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【『逃げ上手の若君』全力応援!】(154)古典『太平記』 では「桃井塚」爆誕!な桃井直常の活躍ぶり……「堺湊」で久しぶりの子どもばっかりに思わずこっちが「フニャる」

 南北朝時代を楽しむ会の会員の間でも話題騒然の週刊少年ジャンプ新連載『逃げ上手の若君』ーー主人公が北条時行、メインキャラクターに諏訪頼重! 私は松井優征先生の慧眼(けいがん=物事をよく見抜くすぐれた眼力。鋭い洞察力。)に初回から度肝を抜かれました。
 鎌倉時代末期から南北朝時代というのは、これまでの支配体制や価値観が崩壊し、旧時代と新時代のせめぎあいの中で、人々がそれぞれに生き方の模索を生きながらにしていた時代だと思います。死をも恐れぬ潔さをよしとした武士が〝逃げる〟という選択をすることの意義とは……?
〔以下の本文は、2024年4月28日に某小説投稿サイトに投稿した作品です。〕


 『ほんと性格悪いなあ高兄弟は
 『能力も実績もあるからやりたい放題

 高師直・師泰兄弟の「飼い犬」と「鈍くさい家畜」発言と虐待がひどすぎた『逃げ上手の若君』第154話ですが、よく見ると、この前のページで師直は「仁木は川向うへ回りこめ」「畠山はこのまま突き抜けろ」(「突き」の部分の判別はイマイチ自信なしです)と言って、細川顕氏みたいな粗末な扱いはしていなくとも、足利一門(仁木・畠山)に命令を下して戦っているのがさりげなく描き込まれていました!
 そうなんですよね、師直は政治的な手腕だけでなく、戦も本当に強かったらしく、しかも、未来の女性歴史ファンに嫌われて当然だという武将を何人も打ち破ってます。
 それに対して桃井直常ですが、勝つほどに伸びるリーゼントがですか?

 「命知らずの奮戦の数々は京の噂となり やがては 尊氏さえ警戒させる暁将へと成り上がっていく
 ※曉将…「驍将(ぎょうしょう)」の誤植か。(「驍将」とは、「驍勇(ぎょうゆう)の武将。たけだけしく勇ましい大将。勇将。」〔日本国語大辞典〕のこと。)

見事に男っぷりを上げている桃井直常!

 桃井の人気ぶりは、古典『太平記』にこのように記されています(日本古典文学全集の現代語訳を引用します)。

 先の合戦で忠功が抜群であった桃井兄弟ですらも、褒賞の沙汰もない。ましてそれ以下の者には褒賞などあるはずがないと考えて、出兵する武士はついにまったくいなかったので、これではどうしようもあるまいと、師直が一族をあげて出陣なさったので、諸軍勢はこれに驚いて、我も我もと、馳せ下った。そこで、その軍勢は雲霞のような大軍で、八幡山の麓一帯にわずかの土地も残さず、満ちあふれた。けれどもこの砦の堀は厳重で、勇猛な兵士たちが全員志を一つにして立て籠っていることなので、寄せ手は合戦のたびごとに敗れていると伝えられた。そこで、これを聞いた桃井兄弟は我が身のあり方を反省して、今度の出兵催促にも応じないで、都にお残りになって兵を動かさなかったのであるが、家柄がよい武将が一家をあげ、また有力な武将が大軍を動かしても、合戦は旗色が悪いと聞いて、どうして傍観しておられようかと考え、「恨みは私事、弓矢の道は公の道理、これは避けられないことである」として、ひそかに都を出立して、部下の兵たちだけを率いて、味方の大軍勢にも連絡せず、桃井兄弟自ら八幡山の麓に押し寄せ、一昼夜攻撃した。この桃井勢の攻撃に官軍も多く討死し、また負傷した。直信・直常の配下の兵たちも多く傷を負い、討たれて、生存者は少なくなり、後退して味方の陣営に加わった。最近の京の物見高い人々が桃井塚と呼んでいる場所は、兄弟が合戦したその所である。
 ※桃井兄弟…桃井直常・直信兄弟。全集が底本としている天正本では兄弟で活躍している。

