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中間小説の時代(4)(2023)

4 エンタテインメント小説と漫画
 「中間文学」を「自分の仕事の場」とすると山田克郎は述べている。彼の意図はともかく、「大衆文芸」はその方向に進み、発展的に解消している。

 山田克郎は海洋冒険小説を得意とする作家である。その彼は初のカラー放送のドラマ『快傑ハリマオ』の原作者として知られる。大戦直前のモンゴルや東南アジアを舞台にした冒険活劇で、1960年4月から61年6月まで日本テレビ系列で放映されている。これは、太郎という少年が活躍するなどラドヤード・キプリングの『少年キム』を思い起こさせる。このインド生まれのイギリス人は帝国主義者として非難されることが常だが、1901年の小説ではインドの豊かな自然や植民地主義批判を記している。『快傑ハリマオ』テレビドラマ版はともかく、「漫画」版にはそうした傾向が認められる。放送と同時期に、手塚治虫が翻案を担当、石ノ森章太郎が絵を描いている。原作者よりもノンクレジットだった「マンガの神様」が『少年キム』から影響を受けていたように思える。

 キプリングのような作家は他にもいる。ジョゼフ・コンラットは冒険小説の形式をとりながら、植民地主義を始め政治的諸問題を扱った作品が少なくない。それらは娯楽性が高いけれども、意欲的な文体で社会性・時代性のあるテーマを織りこんでいる。映画『地獄の黙示録』の原作として知られる『闇の奥』が好例である。

 冒険小説は、フライの『批評の解剖』によると、近代小説以前の「ロマンス」に属する。しかし、キプリングやコンラットはその形式を用いても、近代的課題を扱えることを示している。

 ロマンスはもう一つの世界を舞台とする。神々の物語である神話とは異なり、近代小説と神話の中間に位置する。近代以降、下位ジャンルにSFやミステリー、アドベンチャー、ファンタジー、ホラー、サスペンスなどが含まれる。歴史小説や時代小説もこのロマンスに属している。ブロンテ姉妹やウォルター・スコットなどが代表的な作家である。作者の描き出す登場人物は現実の人間ではなく、自身の願望の分身、すなわちアバターであって、何かを象徴している。性格よりも個性に関心が向けられ、小説家がこの点で因習的であるのに対し、ロマンス作家は大胆である。作品の傾向は内向的・個人的であり、扱い方は主観的で、願望充足がこめられている。社会の抽象化ではなく、作者の願望の具体化がロマンスの役割である。登場人物は複数の世界を渡り歩く選ばれた者であり、しばしば英雄的・超人的であるが、精神的な深みに乏しい。構成は慣習的で、秩序立てられ、安定している。元の世界への帰還という目的に向かって話が展開される円環構造をしている。そのため、始まりに終わりが提示されていることも少なくない。すべての要素はそれを実現するために従属している。作者にとって、曖昧なものや無駄なもの、意に沿わないものは除外され、ただ因果関係が叙述される。ロマンスは読む側に負担が少ないため、最も読者を獲得しやすい。ただ、願望を優先させるあまり、恣意的に書いてしまうこともあり、ばかばかしいほどの不適切に溢れていても、その願いに共感する読者は無批判的に受容する。ロマンスの短編形式は「お話(Tale)」である。

 ロマンスの基本型は主人公が複数の世界を漂泊・遍歴し、最後に元へ戻ってくる円環構造である。設定を変えることで多様な物語をいくらでも生み出すことができる。中心的人物の個性や人数、彷徨い方、また世界の特徴や数、その関連性、さらに下位ジャンルの組み合わせなどを変更するだけで、物語を量産することが可能である。

 ロマンスは、筆者が現代的課題を扱いたいという願望を充足したければ、これほど便利な形式はない。作者が主人公に重点を置いたのが従来の「大衆文芸」である。宮本武蔵は吉川英治の願望のアバターである。しかし、重点が現代的諸課題を取り扱うことであれば、その作品は『闇の奥』になる。その際、筆者と読者は課題を生み出す社会を共通基盤として創作・鑑賞・評価する。「大衆文芸」の中間小説化はそうした方向を意味している。それはかつての純化路線に代わり、純文学同様、ハイブリッド化によるこの文学の活性化でもある。

 中間小説とは近代文学の経験を通じて現代社会に基づいて再構成されたロマンスである。メロドラマ化されたロマンスで、それが現代小説というものだ。

 その流れが顕著になるのは1960年代からだろう。高度経済成長により都市に人口が集中、その多くが組織人となっている。50年代後半、芥川賞作家松本清張がミステリーの形式をとりながら、社会的問題を取り上げる作品を次々に発表、ブームを巻き起こす。それは謎解きの面白さもさることながら、アメリカの自然主義文学のように、その事件の発生に関連している社会悪を告発している。清張作品は組織の論理が個人を振り回すことをしばしば描き、読者にとってその悲劇は他人事ではない。後に、清張のような作品は「社会派ミステリー」と呼ばれるようになる。彼は、1960年、占領期の政治的事件を推理作家の認識で取り上げるノンフィクション『日本の黒い霧』を出版している。社会を創作・鑑賞・評価の共通基盤とするミステリーが登場、それは純文学と大衆文学の中間に位置する作品である。

