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マルクス主義と政治(2013)

マルクス主義と政治
Saven Satow
Jan. 12, 2013

「現実において、そして実践的唯物論者たちすなわち共産主義者たちにとって問題なのは、現存の世界を変革すること、現前の事物を実践的に攻撃し、変えることである」。
カール・マルクス=フリードリヒ・エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』

 マルクス主義は、その理論・実践を通じて、「政治と社会はどのように変えるべきか」を改めて顕在化させている。従来、政治に関する認識は政府や議会など国家の統治機構に限られていたが、この思想は経済を始め社会全般へとそれを拡張する。その壮大な体系は「政治が変われば、社会が変わる」から「社会が変われば、政治が変わる」という発想の転換をもたらす。しかし、マルクス主義は、そうした認知に基づき、統治機構を通じた改革でなしに、社会全体を変革する革命を希求する。それは、政治的イデオロギーでありながら、政治の否定に向かったことを意味する。その結果、「政治と社会はどのように変えるべきか」を改めて問い直されることになる。

 マルクス主義は社会主義に位置づけられる。それは、近代の経済社会でありながら、その理念と矛盾する資本主義体制に対する最も対抗的な挑戦の理論・実践である。

 スコットランド啓蒙に属するアダム・スミスを始めとする古典派経済学者の理論に基礎づけられ、18~19世紀に経済的自由主義が市民権を獲得する。彼らの登場以前、政府は重商主義的政策を採用している。それは国の富を増やすために輸出を奨励し、輸入を制限することで金や銀などの貴金属を蓄積しようとするものだ。その政策は既得権益を持った商人や大土地所有者を優遇する不平等を容認する。しかし、古典派経済学者は、国富を国民が生産する財やサービスの総量で測られると主張する。そのために、政府は貿易制限や関税を通じて国内産業を保護することをやめ、自由貿易をとるべきだ。それは国際的な分業を促進し、全体の富を増加させる。そもそも市場経済は「見えざる手」によって自然に調整され、個々の利益追求が社会全体の利益につながる。その際、工程を役割分担する分業が生産効率を上げる。経済における政府の過度な介入は、むしろ、こうした市場の効率を損なう。国家は経済活動を自由にすべきで、その役割は国防・法秩序の維持、経済取引の円滑化、公共財の提供である。新興ブルジョアジーは自由市場と自由貿易の「自然的自由の体系」(アダム・スミス)の思想を歓迎し、議会を通じて英国政府の政策にも反映さていく。

 こうした経済的自由主義は資本主義の発展に大きく寄与する。それは経済が政治に影響を及ぼす時代の到来を意味する。いち早く産業革命を経験したイギリスは資本主義により経済成長を続け、国富を増大している。しかし、それは社会における格差の拡大を招き、近代の平等の理念に反する事態をもたらす。この不平等の拡大は国家と個人の対立ではなく、社会内部の摩擦を激化させる。近代において個々人は相互に主体として扱わなければならないのに、富める者が貧しき者を客体、すなわち物や道具として取り扱おうとする。格差が社会を分断し、両者が支配関係をめぐって争う。

 資源を効率的に配分する市場経済が理想的に機能するなら、こういった事態などあり得ない。しかも、そのシステムはジョン・ロックの社会契約説に論拠を得ている。彼によると、自然物は人間の労働によって利用可能な資源になる。その行為がなければ、それは自然のままだったので、労働をした人の所有物になる。個人が自由で平等、自立している以上、労働に裏付けられた私的所有権は不可侵の基本的人権である。ただし、双方が同意すれば、所有物を交歓することができる。市場はその自由で平等、自立した個人の経済活動を体現している。売り手として市場に参加した場合、できる限り高値で売りたい。しかし、自身が加わることで供給側が増え、価格が下がる。他方、買い手として市場に参加した場合、できる限り安値で買いたい。けれども、自身が加わることで需要側が増え、価格が高くなる。このように、市場においては誰もが価格を思い通りにできない。私的所有権に基づく市場の交換は近代の理想を具現する。

