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【『逃げ上手の若君』全力応援!】(139)かつて貞宗の矢を「最小限の動きで」避けた人がいました……よね!? 正宗と国行おさらい、四番陣の宇都宮氏と紀清党などなど

 南北朝時代を楽しむ会の会員の間でも話題騒然の週刊少年ジャンプ新連載『逃げ上手の若君』ーー主人公が北条時行、メインキャラクターに諏訪頼重! 私は松井優征先生の慧眼(けいがん=物事をよく見抜くすぐれた眼力。鋭い洞察力。)に初回から度肝を抜かれました。
 鎌倉時代末期から南北朝時代というのは、これまでの支配体制や価値観が崩壊し、旧時代と新時代のせめぎあいの中で、人々がそれぞれに生き方の模索を生きながらにしていた時代だと思います。死をも恐れぬ潔さをよしとした武士が〝逃げる〟という選択をすることの意義とは……?
〔以下の本文は、2023年12月30日に某小説投稿サイトに投稿した作品です。〕


 「冥途の土産に持ってゆけい

 えええ~~~、これで今週は終わってしまって、新年だから二週間おあずけですか!? 時行、「がはっ」って、完全に逝ってますよね……。しかしながら、私はこれとよく似た場面を覚えています。
 
 「貴様の前がガラ空きぞ頼重ッ!!
 「ドッ

 眉間を射抜かれた諏訪頼重でしたが、次の瞬間まったくの無傷で、小笠原貞宗の目がますます出目になって「ぬ!?」ーー中先代の乱の序盤、信濃での一コマです(第66話「神1335」)。
 これは幻覚でも奇跡でもなく、時行はしっかり見抜いていました。

 「避けた 最小限の動きで!

 時行の動体視力の確かさでもあり(おそらく「逃げ上手」の能力を支える一端)、時行はすでに頼重のこの「奥義」を盗んでいるか、教わっているのではないかと勝手に想像します(そうでないと作品が終わっちゃうし……。とはいっても、時行は地面に倒れ落ちているようなので、やはり気がかりは気がかりです)。
 ちなみに、デジャブなのは小笠原貞宗の右折もです。右折で攻めるのは「貞宗流騎射術 松本ばし」を生かしたものでしょうか。「松本奔り(=走り)」とは、城下町で細い道が多く、また、右折信号の少ない、長野県松本市特有の〝危険運転〟の呼び名で、右折渋滞を避けるための右折優先(割り込み!?)の運転方法だということです。


 それはさておき、貞宗と戦う時行と並行して、弧次郎と長尾忠景が描かれます。「一人前になるには?」の問いかけには、信濃での諏訪頼重や祢津頼直が回想されています。「名将に奥義を出させそれを「返せる武将」としての成長(弧次郎については、一か月の「鍛錬」の成果が見えていましたが)のために、信頼できる〝大人〟からの教えはすでに受けているのかもしれませんね。
 長尾は前回、「没落した長尾家では 幼い私が大人を襲って一族を養っていました」(第138話「大将検定1338」)と上杉憲顕に告白していたのに私は少し驚いたのですが、弧次郎や時行とは逆の子ども時代だと言えます。瘴奸の手下だった腐乱たちの時にも感じたことなのですが、子どもから大人へと成長する大事な時期にどんな人間に出会うかがほぼ運であること(最近は〝ガチャ〟といった言葉を用いますね)には、おおいに考えさせられるところがあります。
 一見すると穏やかで良好そうな長尾と憲顕との関係が、一方は実験材料、また一方は家の再興と、互いに手段でしかないことにどこか悲しさを感じます。

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 『逃げ上手の若君』第139話はいつもより少年漫画的なストーリー性が強く、歴史的・文学的な内容で拾えそうなところが少なかったので、以前本シリーズで「正宗」と「国行」の刀について調べた回のリンクと、前々回か前回に触れようと思って保留にしておいた「宇都宮」氏(新田軍とともに四番陣)について紹介したいと思います。

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 ……そうでした、正宗は「長尾ごと国行の大太刀をへし折ってこい」(第131話「正宗1337」)と言って、鬼の形相で「鐵柳くろがねやなぎ」を打ち、弧次郎に与えています。弧次郎と長尾との戦いは、刀匠の正宗と国行との戦いでもありました。

