そしてわたしはアジア人。見たことのないアジア人が一人でカウンターにいるとなれば、あれを言ってみたい、と思う子がいるのもまた現実。視線を感じ「あっ、言うんだろうな」と思ったらやっぱり「ニーハオ」、というシチュエーションを何度もやり、「あのねぇ、わたし日本人だから、それちがうのよ」と静かに言い返す日々。

もう少し大きな子たち、14,15歳の女の子たちは、わたしを見てヒソヒソ話した後、英語で話しかけてくるなんてこともあった。しらっとデンマーク語で返事をすると、「え…、なんだ、デンマーク語わかるんだ」と言いながらまたヒソヒソと笑いながら去っていったり。こんな感じで、どちらかというと子どもからは冷ややかな歓迎を受けたスタートだった。


ある日、2年生の男の子がなんども「ニーハオ」というので、辛いなぁと思いながら「ねぇ、わたしは中国じゃなくて日本からきたんだ。だからそれ違うんだよね」と彼の顔を見てはっきりと言った。
すると、

「は?日本って何?どこそれ?」
と開き直り気味にいうので、

「えっと、日本っていう国があるのよ。中国の隣に」
そう言いながら彼の持ち物になにげなく眼をやると、そこにはピカチュウの模様がついていた。

「あ、そのピカチュウさ、日本のなんだよ。聞いたことない?」

ここでスイッチが入ってしまったわたしは、ポケモン、ニンテンドー、プレステ、アニメ、ジブリ、とずらずら並べながら、これもあれもそれも、ぜーんぶ日本のなんだよ、知ってたー?知らない??と畳みかけた。

するとその子は数秒間黙ったあと、「うわーーー!!!」と突然叫びだし、床に倒れて足をドタバタさせながら「なんだー、知らないそんなのー!!日本に行きたいーー!!!」と叫んだ。

(ピカチュウ、ポケモン、ニンテンドー、もろもろ皆さんありがとうございます)と心の中で感謝しながら、「いつか行ってね」とだけ言い、この会話は無事終了した。

外国人なわたしはよほど珍しかったのか、こういうことは当初何度かあった。コペンハーゲンで暮らしているとさまざまな人種の人がいるし、ここまであからさまに外国人扱いされることは少ない。正直、当時の子どもたちの反応には少し戸惑ったし、ちょっと心も落ちたのだけど、とにかく普通の人間として(というとなんだか大げさだけど、気分はそんな感じだった)扱ってくれるようになるには時間がかかるんだなと思いながら、毎回、淡々と向き合った。なるべく、何もないかのように普通に話す、そして会話の主導権はなるべく自分が持つ。淡々と、そして意識して少し堂々と話すようにしていたら、いつの間にか不快な気持ちになることが少なくなり、どの子も普通に話しかけてくるようになった。ピカチュウ男子キャスパーとも、あの出会い以降、自然に打ち解けて話せるようになっていった。

こうして始めの一か月は過ぎたのだった。




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