 市場が理想通り機能すれば、経済において近代の理念が実現するはずだが、実際にはそうなっていない。社会に不平等があるなら、政府がそれ御是正すべきだと思いたくなるけれども、古典派経済学はそれを認めていない。なるほど社会は正義、すなわち社会的公正に基づいて存立する目的から国家を打ち立てている。政府は社会のために働かなければならないが、経済活動に干渉しない方が望ましいので、その結果により生じた不平等を傍観するだけである。救貧政策を実施しても、労働力の確保を主目的としており、慈善ですらない。

 そこで、社会主義はそういった資本主義に対して異議を申し立てる。経済的自由主義は個人主義に立脚するが、社会主義は相互依存主義をとる。前者は自由で平等、自立した個人が集まって社会を形成すると考える。他方、後者は自由で平等な個人が諸関係の中で相互依存して社会を構築すると捉える。社会主義という名称は個人主義に対する抗いに由来する。ただし、それは前近代的な共同体主義と異なる。共同体が先行して個人がそこに内属するとは考えない。社会主義はあくまで個人から議論を出発する近代主義の範疇にある。相互依存の人間観に基づく連隊によって社会は友愛の理念を実現する。それを古典派経済学の修正と結びつけるのがイデオロギーとしての社会主義である。

 社会主義は、重要インフラの国有化を提唱するように、政府が社会の不平等是正のために経済活動に介入することを認める。格差という正義に反する状態が社会にあるのだから、ロックの社会契約説が説く通り、国家は近代の理念実現に向けて働かなければならない。経済的自由主義も社会主義も社会の安全装置として必要性を認めているけれども、そのコントロールをめぐって対立する。社会主義にとって、政府は共和政ローマのコンスルに相当する。富める資本家階級は元老院、貧しき労働者階級は民会を構成し、両者が対立しているのなら、貴族で話の平民尾利益をコンスルが保護するべきだというわけだ。しかし、それは国家の社会に対する抑圧の口実になりかねない。

 こうした社会主義を古典派経済学に対する批判を通じて発展させたのがカール・マルクスである。古典派経済学はどのようにすれば社会や国家が豊かになるかを説く。例外的にロバート・マルサスは貧困の未来を警告したが、その根拠は人口問題である。市場経済が理想的に機能すれば、貧困問題などありえない。それがあるとすれば、そのメカニズムの働きを何かが邪魔をしているか貧民たちが怠惰であるかのいずれだ。一方、マルクスは資本主義自体に貧困をもたらす欠陥があると指摘する。彼はそれを古典派経済学の理論を批判的に考察することで明らかにしている。

 マルクスの経済学批判の中心は私的所有権と分業をめぐる考察である。アダム・スミスは自立した個々人をつなぐものが分業だと肯定的に捉えている。だが、マルクスは、逆に、人間を疎外するものと否定的に見る。分業は個人を生産工程の歯車の一つに貶め、お互いを遠ざけてしまう。主体であるはずの人間はこの疎外により客体化される。それをもたらすのが資本主義という経済システムであり、その根底にあるのが私有財産制だ。これを破壊する革命のプログラムがイデオロギーとしてのマルクス主義である。

 言うまでもなく、革命を理論に取り入れたのはマルクスが初めてではない。ジョン・ロックが人民の抵抗権として革命権を認めている。しかし、それは社会契約に違反した政府の変換であって、政治体制自体の転覆を目指していない。自由で平等、自立した個人が集まって社会を形成する。正義に基づいてその社会が機能するために、人々は権利の一部を信託して国家を樹立する。だが、政府が自身の利益のために活動し、人々の要求にも耳を貸さないとしたらそれは打倒されなければならない。言わば、激しい抗議デモが連日繰り返された挙げ句、軍も離反、独裁者が国外逃亡し、自由で民主的な統治を国民に約束する新政権が誕生するというイメージを思い浮かべればよい。ロックの革命権はあくまで政治を変えることが目的である。

