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頭括型と尾括型(2012)

頭括型と尾括型
Saven Satow
Feb. 25, 2012

「わずか一言でも下手に受け取られると、10年の功績も忘れられてしまう」。
ミシェル・ド・モンテーニュ『エセー』

 明治を迎え、文学者たちは近代社会を描写するのにふさわしい書き言葉を模索する。話し言葉に立脚した新たな書き言葉を構築する言文一致には多くが参加している。さまざまな方向性があったけれども、それは次第に語尾の問題へと収斂する。最終的に、「である」が中心的な地位を占めたと言えるだろう。

 「である」には「なのである」という類似した言い方がある。しかし、両者に機能の違いがあることは確かである。日本国憲法を始めとする法律の条文には「である」が使われても、「なのである」は見当たらない。その語尾にはそぐわないニュアンスがあるからだ。

 「である」と「なのである」の違いを検討してみよう。

 吾輩は猫である。名前はまだ無い。

 これは、言わずと知れた夏目漱石の『吾輩は猫である』の書き出しである。ところが、次のように書き換えると、違和感が生じる。

 吾輩は猫なのである。名前はまだ無い。

 まるでバカボンのパパなのだ。「である」を「なのである」に置き換えただけで、続く文とのつながりが悪くなる。「である」はこの小説の書き出しにふさわしいが、「なのである」はその任を果たせない。

 『吾輩は猫である』には「なのである」が数ヵ所で用いられている。最も連発される件を引用しよう。

 日本の人間は猫ほどの気概もないと見える。情なさけない事だ。こんなごろつき手に比べると主人などは遥に上等な人間と云わなくてはならん。意気地のないところが上等なのである。無能なところが上等なのである。猪口才でないところが上等なのである。

 今度は、逆に「なのである」を「である」に入れ替えてみると、次のようになる。

 日本の人間は猫ほどの気概もないと見える。情なさけない事だ。こんなごろつき手に比べると主人などは遥に上等な人間と云わなくてはならん。意気地のないところが上等である。無能なところが上等である。猪口才でないところが上等である。

 両者を比べると、オリジナルが非妥協的で、断定的な印象を与えるのに対し、改変後は穏当な感じがする。主張の強度に明らかに差がある。

 意見を述べる際には、その理由や根拠となる実例を示す必要がある。意見・理由・実例を対象や目的、場面、読者などに応じて効果的に配置しなければならない。意見をどこに、意見を表わす文をどこにするかで大きく二つのタイプに分けられる。冒頭にもってくる文章構造が「頭括型」、末尾に置くのは「尾括型」である。

 なお、英語のエッセイや論文では「双括型」を使うのが一般的である。作品全体ならびに各段落共に「導入(Introduction9」・「実例(Example)」・「結論(Conclusion)」の構成をとり、導入と結論の主張は原則的に一致させる。これを知らないままで英文を書くと、英語人から門前払いを食う危険性がある。この構成を利用すれば、長い英文の報告書や論文も短時間で読むことができる。

 「なのである」は尾括型で、結論としての意見の役割を果たす文の語尾に用いられる。頭括型では、意見の文章であっても、基本的には「なのである」は避けられる。その構成では、それが結論ではないからだ。

 「なのである」が意見を表わす機能があるとしたら、法律の条文に使われないのは当然である。特定の誰かの意見が法律と認められる体制はとても近代国家と呼べない。

 先に引用した『吾輩は猫である』の「である」から「なのである」への書き換えがもたらす印象の違いもこうした理由による。前者が主観性を前面に出して意見を言っているのに対し、後者が客観的な態度をとった事実を語っているようで、おとなしく感じられる。

 尾括型を頭括型に変える場合、意見の役割の文の末尾は「である」にしなければならない。一方、頭括型を尾括型に変更するときには、意見の文の末尾は「なのである」にした方が効果的である。

 尾括型でも、「である」だけで言い表すことができる。けれども、注意が必要だ。「である」の文は、それだけで事実を述べているのか、意見を訴えているのか判断がつきにくい。そうした文章を作成する場合、文と文のつなぎが非常に重要となる。難しいだけに、作家の力量が試されるというものだ。「なのである」の意見は結論として提示されるので、これ以上の発展性を持たない。そういった余地を入れたいときに、「である」を巧みに使う方法もある。読者からは、ただし、迫ってこないだとかぎくしゃくしているとか印象を持たれがちになる。

 実は、書き出しに「なのである」が用いられる場合もある。ただし、その際、概して、最初の段落がこの一文だけで、すぐに第二パラグラフへと移る構成がとられる。先の意見に向かって以下の文章が理由や実例を挙げて循環して戻ってくる構造になっている。自分の意見を強く出したいときに、とられる手法である。

 「なのである」が濫用される文章には、その機能を理解した上で、書き手の意図を見極めるべきだろう。ジョークなのか、それとも独善なのかはTPOによっては重要な意味を持つ。前者なら笑えても、後者には警戒が要る。リテラシーからの認識にはこうした文章論の視座を不可欠とする。

 ここでは、「である」と「なのである」だけに限定したが、「だ」と「なのだ」の違いも併せて考えると、さらに文章における各文の役割が明確になるだろう。こうした言語への繊細な感覚が今の作家にも欲しいものだ。

 「である」や「なのである」の機能の違いをよく心得て使い分けている書き手もいる。一方で、それらの語尾を好まない作家もいる。谷崎潤一郎は「なのである」をわりに避けることで知られている。随筆『陰翳礼讃』ではわずかに5ヵ所だけである。それによりもたらされる文章の印象を受け取るだけでなく、内容と形式から深く掘り下げてみるのも文学のさらなる楽しみでもある。自然にあるいは不自然に感じられる文章にも、時として、作家が機能を利用してメッセージを織りこんでいる場合もある。それを見逃すのはもったいない。
〈了〉
参照文献
谷崎潤一郎、『陰翳礼讃』、中公文庫、1995年、
夏目漱石、『吾輩は猫である』、青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/789_14547.html


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