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新国立競技場問題と持続可能性(2015)

新国立競技場問題と持続可能性
Saven Satow
Jul, 18. 2015

「覆水盆に返らず」。

 過去からの恣意的な引用のパッチワークのポストモダニズム建築が逆説的に示したのは歴史を一朝一夕にはつくれないことである。歴史に対する自意識の優越性は自惚れでしかない。建築物は長い年月の中で街の風景として馴染み、何世代にも亘る人々の記憶に共有され、愛着の対象となる。そうした物語の蓄積した歴史を生かす建築が求められる。

 建築は時代や社会と相互作用している。しかし、それはしばしば世の中のニーズに応えることと語害される。同時代への適応は方向性を加速させ、社会的問題を促進させてしまうことがある。すぐに思い浮かぶのはバブル期に乱立したグロテスクな建物である。また、大都市圏郊外のニュータウンに建設されたマンモス団地は少子高齢化の象徴ともなっている。建築家の認識の見直しが社会的問題の緩和に貢献する。

 それは時流に反逆すればよいという短絡的態度ではない。政治的正しさ、ポリティカル・コレクトに抗うことが表現だという時代ではもはやない。PCの反論を許さない強制力はファシズム的であるという主張は堂々巡りをもたらすだけだ。社会の中の建築の認識から実践すべきである。

 現代社会における最大の課題の一つは「持続可能性」である。この大きな枠組みの中に古典を再構築するのが今日の建築の流れだ。五輪の建築もこういった枠組みに入っていなければならない。

 予算の金額以前に、歴史ある競技場を取り壊して新しく建て替えるという発想自体がアナクロニズムである。今の時代の建築としてふさわしくない。今回の新国立競技場問題はこの関係者の社会的責任の放棄の現われである。

 歴史を生かしつつ、持続可能性を実現するには総合的認識が要求される。

 難波和彦東京大学名誉教授は、『新しい住宅の世界』において建築の持続可能性を次のレイヤー構造で達成されていなければならないと説いている。

建築の4層構造(建築学の領域)
建築を見る視点(建築の様相)
プログラム(デザインの条件)
技術(問題解決の手段)
時間(歴史)
サステイナブル・デザインの条件
犀1層:物理層(材料学・構法学・構造学)
物理的なモノとして見る
材料・部品(構造・構法)
生産・運搬(組立・施工)
メンテナンス(耐久性・風化)
再利用リサイクル(長寿命化)
第2層:エネルギー性(環境学・設備学)
エネルギーの制御装置として見る
環境・気候(エネルギー)
気候制御装置(機械電気設備)
設備更新(エントロピー)
省エネルギー(CA・高性能化)
第3層:機能性(計画学)
社会的な機能として見る
用途・目的(腱物種別)
平面・断面設計(組織化)
機能変化(ライフサイクル)
コンバージョン(生活様式の変化)
第4層:記号性(歴史学・意匠学)
意味を持った記号として見る
形態・空間(表象・記号)
様式・幾何学(コード操作)
街並・記憶(ゲニウス・ロキ)
リノベーション(保存と再生)


建築である課題を克服しようとすれば、この4層のすべてにおいてそれが達成されている必要がある。持続可能性も同様である。エコロジーの目標の達成を狙うと、第2層のエネルギー性にのみ着目してしまう。しかし、それでは不十分だ。環境負荷の高い資材を使ったり、無用の長物のような巨大な建物を建てたりすれば、トータルでエコロジーに適っていない。

 第4層は年月と共に形成されるので、一旦失われると元に戻せない。歴史を生かすとはこのレイヤーを維持することを指す。保存と差異性の好例は横浜の赤レンガ倉庫である。これは第4層を持続させ、他のレイヤーは変更してある。

 このレイヤー構造のモデルは非常に汎用性がある。建築に限定すべきではない。持続可能性は現代的重要課題であり、他の領域でもこれを利用することは効果的である。工業製品や農業生産はすぐに応用が思いつく。芸術分野など可能性は広がるだろう。

 こうした時代潮流であるから、招致があろうがなから牢が、1964年の東京五輪で使われた国立競技場は本来残すべきである。第1層と第2層の改善で老朽化への対応は可能である。伝統は一朝一夕ではつくれない。しかも、それは一度失われたら、二度度戻らない。実際、今そうなっている。

 ノルウェイのオスロは五輪招致から撤退している。その一因は開催費用のである。オスロは、5兆円かかったソチと違い、既存施設を使うので1兆円で収まるだろうとされていたが、それ以上に膨らむと決断している。オスロの判断は市民から評価され、国際的にも一目置かれている。

 それに引き換え、新国立競技場問題はおよそ時代離れしており、世界に恥を晒している。歴史の再発見もなければ、持続可能性もない。20年以上前の頭のままだ。「失われた20年」と言うけれど、実際には。「見失った20年」である。現代を理解しないまま、東京に五輪を招致したと言わざるを得ない。予算規模ではない。問題なのは発想自体だ。
〈了〉
参照文献
難波和彦、『新しい住宅の世界』、放送大学教育振興会、2013年

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