 マルクス主義は古典派経済学に対する批判を通じて貧困について説得力のある説明を示す。その際、社会全体への洞察も提供し、政治に関する認識を国家統治から社会経済へと拡張している。統治機構ではなく、経済社会全体を批判的に考察することが政治の論議である。従来は政治が変われば、社会が変わると考えられている。個別・具体的な課題を議会の討議を通じて調整しつつ改善を蓄積して社会を改革することが政治である。一方、マルクス主義は国家体制を一気に変換して社会を変革しようとする。国家は正義に基づく社会のために働く。しかし、社会はその基本原理に則る資本主義によって理念に反した状態にある。だから、社会を変えなければ、政治も変わらない。

 この認識によりマルクス主義はラディカリズムへと傾斜する。政治機構を通じた改革でなしに、社会全体を変革する革命へと向かう。それを担う中心が資本家階級に搾取される労働者階級である。この革命の物語は唯物史観や階級闘争によって壮大な理論体系に位置付けられ、正当化される。
 
 プロレタリア独裁も社会主義に認められる共和政ローマの統治構造のアナロジーから理解できる。先に述べた通り、資本家階級は古代ローマにおける貴族、労働者階級は平民に相当する。統治の中心は後者の民会ではなく、前者によって構成される元老院である。しかし、貴族が私益の追求に走った場合、平民の利益を守るためにコンスル、すなわち独裁官を置くことができる。プロレタリア独裁はこのアナロジーである。
 
 しかし、急進主義は概してユートピア主義であり、マルクス主義も例外ではない。ユートピア建設という目的のための手段としての暴力は正当化される。だが、急進主義者は往々にして理想にとらわれすぎる結果、現実認識を失う。社会を変えれば政治が変わるとすれば、それは政治の否定に陥る。三権分立や政党政治といった近代的統治制度を廃止し、イデオロギーに基づくものへと革新する。また、近代は公私分離により、政治を公的領域に属するとして個人の私的領域への干渉を禁止してきたが、従来の政治の否定によりこの原則も撤廃される。社会を変えることが政治を変えることなのだから、すべてが政治的=イデオロギー的に判断されることになる。そうした非政治主義を認めない政治主義は全体主義への道を開いてしまう。

 現時点に至るまでマルクス主義を冠した体制は資本主義を越えてなどいない。マルクス主義は政治的イデオロギーであるにもかかわらず、「政治」を否定したために失敗してしまう。政治と社会の関係はそこまで単縦ではない。しかし、だからこそ、近代的な政治制度が未発達な地域でマルクス主義は革命イデオロギーとして効力を発揮したと言える。かくしてマルクス主義は「政治と社会はどのように変えるべきか」という問いを改めて顕在化させる。

 以上を要約しよう。経済的自由主義に基づく古典派経済学に裏付けられた資本主義は経済成長をもたらしたものの、その社会に格差を生じさせる。こうした不平等は近代の平等の理念に反し、社会内部で支配をめぐる闘争を激化させる。個人主義を前提にする経済的自由主義に対し、人間を相互依存的存在と捉える社会主義が異議を申し立てる。その範疇に入るマルクス主義は古典派経済学の批判を通じて資本主義の諸問題を明らかにし、政治に関する理解を社会全般へ拡張する。政治は統治機構だけを指すわけではない。政治を変えるためには社会を変えなければならないとしてマルクス主義は革命を指向する。けれども、それは政治の否定であり、マルクス主義を論拠にした国家体制は、結局、失敗に終わる。

 マルクス主義が近代の政治思想に与えたインパクトは非常に大きい。政治に対する経済の影響や貧困をもたらす制度的メカニズムの解明、政治と社会全般との関係など幅広い洞察は今日においても発展的に継承されている。実際、マルクス主義に反対する者たちでさえその捉え方を無自覚なままとっている。しかし、マルクス主義は革命に解決策を求めすぎたため、政治的イデオロギーであるにもかかわらず、政治を否定してしまう。議会政治を唾棄して直接行動を繰り返し、革命こそが唯一の解決策だと嘯くことは政治的怠惰でしかない。おそらく晩年のフリードリヒ・エンゲルスが議会主義に接近したことは、その問題点に気付き、マルクス主義に政治を取り戻す試みだったと考えられる。政治と社会を変えるにはどちらか一方だけに取り組めばすむわけではない。「政治と社会はどのように変えるべきか」という反省はマルクス主義にとって依然として再帰しなければならない問いである。
〈了〉

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