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【『逃げ上手の若君』全力応援!】(158)急旋回する山車に乗り指揮を執る北畠顕家に見とれる岸和田治氏はあの有名人! 仁木義長も「ドン引き」した結城宗広の「ヤバさ」は少ない戦力をカバーする戦法を生み出した?

 南北朝時代を楽しむ会の会員の間でも話題騒然の週刊少年ジャンプ新連載『逃げ上手の若君』ーー主人公が北条時行、メインキャラクターに諏訪頼重! 私は松井優征先生の慧眼(けいがん=物事をよく見抜くすぐれた眼力。鋭い洞察力。)に初回から度肝を抜かれました。
 鎌倉時代末期から南北朝時代というのは、これまでの支配体制や価値観が崩壊し、旧時代と新時代のせめぎあいの中で、人々がそれぞれに生き方の模索を生きながらにしていた時代だと思います。死をも恐れぬ潔さをよしとした武士が〝逃げる〟という選択をすることの意義とは……?
〔以下の本文は、2024年6月8日に某小説投稿サイトに投稿した作品です。〕


 細川顕氏の活躍で始まった『逃げ上手の若君』第158話ですが、顕氏の実力などではなく高師直が合理性を極めただけだったという……。

 「…しかし師直様 細川様に本気で恨まれてますが
 「それがどうした

 部下とのやり取りの中に、合理性の危うさが鋭く指摘され、師直の将来に関する伏線となっています。中先代の乱の終盤での足利直義が三浦時明の〝心〟を見くびっていたことが思い出されます(第95話「楽しさ1335」)。

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 「引け引け! 急旋回して振り回すぞ

 第157話のラストで、伊達行朝はなぜ綱を手にしているのだろうと思ったら、山車の引綱だったのですね! 太めの顕氏も「グヘっ」と吹っ飛ばされています(なにげに彼、打たれ強いですね)。

 「うおお… 豪壮で雅で格好ぇぇわあ

 北畠顕家が山車の上で指揮する姿を見て、「南朝派武将 岸和田治氏きしわだはるうじ」が見とれています。「岸和田」とあるのを見て、〝あれじゃん!〟と思われた方がほとんどではないでしょうか。

だんじり祭り
 大阪の和泉、河内、摂津地域のほか、神戸、奈良など関西地方で行われる祭礼のこと。だんじりが登場することが特徴の祭り。だんじりとは山車(だし)のことで「楽車」、「壇尻」とも書く。なかでも大阪府岸和田市で行われる「岸和田だんじり祭り」は全国的に知られ、だんじりを曵いて走り、猛スピードのまま方向転換する勇壮な「やりまわし」が見どころ。江戸時代、岸和田城内三の丸稲荷神社に五穀豊穣を祈願した稲荷祭が起源とされる。長らく新暦9月14日と15日の両日に行われていたが、2006(平成18)年から敬老の日(9月第3月曜日)の直前の土日に催されるようになった。関西に秋の到来を告げる祭り。
〔「平成ニッポン生活便利帳」【12か月のきまりごと歳時記】(現代用語の基礎知識2008年版付録)©JIYUKOKUMINSHA CO.,LTD〕

 武士の苗字というのは出身(所領)の地名が由来ということを聞いたことがあるのですが、「岸和田」については「和田」氏がその地にやって来たことが地名に結びついているそうです。

岸和田(きしわだ)
 大阪平野の西部に位置し,海岸から伸びる平野部と和泉山脈葛城山に続く山地からなる。古くは岸と称したが,中世に和田氏が土着したところから,岸ノ和田,岸和田と呼ぶようになったという。
〔新版 角川日本地名大辞典〕

 『国史大辞典』には、「楠木正成はこの岸に代官和田高家を置き、これが岸和田の起源となった」とあります。

和田氏(みきたし)
 中世に和泉国大鳥郡和田(みきた)荘(和田(わだ)川上流の旧大阪府大鳥郡美木田村、現在の堺市泉北ニュータウン地域)の荘官で、鎌倉幕府の御家人であった武家。
(中略)
 鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて外部に勢力の拡張を策し、河内国金田・長曾根両郷の在庁職や大歌十生長官職などを獲得している。動乱のなかでは南朝方にくみしながらも、ときには室町幕府方に味方することもあり、畿内の在地領主として複雑な動きをとるが、明徳三年(一三九二)新たに和泉守護となった大内義弘から和田荘下司職を充行われ、動乱期を乗り切ったようである。鎌倉時代に、島津氏が和田荘地頭職に補任されており、中世から近世への移行期に、一族のなかには薩摩国に移り島津氏の家臣となったものもいる。なお、和泉国には橘姓の和田(わだ)氏がいるが、この和田(みきた)氏とは別系統と考えるべきであろう。また、和田(わだ)氏の高家が同国和泉郡に岸城を築いて岸和田氏を名乗ったといわれるが、『和田文書』に延元二年(一三三七)三月日の岸和田治氏軍忠状案があり、いずれの和田が岸和田にかかわるのか不明である。
〔国史大辞典〕

 「岸和田治氏」の文書が残っているのですね。しかし、この男の顔、どこかで見たことあるんだよな……と思い、はっと思い出しました。

(筆者の私物を撮影。河合じゅんじ先生のプロ野球ギャグ大好きでした。)

 お若い方はご存じないかもしれませんが(あるいは、今の少し影のある清原のイメージが強いかもしれませんが)、PL学園と西武ライオンズで活躍していた時は、アイドル顔負けの人気でした。

 清原 和博(きよはら かずひろ、1967年8月18日 - )は、大阪府岸和田市出身の元プロ野球選手(内野手、右投右打)、野球評論家、タレント、YouTuber。愛称は「お祭り男」「(球界の)番長」。〔Wikipedia〕