 また、新聞記者出身の司馬遼太郎も、当初はともかく、60年代半ばから剣術や忍術の達人ではなく、才覚と行動力で活躍する主人公の歴史小説を発表する。もちろん、それは、坂本龍馬を筆頭に、彼の願望の反映であるが、武術に依存しない点で近代人に近い。「大衆文芸」から逸脱し、むしろ、経済小説に隣接、読者にとって世界が身近に感じられる。50年代後半に五味康祐と柴田錬三郎の剣豪小説、60年前後に山田風太郎の忍法小説が流行、これらは「大衆文芸」の延長線上にある。しかし、60年代の司馬を始めとする歴史小説家は戦後派で、それと違う方向に向かい、「中間小説」である。

 60年代のこうした作品を「エンタテインメント小説」と呼ぶことは躊躇する。ただ、ほぼ同時期に白戸三平が発表した劇画『忍者武芸帳』(1959~62)の方が「大衆文芸」を継承している。忍術に合理的説明を加え、唯物史観に基づいて物語を展開しているけれども、主人公は不死身の忍者影丸である。これは中里介山の『大菩薩峠』を髣髴とさせる。実際、白土三平は、劇画の中里介山よろしく、長大な『カムイ伝』をその後に書き続けることになる。

 戦後の文学を考える際に、「漫画」を始めとするサブカルチャーとの関係を無視することはできない。特に、全共闘世代以降は、高橋源一郎を始め「漫画」から影響を受けた作家も少なくない。最近では、多くの出版社が文学作品以上に「漫画」の原作を熱心に募集している。

 純文学同様、「大衆」の消える80年代に入ると、「エンタテインメント小説」の方がふさわしくなる。このように見てくると、松井計の指摘は非常に的確である。「エンタテインメント小説」は「中間小説」であり、「大衆文芸」から離れ、むしろそれは「漫画」が継承している。ただし、「漫画」はその大衆性を引き継いでいない。

 本格ミステリーも日本では依然として健在である。しかし、今の主流は社会派ミステリーだろう。70年代に、角川映画の影響もあって金田一耕助シリーズがリバイバルしたが、読者の新作への関心は森村誠一の社会派ミステリーに向けられている。90年代以降、宮部みゆきや高村薫、東野圭吾などの人気作家はいずれもこのジャンルを手掛けている。江戸川乱歩のような探偵小説は『金田一少年の事件簿』や『名探偵コナン』といった「漫画」にその継承が認められる。

 超絶技巧的な剣術や忍術の使い手を主要な登場人物とし、その離れ業が醍醐味であるような作品を今日の読者はあまり期待していない。彼らは人間の機微・哀歓や指導者の組織運営・決断力、歴史の多面性といった現代を生きる自分たちに参考になることを欲する。舞台は前近代であっても、今の社会に通じるメッセージを読者は求めている。藤沢周平への高い評価がそれをよく物語る。一方、吉川英治のような超人的な技の対決は、歴史物に限らないけれども、「漫画」におけるキラーコンテンツの一つである。

 さらに、「大衆文芸」はビデオゲームにも継承されている。『戦国無双』のような歴史アクションゲームだけでなく、『信長の野望』を代表に歴史シミュレーションゲームも人気が高い。ビデオゲームもストーリー製が重要であり、「大衆文芸」や「エンタテインメント小説」を考察の際に「漫画」と同様に無視するわけにはいかない。

 かつての純文学や大衆文学の流れはいずれも中間小説に至っている。それに伴い、両者の区分が曖昧になっている。これは現代小説がロマンス復権だということを意味している。この傾向は「大衆」が使われなくなり始める80年代以降に顕著である。「大衆文芸」は文学の外にある「漫画」やビデオゲームが継承しているものの、そこに大衆性はない。「中間小説」を媒体によって捉えていてはこの状況がわからない。流行は同時代的社会の気分を反映する。しかし、それはなんとなくであるため、十分に対象化されないまま、作品を慣れと飽きによって消耗品とする。本質が認知されていないから、新たな流行に見えても、実際にはリバイバルであることが少なくない。歴史を隣接性ではなく、類似性から捉える時、本質的系譜が明らかになる。文学は「漫画」ともつながっている。今後の文学も過去のお流行が系譜学的に登場する可能性がある。松井計の指摘は極めて重要である。
〈了〉
参照文献
芥川龍之介他、『文芸的な、余りに文芸的な/饒舌録 ほか 芥川vs.谷崎論争』、講談社文芸文庫、2017年
天川晃他、『日本政治外交史』、放送大学教育振興会、2007年
伊藤整、『小説の認識』、岩波書店、2006年
尾崎秀樹、『大衆文学』、紀伊國屋書店、1964年
同、『大衆文学論』、勁草書房、1965年
同、『大衆文学五十年』、講談社、1969年
柄谷行人、『日本近代文学の起源』、講談社文芸文庫、1988年
佐藤敏章、『神様の伴奏者 手塚番13+2』、小学館、2010年
竹内オサム、『アーチストになるな 手塚治虫』、ミネルヴァ書房、2008年
中村光夫、『風俗小説論』、新潮社、1958年
平野謙、『昭和文学史』、筑摩書房、1963年
ノースロップ・フライ、『批評の解剖』、海老根宏他訳、法政大学主大庵局、2013年
柳田泉他、『座談会 明治文学史』、岩波書店、1961年
『日本文学の歴史12 現代の旗手たち』、角川書店、1968年
『大正の文学 近代文学史2』、有斐閣、1972年

松井計、@matsuikei、2023年7月4日9時5分投稿
https://twitter.com/matsuikei/status/1676019323520061440
青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/


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