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ワクチンと公共性(1)(2021)

ワクチンと公共性
Saven Satow
Aug. 15, 2021

「偉大な人々は目標を持ち、そうでない人にとは願望を持つ」。
ルイ・パスツール

1 衣食住薬

 つれづれなるままに、日暮らし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。

 パンデミックによる巣ごもり生活のため、吉田兼好による『徒然草』のこの序を実感した人も少なくないだろう。「つれづれなるままに、日暮らし、スマホにむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」とSNSに投稿することも増えたに違いない。『徒然草』は隠者文学の代表作の一つである。それは孤独の中で仏教に基づく倫理的な理想の生き方を追求する知識人による文学だ。兼好は世間から離れ、隠れた暮らしを実践している。

 ただ、兼好はその際にも最低限必要なものがあると『徒然草』123段において次のように述べている。

 無益むやくのことをなして時を移すを、愚おろかなる人とも、僻事ひがことする人とも言ふべし。国のため、君のために、止やむことを得ずして為すべき事多し。その余りの暇いとま、幾いくばくならず。思ふべし、人の身に止むことを得えずして営いとなむ所、第一に食ふ物、第二に着る物、第三に居ゐる所なり。人間の大事、この三つには過ぎず。饑うゑず、寒からず、風雨に侵をかされずして、閑しづかに過すを楽たのしびとす。たゞし、人皆病あり。病に冒をかされぬれば、その愁忍び難し。医療を忘るべからず。薬を加へて、四つの事、求め得ざるを貧しとす。この四つ、欠けざるを富めりとす。この四つの外を求め営むを奢おごりとす。四つの事倹約ならば、誰の人か足たらずとせん。

 人間が生きていくために必要なものとして衣食住がよく挙げられる。吉田兼好はそれに「薬」を加える。誰もが病気になる以上、医療も欠かせない。薬を手に入れたり、医者に診てもらったりすることは、衣食住同様、人間生活にとって必須である。「衣食住薬」がままならない状態が貧しさ、足りている状態が豊かさと言える。だが、この四つを過剰に求めることは強欲である。

 吉田兼好は鎌倉末期から南北朝時代にかけて生きた人物である。当時の医療は漢方薬による投薬治療が主で、「薬」で「医」を象徴している。現代的には「薬」は医薬品だけでなく、医療全般を指すと捉える必要がある。それは近代方において「無医村」の解消が地方政治の課題になることからも理解できよう。

 この「衣食住薬」は近代において人権として捉えることができる。日本国憲法第二十五条は、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」と規定している。国民には生存権があり、国家は生活保障の義務を負う。衣食住薬はこうした生存権に含まれ、その不足は人権侵害に当たる。

 衣食住薬は格差を始めとする国内外の社会的諸問題が反映する。中でも、「薬」の貧困のことはパンデミックにおけるワクチンをめぐる状況がよく示している。

 『NHK』が2020年9月22日 17時06分更新「“途上国にも公平に配分を” 新型コロナのワクチンめぐって」と格差に依存しないワクチン分配の国際的枠組みの必要性を伝えている。この記事の日付はワクチン開発の成功の兆しが見えてきた時期である。ロシア保険証が新型コロナウイルス感染症のワクチンとしてスプートニクVを登録したのは2020年8月11日で、ファイザーとビオンテックが共同開発したワクチンの緊急使用許可をFDAに申請するのが同年11月20日である。しかし、その9か月後、『BBC』は2021年6月22日「新型ウイルスのワクチン、低所得国で不足=WHO アフリカでは感染第3波」とワクチン供給をめぐる国際的不平等の実情を指摘している。グローバル規模での貧富の格差が「薬」の分配の不平等に反映している。確かに、兼好の言う通り、「薬」の不足は貧しさである。

