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おいしい生活。(2013)

おいしい生活。
Saven Satow
Jan. 25, 2013

「『この味がいいね』と君が言ったから七月六日はサラダ記念日」
俵万智『サラダ記念日』

 今、堤清二元セゾン・グループ代表の回想『詩と芝居と経営と』が朝日新聞で毎月曜日に連載されています。これは「証言そのとき」というシリーズの一環です。セゾン・グループは70年代から文化戦略を経営に本格的に導入し、「文化の西武」とまで呼ばれるようになります。

 80年代の消費文化を語る際、西武百貨店を欠かすことはできません。それを象徴するのが糸井重里によるコピーでしょう。

 中でも最も言葉の用法がユニークだったのは、82~83年の「おいしい生活。」です。「生活」に「おいしい」という形容詞が修飾するのは一般的な用法ではありません。「明るい」や「暗い」、「楽しい」、「苦しい」ならわかります。「おいしい」を「生活」に修飾させたことが独創的なのです。

 独特の用法ですから、「おいしい」の意味について検討が要ります。「おいしい」に隣接する形容詞として「うまい」が挙げられます。両者の用法を比較することで相違点が明らかになります。

 Aこの牛肉はうまい。
 Bこの牛肉はおいしい。

 両者のニュアンスにたいした違いはありません。どちらを使っても、違和感なく理解されることでしょう。

 けれども、北大路魯山人は料理に関して「おいしい」と「うまい」を使い分けています。「うまい」は、料理に対してだけでなく、調理にも使えるからです。

 「うまい」と「おいしい」の意味の違いは味覚以外の用法で顕著になります。

 Aこの仕事はうまい。
 Bこの仕事はおいしい。

 Aは仕事の出来栄えがいいという意味にとれます。一方、Bはその仕事には何やら役得や利得がありそうだと感じられます。「うまい」は対象自身への評価を指しています。それに対し、「おいしい」は対象のもたらす効果を言い表しているのです。

 「うまい」は技能や技術、「おいしい」は取引や業務などを用法の範囲に含みます。別の例を挙げてもう少し明確にしてみましょう。

 Aこの掛け軸はうまい。
 Bこの掛け軸はおいしい。

 Aでは、鑑定人が掛け軸を前にうなずいている光景が目に浮かびます。一方、Bについては、古物商がもみ手をしている姿がイメージされます。確かに、両者の用法は、味覚以外では、大きく異なるのです。

 けれども、こう考えてくると、少々混乱してきます。「おいしい生活。」は西武百貨店の広告のコピーです。味覚以外の用法では、「おいしい」は必ずしもいい意味があるとは言えません。西武百貨店での商品購入が役得や利得のある生活にするというのでは、あまりにえげつない宣伝です。このコピーの「おいしい」はこうした用法とも違うことになります。

 糸井重里は、実は、矢野顕子の『おいしい生活。』という曲の作詞を担当しています。それを見ると、このコピーの意味がよくわかるのです。

 内容は他愛のないものです。「たたみいわし」や「ひざまくら」、「プラモデル」などお気に入りのものが羅列されているだけで、ジュリー・アンドリュースの歌で知られる『私のお気に入り(My Favorite Things)』のポストモダン版といったところです。しかし、なぜそれが「おいしい生活。」なのかわかりません。

 最後の部分に入ると、タイトルの意味が明らかになります。「くちづけ」が来て、「うーん ごちそうさま」で終わるのです。「ごちそうさま」は食事を終える際の挨拶ですが、それ以外の用法もあります。惚気話に対して、「もう沢山」という意味で「ごちそうさま」と言うのです。この用法の「ごちそうさま」に「おいしい生活。」が対応します。「おいしい生活。」は恋愛ユートピアのことなのです。

 当時、西武百貨店は「ニューファミリー」を主要顧客層の一つとして捉えています。それは団塊の世代以降に生まれた世代の夫婦と子どもから構成される家庭のありようです。特徴として、友達のような夫婦関係やマイホーム志向、強いおしゃれ感覚などが挙げられます。彼らは家庭を顧みない仕事中毒には冷ややかです。また、成金趣味も軽蔑します。「おいしい生活。」のメッセージは西武百貨店にはそのニーズに応える商品があるというわけです。

 彼らが理想とするのは恋愛ユートピアです。そこは攪乱要因がなく、安定しています。お気に入りのものやかわいい小物で満たされています。小さいけれど、すべて完結した確かな世界ですから、彼らは幸せなのです。

 けれども、こういう世界を声に出しておおっぴらに言うのは気恥ずかしいものです。そのため、コピーに「。」があるのです。

 糸井重里のコピーの特徴の一つに句読点の使用が挙げられます。句読点は書き言葉で用いられる補助機記号ですから、発音されません。句独法において、「、」、すなわち読点の使い方は個人差が大きいのが実態ですが、「。」、すなわち句点は文末に記す決まりが共有されています。

 このコピーでは、読点がなく、句点だけです。前者の用法には個人差があります。でも、後者は決まりが共有されています。恋愛ユートピアの幸せを外部に向かって声に出さなくても、内部でお互いが分かち合えていればいいというのが「。」の意味なのです。

 発表時期のみならず、「おいしい生活。」は80年代に一貫して続くトレンドです。俵万智が1987年に歌集『サラダ記念日』を発表し、大ベストセラーとなります。その中で描かれているのはまさに恋愛ユートピアです。

 『サラダ記念日』の短歌は広告コピーと見間違うものばかりです。俵万智が「おいしい生活。」の世界を詠めたのは、短歌という文学形式によるところが大きいのです。近代短歌は音数以外の政変はない定型の抒情詩ですから、安定し、完全に完結した世界を提示できます。恋愛ユートピアの物語を紡ぐには最適です。

 俳句には季語が必要ですし、川柳ではユーモアをこめなくてはいけません。完全に完結させることが難しいのです。また、散文ですと、物語を展開するため、外的・内的な起伏が要ります。恋敵や愛人、浮気心、嫉妬心などが作品に現われることになります。恋愛ユートピアとして閉じられないのです。短歌であれば、脅かすものがない恋愛ユートピアを描けるわけです。

 しかし、「おいしい生活。」はもう過去の話です。恋愛ユートピアは、そこにいる人たちがその世界を信じないと、持続しません。お気に入りのものとかわいい小物に囲まれた二人だけの楽園に浸ることはできなくなっています。味覚以外において、一般的に、「おいしい」は愛による幸福感ではなく、役得や利得の意味としてのみ使われています。気恥ずかしい理想がえげつない通俗へと変わったとも言えます。付け加えると、「ごちそうさま」にしても、惚気話を聞かなくなったせいか、奢られる場面で使われることが大半です。

 けれども、風化が著しいとは言え、3・11はかけがえのない物語を共有することの幸せを再認識させています。新たな「おいしい」の用法が現われるだろうと思わずにいられないのです。
〈了〉
参照文献
北大路魯山人、『魯山人味道』、中公文庫、1995年
俵万智、『サラダ記念日』、河出文庫、1989年

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