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 「新田・宇都宮は北西だ!」(第137話「くじ1338」)

 青野原の戦いで、北畠顕家が四番陣に据えたのが「新田・宇都宮」ですが、宇都宮氏は初登場だったのではないかと思います。

宇都宮氏(うつのみやし)
 中世の下野の豪族。その出自に関しては下毛野氏・中原氏・藤原氏など諸説があるが、家伝によれば関白藤原道兼の曾孫宗円が前九年の役の時、安倍頼時調伏祈祷のため下野に下り宇都宮座主として土着したのに始まるとしている。宗円の孫朝綱は平氏に属し、北面の武士となっていたが、のち源頼朝に属し功により所領を与えられ、宇都宮社務職を安堵された。以後子孫は代々御家人として幕府に重用され、美濃・伊予の守護職や評定衆に補されたものもあり、また下野のほか伊賀や九州・四国などに地頭職を与えられ、一族はそれらの地に蕃茂した。宇都宮氏は学芸の家柄として聞えが高く、特に和歌・蹴鞠の両道に秀でた。弘安六年(一二八三)景綱の制定した『宇都宮家式条』はもっとも早期の家法であり、宇都宮氏の領内支配の状態をよく示している。室町時代に入り宇都宮氏は足利氏につかえ関東八館の一つとして勢威をふるったが、戦国時代に入ると関東の擾乱の渦中で内訌外戦をくり返した。のち国綱の時豊臣秀吉の小田原征伐に参加して本領安堵をうけたが、慶長二年(一五九七)石高隠匿の罪により所領を没収され、国綱は宇喜多秀家に預けられたが、秀吉の命により慶長の役に参陣をゆるされ旧領恢復の望みをつないだ。しかし秀吉の死により目的は達せられず宇都宮氏は滅亡した。
〔国史大辞典〕

 宇都宮公綱は、あの楠木正成と天王寺で対峙しています。

 なお、古典『太平記』では、四番陣について以下のように記されています。

 四番に、上杉民部大輔うえすぎみんぶのたいふ、同じき宮内少輔くないのしょう、武蔵、上野の勢都合一万余騎を率して、青野原に打ち出でたり。新田徳寿丸、宇都宮の紀清両党、三万余騎にて相向かふ。両陣の旗の紋、皆知り知られし兵どもなれば、後の嘲りをや恥ぢたりけん、互ひに一引ひとひきも引かず、命を際に相戦ふ。毘嵐びらん断えて大地たちまちに無間獄に堕ちて、水輪湧いて世界尽く有頂天に翻らんも、かくやと覚ゆるばかりなり。
 ※上杉民部大輔…上杉憲顕。
 ※宮内少輔…憲顕の従兄弟・藤成か。
 ※毘嵐断えて大地忽ちに無間獄に堕ちて…世界を生成する大暴風である毘嵐婆風が吹かなくなって、大地が瞬時に無間地獄に堕ち。
 ※水輪湧いて世界尽く有頂天に翻らんも、かくや…、大地を支える水輪が沸き返って世界が天界の頂きに押し上げられる激動も、このようであろうか。

 「紀清両党」とは、「下野国一宮二荒山(ふたらやま)神社(俗に宇都宮大明神)に奉仕した紀氏、清原氏の子孫。とくに鎌倉~南北朝期、同神社座主宇都宮氏に従属して活躍した武士団の一つ。」〔世界大百科事典〕とあり、宇都宮氏の一族としての性格と武士団の構成は諏訪氏のようですね。
 上杉、新田、宇都宮の兵たちが、いずれも上野や武蔵を本拠地としていて互いに顔見知りなので、恥ずかしい戦いぶりで後々馬鹿にされたりしないようにと命がけで戦ったから、天国と地獄とがひっくり返ってしまうほどだったというのです(『太平記』お得意の〝盛り〟表現がヤバイ(汗))。
 ーーでも、長尾みたいなのが暴れていたら、まんざら嘘でもないかもしれませんね。

〔『太平記』(岩波文庫)、日本古典文学全集『太平記』(小学館)を参照しています。〕


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