 新型コロナウイルス感染症のもたらす医療問題は、もちろん、ワクチンだけに限らない。「医療崩壊」がそれを端的に物語っている。医療資源が限られているため、急増する新型コロナウイルス感染症の患者は言うに及ばず、他の疾病も治療を受けることが難しくなる。新興感染症の流行が世界的に拡大する予想が国際的にある程度共有されているものの、備えは十分ではない。対応できたところもあるけれども、途上国のみならず、先進国や新興国でも、「薬」が足りない、今日の世界は全般的に貧困の状態にあると言わざるを得ない。

 『NHK』は、2021年7月27日 22時19分更新「IMF ワクチン接種率の違いによる経済回復ペースの格差拡大懸念」において、ワクチン接種率と経済の関係について次のように述べている。

IMF=国際通貨基金は、今の世界経済の状況について「断層が広がっている」として、新型コロナウイルスのワクチンの普及の違いによる回復ペースの格差拡大に懸念を示しました。
IMFは27日、世界経済の最新の見通しを公表し、ことしの世界全体の成長率はプラス6.0%と、前回、3か月前の見通しを維持しました。
ただ、ワクチンの接種率が、
▽先進国の39%に対して、
▽新興国は11%
▽低所得国は1%にとどまっているうえ、
変異ウイルスのデルタ株の感染も収まらないことで「断層が広がっている」として、経済の回復ペースの格差拡大に懸念を示しました。
国別では、
▽アメリカが、前回より0.6ポイント引き上げて7.0%
▽イギリスも、1.7ポイント引き上げて7.0%を見込んでいます。
一方、
▽インドは、去年からの反動で9.5%の成長を見込むものの、深刻な感染拡大を受けて前回より3ポイントの大幅な下方修正になりました。
また、
▽インドネシアやタイなど、ASEAN=東南アジア諸国連合のうちの5か国についても、0.6ポイント引き下げて4.3%とし、
▽日本も、感染対策の規制の長期化を理由に0.5ポイント引き下げて2.8%としました。
IMFは先行きのリスクとして、感染の再拡大のほか、大規模な金融緩和を続けてきた先進国の政策転換にも言及し、ワクチンの供給をはじめとした各国の協調を呼びかけています。

 国民へのワクチン供給は、一般的に、国家の経済力に依存する。豊かな国はワクチン接種を国民へ迅速に提供できるが、貧しい国はそれがままならない。しかし、接種率が今後の経済成長に影響するとなれば、既存の格差がさらに拡大する恐れがある。それは機械の不平等が結果の不平等を招く悪循環である。

 ただ、パンデミック終息の有効策と期待されるワクチンであるが、それをめぐる言説・状況が錯綜している。ワクチン接種できるにもかかわらず、拒否する人が少なからずいる。これは、言うまでもなく、「薬」の貧困ではない。ワクチン接種「できない人」と「しない人」を同じように捉えるべきではない。

 中には、ワクチン接種を拒み、新型コロナウイルス感染症を発症したにもかかわらず、その判断を翻意しない人物もいる。『BBC』2021年7月26日更新「ワクチン否定論を広めた米男性、COVID-19で亡くなる」が伝えるアメリカ人男性スティーヴン・ハーモン(Stephen Harmon)もその一人である。彼は、新型コロナウイルス感染症によって入院した後も、この疾病を軽視、ワクチン接種を揶揄するジョークをSNSに投稿している。1か月の闘病後の7月22日、彼の死亡が確認される。

 ワクチン接種を望みながらなかなか叶えられない人がいる一方で、その機会がありながら避ける人もいる。業を煮やし、事実上を含め義務化に踏み切る政府も現われている。ィジーのボレンゲ・バイニマラマ(Voreqe Bainimarama)首相は、2021年7月8日、全労働者に新型コロナウイルスワクチン接種を義務付ける計画を明らかにする。

 ただ、フィジーのこの政策も労働者を対象にしていることに注意が要る。近代の理念上、マスクと違い、ワクチン接種を全国民に義務化することは容易ではない。それについて論じてみよう。

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