 岸和田出身の有名人筆頭みたいな人です。松井先生、ナイスセンスです! ただ、岸和田のだんじり祭りの始まりについては、江戸時代ということで公式発表されています。

「だんじり祭の歴史」
 約300年の歴史と伝統を誇る「岸和田だんじり祭」は、元禄16年(1703年)、時の岸和田藩主岡部長泰(おかべながやす)公が、京都伏見稲荷を城内三の丸に勧請し、米や麦、豆、あわやひえなどの5つの穀物がたくさん取れるように(五穀豊穣)祈願し、行った稲荷祭がその始まりと伝えられています。

 山車が登場するのはさらにこれよりも後のようですが、キラキラ顕家に憧れたやんちゃな地方武士の一人が、「いつかワイの領内でも… こないな祭してみたいわ」という思いを抱いたのが始まりだなんて、少年漫画らしいロマンがあっていいと思います。

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 「おお仁木にっき様だ!」「九州の戦では鎧から馬まで地に染めた男!!

 第157話のラストに描かれた、頬に十字の傷のある男は「仁木義長」でしたか!

仁木義長(にきよしなが)
?-1376(天授2・永和2)
 南北朝時代の武将。頼章の弟。右馬権助,右馬頭,右京大夫を歴任。伊勢,志摩を主として,伊賀,三河,遠江,備後の守護も兼任。侍所頭人となること2度。義長の活動は鎌倉で始まる。1334年(建武1)に設置された関東廂番に〈仁木四郎義長〉と見え,その後36年2月の足利尊氏敗走に随従,多々良浜の戦に勝って,同年6月に上京するまでの間,菊池氏を攻撃するなど九州幕軍の総大将としての役割を果たした。上京後も幕軍の有力武将として南軍追討に活躍。
〔世界大百科事典〕

 仁木氏は足利 (あしかが) 一族中の大族で、三河国額田 (ぬかた) 郡仁木郷(岡崎 (おかざき) 市仁木 (にっき) 町)を本拠とする一族である。〔日本大百科全書(ニッポニカ)〕 ※「仁木義長」の項目より

 「九州の戦」で活躍したとありますが、『逃げ上手の若君』では、魅摩の「砂嵐」と尊氏登場で「なんか勝ってた」(第112話「インターミッション1336」)という展開でしたが……血で染まる必要がないのに望んで全身血まみれになったのだとしたら、「狂戦士」であるのは間違いありません。
 確かにこの人、後々足利一門を引っ搔き回します(足利一門と足利方の武将には、気のせいかそういうのが多い!?)。

 「なんと! 貴方も血がお好きで!

 なんで頬を赤らめているんだ、結城宗広……不謹慎にも爆笑でした。「イカレジジイ」の「趣味」炸裂なだけの戦い方かと思いきや、結果的になのかもしれませんが、少ない戦力をカバーする効果的なものです。
 仁木方の兵たちは「腐った血は猛毒だ!」「触れるだけで病になるぞ!」と言って、結城軍の攻撃を恐れています。医学的、衛生的な知識のない時代ではありましたが、血液や腐敗した物体が感染症の媒介になることは共通認識としてあったので(〝穢れ〟とか〝不浄〟といった観念でとらえていました)、武器とは違った見えない恐怖に侵されて、彼らは戦意喪失しているのです。
 ちなみに、鎌倉時代の蒙古襲来の際に、鎌倉武士たちが馬の死体を元軍の船に投げ込んだ(船だと逃げ場がないので、感染症で多くの敵兵が死に至るのを狙った)というのを聞いたことがあります。……生物兵器は「大量殺戮の可能性をもつので」〔ブリタニカ国際大百科事典〕、現代では禁じられています。
 結論、本物のサイコには勝てません。仁木様、相手が悪かったですね。

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 「多少は聞こえた名だが ガキのお守りでくたばっちゃあ世話ねえなあ

 え、……高師泰なんなの? それに、堀口貞満って石津の戦いで亡くなっていたっけ??

堀口貞満(ほりぐちさだみつ)
一二九七 - 一三三八
 南北朝時代の武将。三郎と称す。永仁五年(一二九七)に生まれる。父は貞義。上野国新田郡の住人。祖先が新田荘の南辺堀口に住したことにより氏としたという。新田義貞に従って鎌倉を攻撃し、赤橋守時を斬るなどの功をあげた。この功により、建武元年(一三三四)後醍醐天皇から正六位上、大炊助に、翌年には、従五位上、美濃守に補任された。建武三年(延元元、一三三六)後醍醐天皇が足利尊氏と和を結び、延暦寺を出ようとした時、貞満は、天皇に建武新政府樹立にあたって新田義貞の戦功が第一であったことを泣きながら訴え、尊氏との和睦に難色を示した。天皇は貞満の諫言を受け入れた。義貞に恒良親王・尊良親王を奉じて越前に赴き、南軍の拠点を作るようにとの密命を下した。貞満は、義貞とともに両親王を奉じて、越前金崎城に拠った。翌年、北畠顕家が陸奥より西上した時、美濃国根尾徳山にいた貞満は、出兵して顕家軍を助けた。暦応元年(延元三、一三三八)正月越前において四十二歳で没したという。
〔国史大辞典〕

 うん、やはり記録では堀口貞満はここで亡くなっていない。……ワンチャン、生きている!? かつて、海野幸康様も渋川義季の凶刃に斃れたかと思いきや大丈夫でしたし(第76話「一騎打ち1335」参照))。
 もう少しだけでも、徳寿丸の傍にいて、彼の成長(「覚醒」ですか?)を堀口には見届けてほしいです。

〔参考とした辞書・事典類は記事の中で示しています。〕


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