 『逃げ上手の若君』の中では、直義派ゆえに師直から「最前線で恩賞も与えず使い潰す」(第150話「フルメタル」)といった鬼畜な仕打ちを受けている桃井でした。『太平記』では、恩賞なしの腹いせで桃井(兄弟)が戦をボイコットしたがために大変なことに……。
 ところが、『逃げ上手の若君』では春日卿が立てこもる八幡山はというと、「この砦の堀は厳重で、勇猛な兵士たちが全員志を一つにして立て籠っていることなので、寄せ手は合戦のたびごとに敗れていると伝えられた」とあります。そこで、桃井が我が身を反省し参戦、「直信・直常の配下の兵たちも多く傷を負い、討たれて、生存者は少なくなり、後退して味方の陣営に加わった」といった活躍ぶりを見せるのでした。ーーその結果、「桃井塚」なる名所が京に爆誕しています(笑)。

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 さて、北畠顕家は南へ引き下がります。そこで、「堺湊」という地名と「観音寺」というお寺が登場します。この観音寺は、現在も大阪府堺市に存在しているお寺のようです。以下の地図を見ると、確かに「川に挟まれて」います。

 堺と言えば私などはまっさきに千利休とか鉄砲が思い浮かびますが、仁徳天皇陵古墳(大仙陵古墳)も有名ですね。古い歴史のある町です。『日本歴史地名体系』から引用します。

 堺津を核に平安後期以降形成された港町。堺北[さかいきた]庄(摂津)・堺南庄(和泉)に属する地域(集落)からなり、地名は国境に位置することによる。藤原公任の子定頼の歌集「権中納言定頼卿集」に「さか井」に塩湯浴みに行ったとみえるのや、「為房卿記」永保元年(一〇八一)九月二二日条に、中宮少進で白河院庁の官人であった藤原為房が、住吉社(現住吉区)に奉幣したのち「和泉堺之小堂」に着し、同社神主津守国基の接待を受けたとあるのが地名のみえる早い例である。

 以下のような興味深い記述もありました。

 南北朝時代に堺は飛躍的な発展を遂げ、堺近隣のみならず中央の政治にまで大きな影響を与えるようになった。建武四年(一三三七)室町幕府は堺浦居住の魚貝商人が大和吉野にいた南朝に内応したとの理由でその営業を停止させたが、そのため奈良の春日社の供御が滞り神事に支障をきたしたことがあった(→堺南庄)。このことからすでに鎌倉時代、堺に拠点をもつ漁民が春日社を本所とする散在魚貝神人として特権的な市座を構成し、堺の市場の主要な担い手であったばかりでなく、畿内地方を商圏とする行商活動を繰広げていたこと、反室町幕府的な政治的行動と判断されるほど強大になっていたことがうかがえる。

 民衆パワーを感じますね。さらには、「南北朝内乱の主戦場となった河内・和泉両国南部への兵員・物資輸送上で堺の占める地位は大きかった」ゆえに、堺での北畠顕家軍と細川顕氏軍との「戦闘の直接の目標が堺浦の確保にあったことは間違いなかろう」としています。第154話で描かれた「京みたいな品揃え」に「海外の品」というのも、日本各地そして大陸から海路で堺湊へとやってきた品々であることを印象付けます。

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 最後に、楠木正行も加わっての子どもだけのにぎやかな雰囲気に、『逃げ上手の若君』はやっぱりこれでなくっちゃと思いました(久しぶりに会った友人の小学生のお子さんは、少年少女たちの「友情・努力・勝利」が満載だった諏訪パートがとても好きで、最近はオッサンとの絡みばっかりで熱が少し冷めてると言っていたのを思い出しました(笑))。弧次郎の突っ込みが入っていますが、「ちびっこには大人気‼」と両手を広げる徳寿丸は純粋でかわいいです。(ノリは親父さんと同じなんだけれども、子どもだから許される!?)
 家族と言えば、単行本第3巻の「」の能力紹介を先日久しぶりに見て〝あっ〟と思いました。「性質」が「浮世離れ」で、特に「弱点」が「家族として扱うと照れてフニャる」とは、かなりの伏線でしたね。
 今回も、頼重のことは「父様」と呼んでいますが、時継のことは「時継様」と呼んでいて「兄様」ではありません。確かに、そうでなかったからこそ、雫は時行のことを「兄様」と呼び、ひとりで「フニャ」っていたというわけです。おそらく、時継は自分の家族とともに本宮にいたので、時行が来るまでの間、疑似家族はおそらく前宮に(隠居して?)いた頼重とだけだったのかもしれません(弧次郎も祢津の家にいましたし、亜也子も望月の家にいましたからね)。
 今回の「解説上手の若君」は、尊敬する石埜三千穂先生の久々の登場で嬉しかったです!ということで、顕家の祭に東夷たちがどうふるまうかが気になりつつ、終わりにしたいと思います。

〔日本古典文学全集『太平記』(小学館)を参照しています。〕


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