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和算、あるいは日本文化の絶滅種(1)(2013)

和算、あるいは日本文化の絶滅種
Saven Satow
Aug. 02, 2013

「一つの文化には一つの充足性があるのです」。
森毅『数学と人間の風景』

第1章 和算の誕生
 文部科学省は、2013年7月28日、コロンビアで開かれた第54回国際数学オリンピックにおいて、日本代表として参加した高校生6人全員が銀メダルを獲得したと発表しています。国別順位は11位です。大会には97の国と地域から528人が参加、1日4時間半、各3問の筆記試験を2日に亘って実施します。表象システムは成績上位から順に12分の1に金、6分の1に銀が与えられます。日本代表は全体の12分の1に全員が位置したというわけです。

 数学の問題を解くことを競うのは何も今に始まった出来事ではありません。ルネサンス期のイタリアで活躍した算法教師は公開の数学試合に挑んでいます。1対1でお互いに問題を出し合い、制限時間内にそれを説く形式です。1535年のアントニオ・マリア・フィオーレとニコロ・タルターリャの決闘は「数学の巌流島」とも呼んでいいほど名高いものです。結果は、フィオーレが1問も解けなかったのに対し、タルターリャが全問正解と劇的に終わります。数学試合はサブカルチャーの格好の題材でしょう。

 このように、数学の歴史には文化的な興味を惹く出来事が少なからずあります。数学は測量や税の計算、暦の作成、取引決済などに欠かせない実用的なアートですから、世界各地で発展しています。日本も例外ではありません。ただし、近世にガラパゴス化した数学が発達しています。それが和算です。

 「和算」は、明治期に西洋から輸入された数学の「洋算」と区別するために、その前から日本で発展したものを指す名称として使われています。それ以前は、「算術」や「算学」と呼ばれています。また、数学者は「算家」です。

 多くの文物同様、数学も大陸からもたらされています。奈良時代の718年、養老令により貴族の子弟の教育機関度である大学寮が敷かれます。算博士2人と算生30人が置かれ、『九章算術』を始め九つの算書が学ばれています。学習内容は研究ではなく、実用的な公式の暗記が主だったと推定されています。

 当時の計算器具は古代中国で考案された算木です。これは色分けされたマッチほどの棒で、黒がマイナス、赤がプラスを表わします。並べて使い、10進法に基づき、向きを変えて位の違いを示します。

 算博士は後に世襲となり、形骸化します。この算術は、明治に入るまで、陰陽道と関連して術数や算木を用いた易や八卦、すなわち占術として受容されています。
 
 奈良時代の算術の浸透ぶりを『万葉集』が物語っています。巻十一に次のような歌が収められています。

若草乃 新手枕乎 巻始而 夜哉将間 二八十一不在国

 この「二八十一」は「にくく」と読みます。「八十一」は「九九」です。他にも「二五」を「とう」や「二二」を「し」、「十六」を「しし」と読ませる例もあります。

 興味深いのは「三五」です。「三五月」で「望月(十五夜)」と読ませているのですが、中国でもこの用例が見られるのです。唐の詩人白居易は、810年8月の十五夜に寄せて、『三五夜新月色』を創作しています。殷の時代の甲骨文の中にも「明月三五」と刻まれたものがありますので、こうした用法は中国から日本に伝わったとされています。『万葉集』は東アジア文化の産物なのです。

 室町時代末ないし戦国時代にそろばんが大陸から伝来したとされています。海外交易や貨幣経済の隆盛がそろばんを必要としたと考えられます。この手動の簡便な計算器は拡大した商業に伴って急増した実用計算を迅速に処理したことでしょう。何しろ、電卓が普及するまで日本で最も一般的な計算器だったように、資本主義の計算にも対応たくらいだからです。

 『徒然草』(1330~31頃)の137段に「継子立」に関する記述が見られます。これは後にねずみ算として知られる指数計算です。九九の語呂合わせ程度だった『万葉集』からやはりかなり進歩しています。

 和算の計算は算木や筆算にそろばんで行います。そろばんが浸透した後に、和算が誕生したと言えます。和算の直接の起源は戦国時代にさかのぼると推定されていますが、詳しいことはわかっていません。南蛮貿易を始め商業活動がさらに成長し、実用計算の量は膨張するから、効率化が求められます。けれども、状況証拠はあっても、物証がありません。確かなのは、豊臣秀吉による朝鮮出兵の戦利品の中に中国の算書が含まれており、その後の和算の発達に影響を及ぼしたことです。そうした蓄積を背景に和算は誕生するのです。

 現存する日本最古の和算書は著者不明の『算用記』(1600~20頃)です。これには割り算の九九である八算の説明が記されています。当時、そろばんによる割り算はまだ複雑で、理解している人はほんの一握りです。実用的な方法が求められています。中国では「九帰法」と呼ばれていたのですが、日本においては1の割り算が省略されてそう命名されています。なお、九九という名称は、元々、「九九八十一」から始めたことに由来します。

 1622年、日常計算の具体例を述べた『割算書』が出版されます。作者は京都で「天下一割算指南」の看板を掲げた和算塾を主宰していた毛利重能です。この二書から割り算の解説の需要が高かったことがわかります。これ以外にも算書が世に出回っていたと推測されます。しかし、それらも二書同様に系統立っておらず、具体例と解の羅列という体裁だったでしょう。

 け手ども、和算はこの時点ではまだポピュラーな人気を得てはいません。和算の生みの親は毛利重能の弟子の一人である吉田光由です。彼は、1627年、『塵劫記』を発表します。このベストセラーによって和算がブームになります。改訂が5回も繰り返され、多くの海賊版も出版されています。さらに、タイトルに「塵劫記」を付せられた和算書が明治までに400点ほど刊行されています。『塵劫記』は和算の源流と言えるのです。

 光由は嵯峨の豪商である角倉一族に属しています。角倉家は河川改修や金融業、出版業などの事業の他、朱印貿易にも関連しています。実学と東アジア文化の交差する環境です。光由は実務における算術計算の必要性や東アジアの最新数学情報の双方を認識した人物です。

 内容は、そろばんによる四則演算、大数と小数の呼び方、八算、単位といった基礎の解説に加えて、日常の比例問題、平面形(検地)や立体形(容積)の求め方などの演習もあります。特に、実用性の高い問題には覚えやすい名前が付せられています。今日でもよく知られる「ねずみ算」はこの書に由来します。他にも、油分け算や盗人算、入れ子算など一度聞いたら忘れない名称が収められています。さらに、読者の興味を惹くように絵が載せられています。

 光由は、1641年、『塵劫記』を大幅に改変した『新編塵劫記』を出版します。巻末に解答を伏した12問を付けます。この習慣を「好み」、こうした問題を「遺題」と呼びます。問題を遺すのはフェルマの大定理を思い起こさせます。後続の人たちが競って挑戦し、自ら遺題をつくるものまで現われ、和算の慣習となっていきます。これを「遺題継承」と言います。この中で和算は高度に発展し、算木や算盤を使った一元高次方程式の解法、すなわち「天元術」といった実用性を超えた問題も出現します。

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